◆先日ある牧師のエッセイを読んで大切なことを教えられました。以下、引用します。

「牧師が専念しなければならない仕事は何かと言えば、『神様の御言葉を聴き、語ること。そして、祈る(礼拝)こと』(使徒6:4)と聖書にあります。そこで私は、普段は適当な人間なのですが、神様の御言葉と礼拝については、ついつい完璧主義に陥りがちになります。しかし、実際には完璧なメッセージを語ることや完璧な礼拝をお献げすることができたことはありません。
 そんな私にとって、先日目から鱗が落ちるような言葉に出あいました。
『許すのは大切なことだが、何を許すのか。それは、自分や他の人が神(完璧な存在)ではないことを許すのです。』
 『できる限りのことをしたい。できるだけ正しくありたい。』そう願うことはとても大切なことです。しかし、そう願う気持ちが強すぎると、私たちは自分に対しても、人に対しても、厳しい態度で接するようになってしまいます。そして、人に必要以上に厳しく接するとき、私たちは自分が神(世界の中心)になってしまうのです。よく『人の良いところを褒めて育てることが大切』と言われていますが、なぜそれが大切なのかというと『人は神ではない。しかし、神様が死ぬほど愛しておられる貴い存在』だからです。
 寒さで顔が引きつり易い季節ですが、笑顔になってほっこりしましょう。」(中原康貴牧師『風の便り』より)

◆今日は礼拝後に、臨時神の家族会が持たれます。お互いがお互いに完璧を求めるのではなく、自分も相手も完璧な存在ではないことをお互いにゆるし合いたいと思います。
「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:22)

松﨑 準

◆「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか...」(2節)という言葉は、イエス様が十字架につけられた時に、その苦しみの中で叫んだ言葉であると言われています。イエス様は十字架で神から見捨てられるという絶望を味わいました。

◆しかし、この詩編は、イエス様の十字架より千年も前に歌われたものです。ダビデは、神から見捨てられたかのような苦しみを味わいました。サウル王に命を狙われ、荒野をさまよった時もそうでした。また、息子アブサロムに王位を奪われた時もそうでした。このダビデの生涯というのは、王であったにもかかわらず、人々から裏切られ、見捨てられるという苦しみの連続だったのです。それはまるで、神の子であるはずのイエス・キリストが受けた苦しみと重なるように思われるのです。

◆例えば、17節~19節に、「犬どもがわたしを取り囲み...わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とありますが、この「犬」とは異邦人を意味します。イエス様を十字架につけたのはローマの兵士、つまり、異邦人でした。そして、彼らは実際にくじを引いてイエス様の衣を分け合ったのです。

◆ダビデは耐えがたい苦しみを受けましたが、その後、王として復帰し、イスラエルの繁栄を受けることが出来ました。それ故、この苦難の詩編の最後は、主への高らかな賛美で終わっています。つまり、たとえ神に見捨てられたかのような試練があっても、必ず回復の賛美で終わるということを、この詩編は教えているのです。ダビデも主によって苦しみから引き上げられ、回復され、主を賛美しました。イエス・キリストも十字架の苦しみの後に、復活の栄光をお受けになりました。苦しみの後には、復活の栄光がある。これは神の法則です。ダビデは「絶望から信頼」を体験したのです。そして、イエス様ご自身も体験されました。そして、今度は、私たちイエス様を信じる者が体験する時なのです。

松﨑 準

◆昨年11月、天城山荘において、小林洋一先生(西南学院大学名誉教授)の旧約学セミナーがあり参加しました。三日間の講話と分かち合いを通して、私は、魂が聖められる思いでした。
講話の中で先生は、詩編86編から、「神の本質について」語ってくださいました。
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。」(詩編86:15)

◆神は最初から最後まで、人との関わりが一貫して変わらない真実な方である。神は、人が道をそれることのないように、預言者たちに裁きの預言をさせているが、救うために本当に人と関わってくださる。

◆ヨセフ物語(創世記37~50章)の中で、ヨセフは数奇な運命を辿るが、神はどんな事も良きに変えてくださる方であることが聖書で証しされています。

◆私たちの人生には「どうして」、「なぜ」という出来事が次々と起こるが、最後には、神は天国へと導く道を備えてくださる方なのです。今日、世界各地で様々な動きがありますが、今後も主に希望をおいて主を賛美し、主を信じて従っていきましょう。

神山 武

◆詩編第1編は、詩編150編全体の序文として置かれています。つまり、詩編第2編から第150編までがこの詩編第1編にギュッと凝縮されているということが言えるのです。その証拠に1節の最初の「いかに幸いなことか」の「幸いなことか」という言葉はヘブライ語でアシュレーと言い、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字アーレフで始まります。そして、6節の最後の「滅びに至る」の「滅びる」という言葉はヘブライ語でトベードと言い、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字タウで始まります。これは、詩編の最初から終わりまでのすべてを要約的に一つにまとめることによって人間の人生全体を包括的に表しているということなのです。詩編第1編の著者は二つの道(義の道と悪の道)を比べて義の道を歩むように勧めています。

◆2節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とありますが、このような歩みこそ、義の道を歩むクリスチャンの理想的な人生と言えます。私たちの心には、イエス様を信じていると言っても、「悪い思い」や「罪の性質」は出てきます。主が私たちをご自身の栄光の姿と同じかたちに変えてくださるまでこの葛藤は続きます。しかし、二つの道のうち、「義の道」を選びとって歩むようにすることはできます。そのように歩む人は幸いだ、と聖書は告げるのです。

◆では、どうやってそのように歩むことができるでしょうか。それは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」ことです。「昼も夜も」とは一日中、という意味もありますが、昼のように人生が順調な時も、夜のような試練の中にある時も、という意味もあるでしょう。

◆「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2)とあるように、昼も夜も、時が良くても悪くても、御言葉を心に留める人は、やがて豊かな実りが与えられるのです。

松﨑 準

◆毎月1回、日立教会へ石田政美先生を派遣くださり、また、松﨑準牧師はじめJOY教会の皆さまのお祈りに感謝いたします。無牧師の日立教会が、今ここに立つことが出来ているのは、勿論、石田先生のお働きによるところが大きいのですが、先生との信頼関係を築いていく中で、何よりも聖霊の働きによって、このことが成されたのだと確信できたことを、父なる神さまに感謝しています。

◆さて人生を快適に過ごすために「断捨離」が注目されるようなったのは2010年頃からです。この年の流行語大賞にもノミネートされた、この「断捨離」とは、入ってくるものを断ち、要らないものを捨て、物への執着から離れる、ということです。

◆聖書に、イエスさまが弟子を選ぶ記事が出てきます。例えば漁師であったペトロ、ヤコブ、ヨハネたちは、イエスさまの招きに応じ、船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。徴税人レビ(マタイ)は、何もかも捨てて立ち上がり、イエスさまに従ったとあります。

◆捨てるという意味では同じように見えます。しかし、前者は要らないものだから捨てるのですが、後者はそうではありません。要るもの、むしろ働く場であり、生活の糧を得る手段であり一番必要なもの、それを捨てた、ということです。

◆2015年3月14日に、私を含め3名の兄姉と一緒にJOY教会を訪ね、石田先生へ月1回の説教と教会員への教会形成の指導・教育をお願いしました。この時点で、日立教会は、少なくとも次期牧師の招聘について、「捨てる」という決心をした、と石田先生は受け止めてくださったのです。

◆あれから約2年、石田先生の講壇支援、助言からスタートし、JOY教会から様々な励ましを頂きながら、私たちはここに立っています。今、日立教会は元気です。喜びを感じています。風が吹き始めました。この喜びをさらに広げていこう、そこに希望をおいて祈り続けようとしています。そうすれば、イエスさまは、捨てたものを加えて与えてくださると信じています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、
これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

日立バプテスト教会 井伊 肇

「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(1節)「どのようなときも」は、私たちの生活全体を表しています。私たちはそれぞれの生活の中で、神様とどのような関わりが持てるでしょうか。
☆神様は私たちの生活の中でどのように関わってくださっているか。
主は求めに答えてくださる(5節)。
主は脅かすもの(苦難)から常に救い出してくださる(5、7節)
主は良いものを欠けることなく与えてくださる(10、11節)。
主は従う者に目を注ぎ、耳を傾けてくださる(16節)。
主は悪を行う者を見ている(17節)。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる(19節)。
主は悔い改める者を救われる(19節)。
主は従う者の骨をことごとく守られる(21節)。
主はしもべの魂を贖い出される(23節)。
主は、主を避けどころとする者を罪に定めない(23節)。
    ☆そのような主に対して、私たちはどんな姿勢で関わることができるか。
主をほめたたえる(2節)。
主を喜ぶ(3節)。
主の御名をあがめる(4節)。
主を求める(4、11節)。
主を仰ぎ見る(6節)。
主の恵み深さを味わう(9節)。
主の恵み深さを見る(9節)。
主に身を寄せる(9節)。
主を畏れる(8、10、12節)。
主に叫ぶ(16、18節)。

 以上のように、主が私たちに愛をもって関わり、働きかけていてくださることに対して、私たちが応じていく。それが信仰であり、それぞれが生活の中で経験することができるのです。日常生活は困難の多い戦いの場です。その中でクリスチャンとして生きることは必ずしも容易なことではありません。「主に従う人には災いが重なるが」(20節)とある通りです。しかし、そうであればこそ、生活の中で信仰に生きることの意味は大きいのです。「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」生活に身を献げていきましょう!

松﨑 準

今週の一面『アブラムの召命』 1/1  

Shin1

新年明けましておめでとうございます!本年もよろしくお願い申し上げます。

創世記12章において、神様からアブラムに一つの召命が与えられます。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」(1節)。これは、単なる会社の辞令のようなものではありません。自分の生まれ故郷や住み慣れた地を離れて、どこかも分からない神様が示される地に向かって出ていく、ということはもしかしたら、もう二度と戻れないかもしれない。親しい人たちと会えなくなってしまうかも知れないのです。
アブラムの心境はどうだったでしょうか。もしかしたら、「神様、それは困ります。私には家族が大勢いるし、家畜も沢山います。引越が大変だから嫌です。」あるいは、「私はこの土地がとても気に入っています。友達も皆良い人です。だから、どこにも行きたくありません。」等と思ったかも知れません。しかし、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)のです。
 召命とは、神様からの召しに命をかけて従うことです。そして、それは、人柄や能力を問いません。また、アブラムがハランを出発したとき彼は75歳であった、と聖書に記されていますように、年齢も問いません。何歳であっても新しい人生を歩むことができる。それは本当に素晴らしい恵みではないでしょうか。
 アブラムたちは、神が示されたカナン地方に入りました。しかし、そこにはカナン人(異教の民)が住みついていました。アブラムの期待と現実は全く違っていました。「話が違うじゃないか」と思ったかも知れません。しかし、そんなアブラムに神様は語りかけます。「あなたの子孫にこの土地を与える」と。
そして、新しい土地に来て、ショックを受けたアブラムでしたが、そこで彼がまず行ったことは、自分たちが住む家を作るのではなく、生きていくために必要な井戸を掘ることでもなく、主なる神に礼拝をささげるための祭壇を築くことでした。彼の心の中には不安や疑いや迷いがあったかも知れません、しかし、それでも神様への感謝と応答である礼拝を一番大切にしたのです。
2017年、私たちもこの礼拝を、他のどんなことよりも大切にし、共にささげて参りましょう!

松﨑 準

イエス・キリストのご降誕を共に喜びましょう!

聖書に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とあります。
すなわち、「神の御子が人となって、この世に来られた」という意味です。神様が私たち一人一人と一緒に生きてくださる。こんな温かなメッセージは他にありません。クリスマスは、私たちとって決断の時でもあります。私たちのためにお生まれになった主イエスを心にお迎えしましょう。そして、主イエスと共に歩ませていただきましょう。

松﨑 準

 ♪待ちわびし日 静かな夜に かがやく明星 闇に勝ちて
 ♪世を照らせり きよきこの日 救いの主なる イエス生まれぬ(1節)

◆当時、北九州市に大韓教会の会員が経営する喫茶店「山小家」がありました。この讃美歌は、「山小家」を会場に、大韓教会の方たちとの交わりと、真のクリスマスを祝うために開催された青年会主催のクリスマスコンサートに向けて作られました。

◆「12月に入ると町はクリスマス一色になり、日本人は総クリスチャンになります。デパート等ではクリスマスを売り物にしている。そのような現実を憂い、"真のクリスマスを伝えたい"と祈りながら、勤務先付近の繁華街を歩いていたなかで詞と曲が与えられました。山小家はその繁華街にあり、世俗との戦いの中、まさに"真のクリスマス"を示した曲です。原曲は4番まであり、キリストの生誕のみならず生涯まで綴りました。穏やかな詞と曲ですが、"人間が作った光はどんなに輝いていても消え去る。しかし、キリストが与える光は小さくても強く永遠にひかり続ける"という力強いメッセージを込めています。」(作曲者 天野時生)

◆真のクリスマスの光は、繁華街のきらびやかな光でも、駅前のきれいなイルミネーションの光でもなく、私たち一人一人の心を照らす主の光です。今年のクリスマスイヴ礼拝の中で、この讃美歌を歌います。以上のような背景を心に留めつつ、共に賛美しましょう!

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1:14)

松﨑 準

     〜ダニエル書に生きる(3)〜

◆神は、世界の歴史を導かれる主です。ダニエルを通して、終末の時までの世界の歴史を前もって示して下さいました。

◆今、この世の主権者(「この世の神」と言われる「サタン」)は、ますますその力を強固にし、神の民を圧迫しています。ダニエルが預言している終末を思わされます。一方、ダニエルを通して示された真の主権者なる再臨の主が戸口に近付かれる足音が聞こえてきています。

◆月面を歩いた宇宙飛行士ジム・アーウィンは、そこで神の存在を確信しました。彼は伝道者になり、日本にも来られました。その彼が言いました。「人間が月の上を歩いたことよりも、もっと偉大なことは、神の子イエスがこの地球を歩かれたことだ」と。

◆神の子は、人間としてこの地に生まれ、33年の生涯を終え、見事にその任務を成し遂げられて天にお戻りになられました。

◆今年もクリスマスを迎え、救い主イエスさまのご降誕を祝いますが、一方、もう一度私たちをお迎えに来てくださるイエスさまをおぼえる時でもあります。幾千幾万の天使と共に、雲に乗って私たちをお迎えに来てくださいます。あなたの名前を呼び、あなたを迎え入れてくださる救い主がやがていらっしゃいます。クリスマスは2000年前にこの地に誕生された救い主を祝うと同時に、これからおいで下さる再臨の主をお待ちする日でもあります。 

石田政美

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