◆東日本大震災から「絆」ということが言われています。現実の人間と人間の絆、家族の絆は、何があっても破れないほど頑強なものでしょうか。些細な行き違いでもろく崩れ去ることがあります。「家庭の平和」が破られるということはむしろよくあることです。

◆病気や交通事故で父、母や子を失う家庭の悲劇もなくはないのです。戦争のような運命の荒波の中で家庭の平和が引き裂かれるということもあります。しかし、そうした戦争や事故や病気によるだけではありません。家庭がその内側から崩れ、崩壊していくということもあります。信仰者の家もまたそうした崩れ行くもろさからまったく免れているわけではありません。

◆これからしばらくの礼拝メッセージ、創世記第37章から始まりますヨセフ物語を通して「聖書の人生観」を改めてご一緒に学んでいきたいと思います。この物語も、一つの家の平和な生活が崩壊するところから出発しています。家庭の絆のもろさを知らされます。

◆ここで、私たちは、信仰者の家の物語を学ぶことになるのですが、しかもそれは、ヤコブの家、つまりイスラエルの家です。ですから、それは、神の民、信仰の共同体とその中の平和が、なぜ、どのように崩壊するのか、そして、またそれがどのようにして再建されるのか信仰の共同体の歩みを学んで行きたいと思います。

石田政美

◆「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:1〜3)

◆「風」、「音」、「炎のような舌」など、ここには聖霊降臨の出来事が聴覚や視覚など五感に感じられる経験として描かれています。

◆そして、その結果として人々の上に生じた現象が記されています。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(4節)聖霊は、いろいろな言葉を語る能力を弟子たちに与えたというのです。それは一つの奇跡的な現象であったといえましょう。

◆しかし、ここで重要なことは「弟子たちがほかの国々の言葉で話しだした」という不思議な出来事よりも、そうしたさまざまな言葉を通して「福音が語られ始めた」ということこそ肝心なことなのです。言い換えるなら、聖霊降臨とは「宣教の開始」を意味する出来事だったのです。

◆それゆえ、ペンテコステとは「教会の誕生」というよりも「宣教する教会の誕生」を意味する出来事で、弟子たちがこの世に向かって公に主イエス・キリストを宣べ伝える力を与えられ、ただちに伝道を開始した日であったというべきでしょう。

石田政美

◆臨時牧師に新たに招聘され、教会はどのような歩みをしたらよいか思案してきました。

◆私の前任教会で協働牧会(複数牧会)をした川端光生牧師(キリストの栄光教会)の著書『キリスト実現をめざして』の「教会の祈りと願い」に触れ、これだ!これで歩んでいこうと強く思わされました。

◆さっそく定例祈り会の学びの書として使用しています。  

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キリストの栄光教会の祈りと願い
 私たちは心を尽くして思いを尽くし力を尽くして主を愛し、キリストが私たちを愛されたように私たちも互いに愛し合います。  私たちは主を礼拝することを喜びとし、主にこの身を捧げて忠実に仕え、いかなる時も主を礼拝することを喜びとし、主にこの身を捧げて忠実に仕え、いかなる時も信仰を働かせ、あきらめることなく主の時を待ち望みます。  私たちは神の家族として、互いに祈り合い、裁かずに赦し合い、謙遜に仕え合い、聖霊によって心を一つにし、キリストの臨在が見えるような暖かい教会を建てあげます。  私たちは御言葉の学びと祈りに専念し、キリストの十字架と復活を宣べ伝えます。私たちの切なる願いは、私たちの教会と私たちの人生において主の栄光を見ることです。  どうか父なる神の愛とキリストの恵みと聖霊の力によって、これらのことを実現させてください。    
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石田政美

◆「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを
選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

◆主の召命に応えて、松﨑牧師が4月末でJOYを辞任し、米国のラーレー日本語教会へ赴任されました。JOYに着任して2年7か月という短い働きでした。1月14日(土)に臨時しもべ会が招集され、突然辞任の話を聞いた時、驚きで言葉がありませんでした。主から召しがあったというのが、その理由でした。

◆慰留する気力もなく、その後、教会で1月29日(日曜日)に辞任の発表があり、2月12日(日曜日)の臨時神の家族会で松﨑牧師の辞任が承認されました。聖書にはアブラハム、モーセ、パウロなど多くの人々が主の召命を受けて神に従い、生涯を捧げたことが記されています。

◆JOYでは牧師招聘委員会を立ち上げ、松﨑牧師の後任となる牧師探しに入っています。しかし、主はすでに次の牧師を決めておられるのだと思います。石田牧師が臨時牧師として、ご自分の健康も顧みず福音宣教聖礼典、牧会の働きを引き受けてくださいました。「しもべ」が手分けして、メッセージ、巻頭言などを担当することになっていますが、すべての教会員が自主的に教会の奉仕に係ることが求められます。私たち一人一人が教会とは何か、牧師とは何かを考える良い機会ともなるのです。教会は信徒の教会です。すべての教会員が主から賜物をいただいています。そして、それぞれ使命が与えられています。主の召命に応えて分に応じて主に仕えていきましょう。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:27)

神山 武

今週の一面『~感謝~』4/30  

Shin1

 本日の礼拝は、私の横浜JOY教会での最後の礼拝となりますが、この一週間、引越しの準備とメッセージの準備をしながら、色々なことが思い出されました。
2年半前、帯広から横浜に着いたその日、私たち夫婦は、JOYチャペルの皆さんに、本当に温かく迎えていただきました。誰もいない(はずの)真っ暗な教会の礼拝堂に入ると、突然灯りがつき、クラッカーの大きな音に驚かされました。そこには、大きなウエルカムの飾り付けがあり、多くの方々に温かく迎えていただいたことを今でもはっきりと覚えています。
その後の10月5日(日)に、礼拝の中で転入会式と按手式を行い、午後の歓迎愛さん会のときに、教会の皆さん一人一人の思いが詰まった、石田先生とお揃いの立派なガウンをいただきました。そのときの感動を忘れることはできません。また、毎週皆さんと心を一つにして真剣に礼拝をささげることができたことは素晴らしい思い出です。今後の私の歩みにとって無くてはならぬ経験です。他にも思い出すことはたくさんあるのですが、一つ一つ言っていたらきりがありません。
あれから、2年半。私は、皆さんに本当に温かく迎えていただいたこと、そして、人生経験も牧会経験も少ない未熟な牧師である私を、これまでゆるし、支え続けてくださったことを、ただただ感謝するばかりです。そして、人間的には、まだまだ皆さんと一緒に礼拝し、教会を建てあげたいという思いです。また、短い間でしたが、JOY教会の牧師としての歩みの中で多くのことに目が開かれ、学ばせていただいたことも深く感謝しています。本来ならこれから、JOYの皆さんに対して、これまでの恩返しをしなければならないと思うのですが、そうはなりませんでした。しかし、次に主に示された地で、教会で、その恩返しができるように、主の導きに従って歩みたいと思います。
JOYの皆さんとの出会いとこれまでの主にある交わりを心から感謝いたします。場所は遠く離れても、今後も引き続き、神の家族として共に祈り合い、励まし合えるような交わりを続けることができれば幸いです。今後ともよろしくお願い致します。

松﨑 準

今週の一面『マイナスの賜物』4/23  

Shin1

◆先日の松﨑先生のメッセージのなかで、心に響いたひと言がありました。『弱き者を用いられる神は、私たちが良くないものと思われるものまで賜物として用いてくださる』というメッセージです。『マイナスの賜物をも用いられる神』というメッセージは私を励ましてくれました。

◆そう言えば、5年前に妻が天に召された時に、"何故神様はこんな残酷なことをされるのか?"と悲しみ恨んでいた私でした。しかし、教会員の方々や周囲の方々が私たち家族を励まし支えてくださいまして、ようやく私たちも希望と元気を取り戻すことができました。先日、会社の同僚で脳腫瘍のため約10ヶ月の闘病の末、亡くなった方がいます。手術後、意識は戻らなかったのですが、お見舞いに行った際に、妻の闘病中のことを奥様と分かち合ったり、マザーテレサの絵本をプレゼントしたり・・・。生憎、3月には亡くなりましたが、葬儀の際にも3人の息子さんたちと、我が家の子供たちのことを話しながら彼らを励ますことができました。同じような苦難を体験したものだからこそ、寄り添える特権があるようにも感じました。神様は、このように私にとってマイナスと思える体験までも用いられるのだと感謝しました。

◆『ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。・・・』と語ったパウロは、上から目線ではなく同じ目線で隣人に寄り添うことを奨めています。私の場合は、はからずもそのようなチャンスを与えられたのでした。これも『マイナスの賜物』のひとつだったのだなあと気付かされました。万事を益としてくださる神に期待してこれからも歩んでいきたいと思います。

澤田 猛

このたび、牧師に復活することになり、聖書の中で高齢で神様のご計画に用いられた人物モーセ、アブラハム、カレブ、ヨシュア、黙示録を書いたヨハネ等に思いをはせました。今とははるかに厳しい状況の中で、ただただ神様の御言葉にのみ信頼して仕えたことに倣っていきたいと思います。

①「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(ヨエルズ28、使徒行伝2:17)「幻のない民は滅びる」と言われます。78才の老牧師ですが、神様がご計画されているJOYチャペルの具体的な夢、ビジョンという主の栄光を教会員みんなと一緒に見ていきたいと思います。

②「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(II.コリント4:16)との御言葉を信仰を持って心に受け入れ、霊性を高めてまいります。

③「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(II.コリント2:19)
年齢、体、心、思考力等に弱さと限界をおぼえる者ですが、限界で働く神様を心から賛美してまいります。

石田政美

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)

「ある新興宗教の人々は、『こんな弱音をはくような人を神としているような宗教には力がない』と言ってあざけりました。どうして福音書の記者は、主イエスのこの叫びを、大切な記録として書き記したのでしょうか。
 旧約聖書の詩編22編を見ると、イエスの叫びと同じことばが記されています。この詩編は、キリストの十字架を預言した箇所として知られています。福音書の記者は、このことばを記すことによって、主イエスが旧約に預言されている救い主であることを証言したのです。
 これはまた、イエス・キリストが父なる神から完全に見捨てられたことをあかしすることばでもあります。神から見捨てられて当然なのは私たちです。しかし、その私たちに代わって、父なる神から完全に見捨てられ、十字架の上で主イエスがさばきを受けてくださったからこそ、私たちの救いの道が開かれました。
 『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか』という主イエスの叫びは、私たちにとっては、なんと感謝すべき叫びではないでしょうか。『あなたをこんなに愛している』という神のメッセージにも聞こえます。」(バイブルプロミスより)

 今週は受難週です。イエス様の受難を覚えつつ、悔い改めと感謝の思いをもってこの時を過ごしましょう。

松﨑 準

 今日から2017年度が始まりました。御言葉をもって新しい一年を歩ませていただきましょう!
 「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」
(創世記26章25節)
創世記26:15以下に、イサクたちが苦労して掘った井戸を何度も奪われてしまうことが記されています。そのような理不尽な仕打ちにもかかわらず、イサクは争いを避けて主の言葉に従い歩み続けます。争いを避けて逃げてばかりのイサクは何とも頼りなく見えます。しかし、そんなイサクに主は現れてくださり、励ましてくださいました(26:24)。そこで、イサクは先ず祭壇を築き礼拝しました。その後に、彼は天幕を張り(住む場所を作り)、井戸を掘った(働いた)のです(26:25)。このように、私たちの日常生活においても「礼拝を第一とする」ことが最も大切です。「礼拝から送り出されて、また礼拝に戻って来る生活」は、月曜日から土曜日までの日常生活において、常に主なる神様を意識し続けるということです。それが「礼拝のために心を備える」ことなのです。
また、今年度は牧師辞任というチャレンジがありながら、一方では、日立教会支援の継続やバプテスマ決心者が与えられる、という嬉しい出来事が起こっています。これは、教会(私たち)の状況や都合に関係なく、神様の御計画・御心は実現していくということ。それは誰にも止められない、ということを知らされます。つまり、神様がこの教会の中で働き、この教会を更に豊かに用いようとされているのです。
 この神様の思いに応えるために、喜んで精一杯仕えていきたいと思います。そのためには、まず私たちが互いに認め合い、赦し合い、愛し合い、キリストにおいて一つとならなくてはなりません。そして一つになるためには、一人ひとりが礼拝を第一とし、礼拝において一つとされることが必要なのです。
 新しい一年、主のために、そして、JOYチャペルのために、皆で祈り合い、支え合って、歩んで参りましょう!

松﨑 準

今週の一面『力の祈り』3/26  

Shin1

3月14日(火)午後、私は、「相鉄線沿線なかよし牧師会」に出席しました。会場は、City Vision Glory Church(旭区上川井町)で、和食ファミリーレストランを買い取って改築した教会です。決して交通の便が良いとは言えない場所にあるにもかかわらず、礼拝出席人数が平均150名と聞き、驚きました。
 牧師会では、各教会の近況報告や証しを分かち合うとともに、一つのテーマに基づき学びをします。今回はCVGCの増田先生が「祈り」をテーマに発題されました。私は「祈りの実践」について神学校では学びませんでしたので、今回の学びは自分にとって大変重要な学びとなりましたので、以下、紹介します。

 「力の祈り」には、3ステップがある。
取り除く祈り
神様と私たちとの間を隔てている罪を先ず取り除く。
❶悔い改めの祈り...思い起こされる罪を告白し、悔い改める。
❷へりくだりの祈り...自分の弱さを認める。自分の心の王座を神様に明け渡す。
❸魂肉の障害要素を取り除く...心の傷、怒り、恐れ、疑い、心配、傲慢、自己中心、プライド等は、悔い改めるだけではなくならないので、神様の力(イエスの血潮、イエスの御名、聖霊の火)により外に出さなくてはならない。

聖霊に満たされる祈り
咎が取り除かれた心に聖霊をお招きする。黙想しながら、聖霊のご臨在を肉的に、霊的に、そして、心で感じるように集中して祈る。

聞かれる祈り
 言った通りになるとの信仰。自分の祈り(言葉)ではなく、聖霊が代わりに祈ってくださると感じながら祈る。「...なりますように」ではなく「...なれ!」と祈る。具体的、現実的なことを詳細に祈る。

※以上のようなステップで、一日20分以上祈ることが大切です。
 私は日々実践していますが、心がスッキリし、何よりも神様の前に素直になれるような気がします。心からすべての咎を取り除いていただき、聖霊で満たしていただき、聖霊によって祈る。こんな習慣が身につけば、私たちの信仰はより純粋なものになるでしょう。毎日できなくても祈りは積み重なりますから、諦めずに自分のペースでやってみてはいかがでしょうか。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1,2)

松﨑 準

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