親との思い出

管理人

私の父は、明治最後の年に福島の小さな村の貧しい農家に生まれました。
母は、父より8年後に東京下町の彫金師の家に生まれました。
父は小学校を出ていろいろな仕事をしたようです。
服部時計店では社員として努めたと聞いています。
父と母は東京で知り合って結婚し、東京大空襲の時、命からがら生まれ故郷である福島に逃げ延びた
と聞いています。

父は、経験を生かし時計ラジオ店を開業します。
男の子3人が生まれます。
長男は食べるものも薬品も不足している時でしたので、肺炎で亡くなったと聞いています。
その悲しみは計り知れないものであったと思われます。
父と母はキリスト教でない信仰に入ったのです。
その1年後に生まれた三男の私は、聖書で言うベニアミンのようであったかも知れません。
父は厳しい人で、言うことを聞かないと外の木に縛り付けました。
母は父にとりなしをしてくれていたように記憶しています。
反面オートバイに乗せていろいろなところに連れて行ってくれる優しい父でした。
父は現金収入を得るため単身横浜に就職し、2年後に家族を迎えに来て一家は横浜の戸塚に住むことになるのです。
父は2人の子供と離れていた距離を縮めるために普通とは違う接し方をしてくれました。
車の運転を早朝に教えてくれたのです。
この時から2人の息子はそれぞれの道を歩み出したのかも知れません。
兄は音響、写真を選び、また母の信仰を受け継ぎました。
私は機械いじり、バイクという道を選び、信仰は兄について行ってる程度でした。
2人とも家計を気遣ってお金のかからない学校を選びましたが、両親は「お金のことは心配するな」と言ってくれたのはありがたかったことでした。
成長し、両親、特に父とゆっくり話していないことに気付くのですが、大事なこととして話したのがクリスチャンになった事を告白する事でした。
このことが父の救い、そして母の救いにつながっていったことはなんとすばらしいことであったかと思わされています。
昨年8月に父の仏式の23回忌、今年2月に母の7回忌をしました。
それよりも教会で召天者記念として先週覚えていただいたことは何事にもまして感謝のことでした。

伊東昌彦

過去の記事