「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)

◆教会の目的③は、大宣教命令です。
新約聖書の四福音書すべてに共通して、書かれている弟子たちを派遣するシーンです。この派遣ののち、弟子たちは各地で宣教を行いました。(マルコ16:19)福音書ごとに表現は違っていますが、「福音を宣べ伝えること」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「証人になること」が書かれています。この大宣教命令から2000年ほど経ち、今の私たちまでつながっているのです。「伝道」「宣教」と聞くとなかなか一歩踏み出すのが難しいです。日本においては「外国の宗教」であるからこそ、難しさを覚えるでしょう。このような中、私たちはどのように伝えれば良いのでしょうか。

◆1.救われた喜びの中で生きる。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

(ルカ1:46,47)

救われた時の喜び覚えてますか?その喜びの中で今生きていますか?私たちがその喜びの中で生きる時、そこに主は確かに働かれます。生き生きしている人と、生き生きしていない人どちらに惹きつけられますか?生き生きしている人だと思います。24時間365日生き生きすることは難しいです。でも、何かあったとき、何気ないときに救われた喜びの中で生きることにより、周りの人への良い影響を与えるでしょう。そこからキリストを伝えるチャンスがあるのではないかと思うのです。

◆2.クリスチャンであることを"自然"に知ってもらう。
私たちがどんなに生き生きして、魅力的な生き方をしていても、その理由を知ることができなければ他の人には伝わりません。ぜひ、会社で学校で友人関係の中でクリスチャンであることを知ってもらってください。そこから伝道は始まります。

大宣教命令②に続く

坂西恵悟

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)

◆教会の目的②は、一つの所に集まることです。新約聖書において教会は「エクレシア」と訳されています。元々は、「呼び出された者の集まり」という意味があります。しかし、当時のユダヤ社会において、この「エクレシア」はキリスト教の集まりというより、ギリシャの議会などに使用されていた言葉でした。この「エクレシア」は招集によって市民を集め、神々への祈りと犠牲をささげることをもって始められたそうです。新約聖書において初めて「エクレシア」が「教会」として使用されたのは、マタイ16:18です。私たちが集まる所の土台、それが「この岩」です。「この岩」は新約聖書の時代においても、今の時代のおいても変わりません。では、「この岩」とは何でしょうか。それは、直前のペテロの告白(マタイ16:16)です。御子を正しく知り、それを言い表すことを基礎として、イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言いました。

◆教会は、私たちが集まりたいから集まったものではなく、神様によって集められているということを私たちは確認しなければなりません。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20:28)とあるように、イエスキリストの十字架によって一つに集められています。その中で、信じている者もそうでない者も集まり神様の前に近づく集まりなのです。

◆神様によって集められ者が神様を礼拝する集まり、それが教会の目的の一つです。神様によって集められた教会のかしらはイエスキリストです。エフェソ1:23にあるように私たちはキリストのからだです。神様によって集められた者はかしらであるキリストに従って歩んでいくのです。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

坂西恵悟

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)

◆教会は何の為にあるのでしょうか。福音を伝える為?隣人を愛する為?神様を礼拝する為?答えは様々だと思います。「これが答え!」という教会論を言いたい訳ではありません。多様性が求められる今日において、教会の目的や役割は多岐に渡るでしょう。しかし、様々な目的や役割が教会にある一方、変わらないこともあります。それは、イエスキリストの十字架と復活です。では、なぜイエスキリストは来られたのでしょうか。前述した聖書箇所を通して確認致しましょう

◆ルカによる福音書19章は徴税人ザアカイのストーリーから始まっています。このザアカイのストーリーの後、10節の御言葉があります。ローマ帝国統治時代、徴税人はローマ帝国の公務員でした。イスラエルの民からしてみると帝国の犬だったわけです。ただ税金を集めるだけならまだよかったかもしれません。徴税人は税金を民衆から多く取り立てて、私服を肥やしている人が多くいたことでしょう。そのようなことから、民衆に嫌われる存在でもありました。19章に出てくる人物ザアカイも同様でした。彼は、徴税人の頭で金持ちでした。(2節) また、ザアカイは民衆から罪人の烙印を押されていました。(7節) そんなザアカイの元にイエス様は食事を共にし、家に泊まることにしたのです。その結果、ザアカイは悔い改め、救いを受け取ることができたのです。

◆イエスキリストは、救いをもたらす為に来ました。それは、神様の前に罪ある者とされた私たちが、神様との関係を回復する為に、イエスキリストは来られたのです。教会の目的、それはイエスキリストがなぜ来られたのかを伝えることです。このことから教会は始まるのです。それを忘れてしまうと教会の働きとは言えないでしょう。「伝道しましょう!」と意気込むことは時に必要です。しかし、普段の生活の中でその意気込みのまま過ごすのは難しいと思います。だからこそ、日々の御言葉をしっかりと私たちのうちにとどめ、その御言葉からくる行動や発言を通して伝えていくことが必要なのではないでしょうか。御言葉にしっかり立って生きる時、私たちの「生き方」を通して、伝えることができると思うのです。

「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4:5a)

坂西恵悟

◆人には寿命があるが、教会にも寿命があるのかもしれない。先日ある教会に行った。かつては幼稚園もあり、にぎやかな教会だったようだが、今ではお年寄りばかりだという。これは少子高齢化以上に難しい状況だ。次を担う若い人がその教会に来てつながるとは考えにくく、何かしら大変革が起きない限りは、教会の寿命も尽きてしまうかもしれない。日本の多くの教会で、このようなことが起こっているのではないか。

◆人は本来保守的な生きものだろう。現状に満足して落ち着いてしまうと、それを神さまに与えられたものとして、何とか守っていこうとするのは理解できる。しかし行き過ぎると、知らぬ間に人の思いに固着して、何か新しいことをやろうにも強烈な抵抗力が働くようになる。まさに人の満足が神さまの自由な働きを妨げるのだ。こうなると、教会は硬直化し、収縮スパイラルに陥って寿命がつきることにもなりかねない。

◆果たしてJOYはどうだろうか? 少し前までは、幼いこどもたちがいないとか、中堅の30代がいないなどと、ちょっと不安に思うこともあったが、気が付けば、それらを埋めるような方々が、わさわさと集結している。また、大胆にも隣の土地も買ってしまったし、かなり若い牧師先生にも来ていただいたし、まさに神さまの自由な働きにより、春になってどんどん新しい芽が出てきて、これから大きく育っていくかのようだ。

◆教会では、私たち自身が神さまから様々な祝福をいただきたいと当然思う。しかしそれ以上に、私たちがまだ知らない次に来る方々に対して、神さまの恵みと喜びが与えられるようにすることが、教会に求められていることだろう。それによって教会もどんどん育っていくのだ。私たちが自己満足にとらわれることなく、いつまでも、神さまが自由に働かれることを喜びとする教会であるよう祈っていきたい。  

宮崎英剛

◆ペテロは、自分自身の弱さを持って、主の御前にありのままの姿で進み出ました。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味します。イエスさまがペテロを高く評価されたのは、自分の弱さを告白するその正直さのゆえでした。

◆「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意思が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけの者です」

◆多くの人は、自分の弱点を自分でみることができません。しかし、ペテロは自分の弱さをよく知っていました。その分回復も早かったのです。ペテロは自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出しました。そうして主はペテロの弱さを一つずつ癒し、取り扱われたのです。

◆ペテロは失敗ばかりして砕かれ、傷ついた経験をしたために、弱い人々を非難せず、愛をもって励ますことができたのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(I.ペテロの手紙 4章8節)

◆ペテロは、あまり祈れない人を見ても、きっとこのように励ましたのでしょうか。「私はイエス様の後をついて行きながらも、祈りながら寝込んでしまった。それなのに、イエス様のお顔を見たこともないあなたが祈ろうとしているのだから、それだけでも素晴らしいことです」と。  

石田政美

◆私たちが他の人たちのことをああだ、こうだと評価してしまう理由は何でしょうか。人は誰であれ「工事中」、つまりかえられる過程であることを知らないからではないでしょうか。ペテロは、自分が変えられることに時間がかかったことを知っていました。そのため、他の人たちのことを余裕を持って待てるようになったのです。彼は「主が完全にしてくださる」と言いました。今、完全なのではありません。工事中です。やがて完全にされ、堅くされ、強くされるということです。ペテロは神様の約束を信じてゆだね、人格が変えられることを信じたのです。「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
(I.ペテロの手紙5章10節)

◆この世に完全な人がいるでしょうか。ペテロも神が長い時間をかけて整え、用いられた人でした。私たちは自分の弱さに失望しないように心がけましょう。ペテロのように変えられるためには、弱さを持ったまま主の前に進み出て、主の励ましを受けて癒していただき、聖霊に満たされ、主に従い、主の力と御業が表れる人生を生きましょう。まず、自分にできる小さなことに従っていく信仰の人となることを祈ります。

石田政美

◆神様が、こんな者を選び、信仰者として、特に牧師として大切な宣教の尊い働きを委託されたことを通して「未熟で不安定な者を用いられる神」なのだということを教えられてきた。

◆イエス様の12弟子たちは、どのような人たちであったのでしょうか。まず、弟子たちは超人ではなく、凡人でした。彼らはガリラヤ湖畔で、ごく平凡に暮らしていたのです。年齢的にもまだ若く未熟でした。弟子たちの中で最も長生きしたヨハネは、たぶん高校2年生程度、つまり10代後半に弟子となったと思われます。他の者たちも20代、もしくは30代初めごろだったようです。イエス様が選ばれた弟子たちは、若さだけが取り柄のまだ世間知らずの若者たちでした。

◆イエス様は成熟した人ではなく、未熟な人を弟子として選ばれました。そして彼らを通して驚くべき御業を行いたいと願われたのです。神様は平凡な彼らが持っているわずかなものを用いて、御業をなそうと考えられたのです。その彼らが持っていたわずかなものとは、何だったのでしょうか。

弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は、言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

(ルカ17:5〜6)

◆「からし種一粒の信仰」つまり非常に小さな信仰であっても、神様の働きをするには充分なのです。主は未熟な人を用いられます。その小さな信仰を用いて、偉大なことを成し遂げられるのです。

石田政美

◆3月3日(土)から5日(月)まで天城山荘で行われた西南学院大学名誉教授小林洋一先生による「信徒のための旧約学セミナー」に参加しました。ヘブライ語を読み解きながら詩編全体について講義を受けましたが、老兵にとっては少しきつい三日間でした。しかし、これまで知らずに読んでいた詩編を少しだけ理解できるようになりました。◆詩編の各編には標題がついていますが、1編と2編にはなく1編と2編は詩編150編全体の標題になっています。1編は神の教えに強調点を置く「人生の道しるべ」(トーラー)となっており、2編はメシア預言となっていて、バビロン捕囚後の信仰共同体が生き抜く2本柱となっている。詩編は賛美、祈祷(歎願、感謝)、黙想の書である。

◆講義は5コマ(1コマ2時間)行われたが、授業の初めには毎回、詩編23編を小林先生の後に続いてヘブライ語で読みました。
「主は(わたしの)羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1)「何も欠けることがない」は出エジプトの荒れ野時代の想起(申命記2:7、あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。)

◆「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。」(4)
「死の陰の谷」とは死とは無関係で暗闇、深い闇を意味する。「あなたがわたしと共にいてくださる」(4)神の臨在が、この詩編全体を覆う。このセミナーに参加して相対化され、自由にされたことを感謝したい。老兵の新しい出発としたい。     

神山 武

◆私は牧師になるように神様から示された時、とっても躊躇しました。そんな時、最後の晩餐の場面でイエス様が弟子のペトロに向かって噛んで含めるように、教え論された。「しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ27:32)の一言で、献身の決断ができたのです。

◆まさに「あなたのために」そして「わたしのために」祈ってくださるイエス様の熱い祈りがまず最初にあるからこそ、私たちは立ち直ることができるのです。そのように祈られているからこそ、弱く愚かなものであるにもかかわらず、信仰を失わずにいることができていることを知らされました。

◆弟子でありながら、弟子として従いつづけることのできない弟子たち、いざとなると弱さを露呈し、自分の都合次第で主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち、そんな人間たちばかりが集まって、主の人生における最後の食卓を囲んでいる。それが最後の晩餐の情景。そこにこの私も招かれている。そのことを強く知らされたことも献身の決断となりました。

◆牧師になり主の晩餐式のたびに「あなたにはやり直すチャンスがある」「あなたは今までと違った自分になれる。神様の恵みのもとで、新しい人間として生きることができる」という「力づける」メッセージを心に秘め、執り行っているのです。

石田政美

◆主イエス・キリストの最後の日々「受難物語」と言われる一連の物語を読み進めていくと、徐々に主人公であるイエス様ご自身が、ひとり孤独な姿で、ぽつんと浮かび上がってくる印象を受けます。

◆最後の晩餐の数時間後に、ゲッセマネの園で主が逮捕された時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げ出しました。裁判が行われている時、弟子たちは誰ひとりイエス様の証人として立ちませんでした。ゴルゴダに向かうイエス様の十字架を運んでヴィア・ドロローサを歩いたのは、ペトロではありません。イエス様がつけられた十字架の左右で一緒に処刑されたのも、弟子たちではありません。そして、イエス様の遺体を取り降ろしたのも、その体を清めて墓に納めたのも、弟子たちではなかったのです。

◆同じ時間、同じ場所で、同じパンとぶどう酒にあずかりながら、虚勢を張る弟子たちの姿の中に、「やがて起こるべきこと」をよくよく知りながら、自分を見限る者たちと共に生涯最後の食卓を囲んでいるイエス様の姿、ひとり孤独な姿が浮かんできます。

◆「私は信じています。大丈夫です」と自負しながら、いざとなると弱さを暴露し、自分の都合次第で、主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち。イエス様の弟子とは、ひとりの例外もなく、「そんな人間たち」ばかりが集まって、主と共に、主の人生における最後の食卓を囲んでいる。それが、最後の晩餐の情景です。

石田政美

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