◆イスラエルの歴史において、「アブラハム契約」と「モーセ契約」は土台になる契約です。その2つを結ぶ契約が「モアブ(パレスチナ)契約」です。神様からの祝福を約束したアブラハム契約と聖別され、祝福と呪いを約束されたモーセ契約。契約を守ることのできない民を見捨てることなく、アブラハム契約の祝福に加えるために与えてくださった約束が「モアブ契約」です。一言で言うならば、悔い改めによる祝福の回復がモアブ契約なのです。(申命記30:1-20)

◆神様との約束を守ることのできなかったイスラエルが悔い改め、もう一度神様のもとに立ち返る時、アブラハムを通して与えられている祝福の流れに加えてくださるという契約です。この契約は今後のイスラエルにとっても今の私たちにとっても重要な約束になります。イスラエルにとっては、バビロン捕囚からの神殿再建。多くの王様たちが、神の前に罪を犯し国は滅びました。捕囚されたのち、彼らに悔い改めが起こり、祖国への帰還、神殿の再建がなされました。まさに、悔い改めた先の祝福です。

◆主の教えに従うことが出来なかった時、「いけにえ」と「悔い改め」によって罪が赦されました。聖書の時代は必ず全焼のいけにえを携えてきました。しかし、現在の私たちは「悔い改め」だけで主の祝福を受けることができます。それは、イエスキリストが十字架の死によって、私たちの罪のための「いけにえ」となってくださったからです。

◆救いは律法を守ることではなく、悔い改めることによって得ることができるのです。そのことを旧約時代から教え、約束しているものが「モアブ契約」なのです。

坂西恵悟

今週の一面『 枯渇しない力 』 11/4  

Shin1

◆神様は40年間の荒野における教育を通して「温室のモーセ」を「荒野の雑草の様なモーセ」に変えられました。

◆そしてある日、モーセはホレブ山(シナイ山)において柴の火の中で神様に出会いました。柴は火がついていましたが、燃焼しませんでした。この柴は、モーセの姿を象徴したものでした。神が共におられる柴は、火がついても燃え尽きません。つまり、神様が与えてくださる力による情熱は枯渇しないということです。火がついたらすぐ燃え尽きてしまう雑草の柴の様なモーセが、灰にならずに「燃え尽きない火」となって神様の働きに仕えることができたのです。

◆マッチの火とランプの火の違いは何でしょうか。マッチの火はしばらくの間は大きな炎となって燃え続けますが、たちまち灰となってしまいます。芯がないからです。供給されている油がないからです。その一方でランプはずっと燃え続けます。なぜでしょうか?芯があり、油が供給されているからです。神様が共におられ、神様の御力の油(聖霊)に芯を下ろしているなら、その人は決して枯渇することがありません。

◆モーセはついた火が消えない人生を送りました。聖霊の力によって働きました。D.L.ムーディーは「働き人を壊すのは働き過ぎではなく、聖霊なしで働くことだ」と言いました。決して灰にならず、枯渇しない聖霊の人となって神様に仕えていきましょう。

石田政美

◆私の会社では、『魅力ある働き方』を目指して、「働き方改革」とか「WLB(ワークライフバランス)の向上」とか「抜本的生産性向上」とかを全社を挙げて取り組んでいます。柔軟で多様な働き方を目指し、WLBが良くなり、モチベーションも高くなって魅力ある働き方が実現することは良いことですが、弊害も多いような気がします。無駄を無くして生産性の低いものは切り捨てて、スピードを競い最短距離でゴールを目指す中で、時には目的と手段を混同してしまい、大切なものまで切り捨ててしまったり、思考停止に陥る危険性もあります。

◆一方、私たちの人生や教会生活において、もし「効率性」や「生産性」、「合理性」が常に最優先されるとしたら、どこかギスギスしてきたり殺伐としたものになってしまうのではないでしょうか? モーセに導かれて出エジプトの旅を続けたイスラエルの民の出来事は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれ、様々な訓練も受けました。40年もの年月をかけた"回り道"によって、整えられカナンの地に導かれました。時には、"待つ"ことができずに、人の知恵や力にのみ頼り失敗したこともありました。効率は悪いけれど"待つ"ことや"回り道"をすることで、霊の目が開かれたり、神の恵みや祝福に出会えたのです。

◆JOYチャペルは20年目の歩みを坂西先生と一緒に歩み始めました。効率性や合理性ばかりを追い求めるのではなく、ひとりひとりの賜物や弱さや限界を認め合い、時には立ち止まったり回り道をしながら「主が共におられる教会」として、「主からの希望と喜びを分かち合える教会」として、「イエス様の福音を宣べ伝える教会」として用いられることを祈りつつ踏み出していきましょう。

澤田 猛

◆神様と契約したノアの時代からさらに長い年月がたちます。そして、神様は新たな人物と契約を結ばれます。その人物がアブラハムです。この契約を一言で言い表すなら、「祝福の契約」と言えるでしょう。そして、アブラハムとその子孫たちが「祝福の源」として用いられる契約でもあります。この契約の中心的な聖句は創世記12:1-3です。

あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。

◆12章以外にも、13章、15章、17章、22章にも記されています。では、契約の内容はどのようなものなのでしょうか。①アブラハムの子孫を増やし、大いなる国民とする。②アブラハムを多くの国民の父とする。③アブラハムの子孫にカナンの地を所有させる。④アブラハムの子孫から王が出る。⑤アブラハムと子孫を諸国民の祝福の源とする。⑤アブラハムと子孫を祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる。

◆これが、アブラハム契約です。これだけだと、私たちには直接関係がなく、神様の祝福を受け取ることができません。しかし、イエスキリストによって、イエスキリストを信じる信仰によって、信仰の子孫として、この祝福に預かることができるのです。これにより、私たちを通して、神様がアブラハムと契約された祝福をイエスキリストによって流すことができるのです。

◆この契約は主が再び来られる日まで続きます。この祝福を止めないよう、私たちは宣教の働きを担っていきましょう。

坂西恵悟

◆私たちが文書を書くとき、また書籍を読むときには、それぞれテーマがあります。そのテーマを中心にして文章が綴られていきます。聖書のテーマの1つに「契約」が挙げられます。旧"約"聖書、新"約"聖書とあるように、聖書は"旧い契約"と"新しい契約"に分けられています。神様は、自然との契約(エレミヤ33:20-26)だけでなく、最初の人アダムとも契約を交わされました。(創世記1:28-29,2:16-17など)アダムたちの罪によって、生れながら罪ある者と定められた人間を神様は見捨てることなく、祝福を用意してくださっているのです。

◆アダムの次に神様と契約をしたのは、ノアです。神様は、地上に悪いことばかりを計る人々を見て、心を痛められ、終わらせようとしました。しかし、ノアたちは主の取り計らいによって、その滅びから守られていたのです。そして、このノアと契約を結ばれました。(創世記6:18,9:9-17)

◆ノア契約と呼ばれていますが、その内容は契約というよりかは約束に近いものになります。その内容は、①季節、自然の秩序の約束(8:22)、②二度と洪水によって地が滅びない約束(9:11)、③動物を食事として扱うことができる約束(9:1-4)、④人間社会の形成(9:6-7)になります。

◆神様は創造を後悔されました。滅びに向かう中、正しい人の信仰によって再度神様との良い関係が作られていったのが、ノア契約なのです。私たちは、その契約の上に立っています。ノアという1人の信仰者の姿勢を私たちも見習いましょう。この姿勢が正しい姿勢なのです。

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(創世記6:22)

坂西恵悟

◆子どもの頃から小心で甘えん坊であったわたしは、青年時代、感傷的な正義感を教会内で振りかざしてさまざまなことで、牧師先生や先輩の役員の方々に不平不満をもち、一時期教会を飛び出してすねたりしておりました。

◆実社会で20年働きましたが、わたしの会社の中には新興宗教にも近いようなある種の熱気と信念がありました。そこでがむしゃらに働いておりました。この間の生活は、教会では優等生的クリスチャン、家に帰るとちがった人物になり、職場ではまたちがった人物になっているような二重、三重生活をしておりました。このころのわたしは、人や環境ばかりを気にし、常に多くのことを思い煩い、心も身体もバラバラで、まったく平安がありませんでした。

◆そんなある日、過労から三日間高熱で寝込み、病院の床の中で不安と恐怖、高熱と激痛、神なき永遠の滅びの世界を恐怖をもって思い起こしていたわたしの前に、イエスさまが立ってくださったのです。そして、『シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31〜32)と語りかけてくださったのです。

◆臆病者で弱く、疑い深い、こんな罪人である存在を誰よりも知っていたわたしは、非常に驚きました。しかし、献身を決意した時から、常に「し過ぎることのない期待」を神に寄せつつ、全身全霊で燃え尽くして、あとはいっさい主にお委ねしてまいりました。その結果、厳しいところを多々通らされましたが、「主は共におられる」「主は働きたもう」という体験を知らされる献身の日々でした。

石田政美

今週の一面『 はじめの愛に 』9/30  

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しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4,5a)

◆ある開拓教会の牧師がこのようなことを言いました。「会堂を建てることによって、教会は必ず変化する。それは前進しようとすることより、守ることに力を向けてしまう。だから、私は、会堂を建てても開拓をし続ける。」

◆JOYチャペルができて、20年目に入りました。この19年の歩みの中で多くの人が情熱を持ち、祈り、奉仕をし、礼拝を献げてきたことでしょう。また、礼拝だけでなく、祈り会や家庭集会なども行なっていたことでしょう。最初は小さな群れで個人宅で始まった礼拝が、場所を移し、人数が増え、会堂を建てるまでに成長していきました。その中には、感謝なこと、辛かったこと、楽しかったこと、悲しかったことなど多くあったことでしょう。過去を振り返ってみて、現在を見た時、あなたは何を手にしているでしょうか。私たちは、時代が時間が流れていく中で多くのものを手にして、多くのものを手放してきました。今、あなたが手にしているものは何ですか。大切なものはしっかりと手にしているでしょうか。

◆会堂が建ち、隣地も与えられた中、私たちには多くのものが与えられています。多くの変化がありました。しかし、それでも変えてはいけないものがあります。それは、「はじめの愛」に立ち続けることです。聖書を通して、主が約束してくださっている「将来と希望」をなくしてはいけません。教会に与えられている「使命」をなくしてはいけません。前述した教会は、いまでも様々な地域に開拓をし続けています。私たちも、教会に与えられている「使命」を再確認し、宣教の働きを担っていこうではありませんか。節目の年だからこそ、私たちが何を大切にしているのか確認しながら主の働きを全うしていきましょう。

坂西恵悟

◆今年も9/22,23にJOYチャペル恒例のファミリーキャンプが行われています。1999年の開拓伝道以来欠かさず行われている恒例行事。毎年、運動会、レクレーションなどで身体を動かしたり、パフォーマンスを披露したり、教会川柳やフォトコンテストを行ったり、楽しさ満載のときを過ごしています。

◆今年はキャンプ委員を退き、初めて一参加者としてのキャンプ。若いJOYメンバーが中心となってキャンプを企画、運営していることを頼もしく感じています。

◆キャンプは教会に来て間もない方や教会は初めてという方も参加されるので、一般的に思われているであろう⁈、おとなしい、真面目、つまらない?という教会、クリスチャンという固定観念とはかけ離れたメンバーの姿を目の当たりにして驚くこともあるようです。

◆キャンプでは楽しいことだけでなく、これからの教会のことを沢山、真剣に考える時間も多く割いてきました。普段あまり話す時間を持つことが難しくても、キャンプではじっくりとお互いのことを知り合ったり、信仰や教会について話し合ったり、教会の目指すビジョンを共有する大切な時間となってきました。
さあ、今年のキャンプはどうでしょう?

濱田眞一

今週の一面『 祈りを体現する 』9/16  

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◆祈りは私たちにとって何でしょうか。あるクリスチャンの先輩が「祈りは呼吸である。」と言いました。私たちにとって祈りはなくてはならないものであり、祈りのない生活はクリスチャンとして致命的でしょう。私たちが祈る時、その内容の多くは「願い」だと思います。誰の「願い」でしょうか。私たち自身の「願い」です。「願う」祈りがダメなのではありません。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)とあるように、私たちは「願う」祈りをすることをゆるされているのです。

◆では、反対に私たちはどれほど主が願われている祈りを聞いているでしょうか。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21)

◆イエスが願い、祈られていることを私たちはどれだけ知っているでしょうか。その祈りを私たちはどれだけ応えようとしているでしょうか。教会を建てあげていくために、私たちが神様の祈りに応えることは必要なことです。主が何を願われているのかを知らない中で宣教の働きは無意味であると思います。だからこそ、私たちは主が願われ、祈られていることを知り、その願いを私たちは応えていくことが必要です。

◆主が願い祈っていることに私たちが応えることができたらなんと素晴らしいことでしょうか。主の祈りにも私たちは耳を傾けたいと願うのです。

坂西恵悟

今週の一面『 召天者記念礼拝 』9/9  

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 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:9)

◆沖縄に住んでいた時、現在のお盆のシーズンよりも旧盆の方が大切にされていました。特に、私たちが住んでいた宮古島では先祖崇拝が強い島でもありましたので、旧盆の時期になると、学校や会社が休みになり親戚一同でお墓の前で食事をする文化がありました。内地(本土)から移住された方々は"休日"という感覚が強いですが、沖縄の人々にとっては大切な日でした。

◆教会の方々にお話を伺うと、「キリスト教は先祖を大切にしていない」「亡くなった方への関心がない」などの言葉を受けたことがあるという方が大勢いらっしゃいました。私たちクリスチャンは果たしてそうなのでしょうか。そんなことはないと思います。多くの教会で毎年、先に天へと凱旋された方々を覚え、礼拝を献げています。それは、召天された方々を覚え、出会いに感謝し、再び天で再会できることを感謝しつつ礼拝を献げています。

◆イエス・キリストの十字架と復活は私たちの罪の贖いだけでなく、私たちに希望を与えてくれるものです。創造主である神様は私たちがこの地上の歩みを終えた後も、私たちとの関わりを持ってくださる方です。そして、このキリストを信じる人々に新しい命を与えてくださるのです。私たちの人生は死が終着点ではなく、世の終わりの日に復活のイエスとともに神様のもとで永遠の命を生きることができる希望がある人生なのです。

◆召天者記念礼拝は、神様がこの地上においても地上での歩みを終えたあとでも関わり続けてくださる主であること、再び出会うことのできる希望を覚える時であること、イエス・キリストの十字架と復活に感謝する時なのです。

坂西恵悟

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