◆ヨシュア記の23章、24章は、ヨシュアの告別説教と言われている箇所です。創世記のヤコブの言葉、申命記のモーセの言葉、主からの祝福が中心に語られていました。年齢を重ねて、年老いていく中で、後世に何を伝えていくのかということは、多くの方が考えることでしょう。遺言という形で残されたりもします。ヨシュアは自身の人生の終わりに際し、イスラエルの民に別れの言葉をかけたのです。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に対し、神がイスラエルに何をなさったかを語りました。その中で、「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。」(23:14)と語った通り、主の約束されたことは全てがイスラエルの民に実現しました。具体的に主がなさったことは、イスラエルの先頭に立って、戦われたこと。(23:3)主が共にいてくださったので、約束の地を嗣業の地として与えられました。(23:4)

◆主の約束が何一つたがうことなく実現したのは、イスラエルの民が主に従い、悔い改め、主を愛していたからです。モーセもヨシュアも、主の教えを守ることを何度も伝えました。それと同時に、主を愛することも伝えていたことでしょう。

◆主は真実な方です。約束してくださったことを守ってくださる方です。その主に私たちも信頼していくものでありたいのです。自身のあゆみを振り返る中に、確かに主が導いてくださったということを確信を持って歩んでいきましょう。

だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。(23:11)

坂西恵悟

◆いよいよ、イスラエルの各部族に土地の割り当てが始まります。13章から始まる割り当ては、くじによって決められました。部族の大きさによって土地のサイズも変わっていました。主がモーセに命じられたとおり、それぞれの部族が土地を割り当てられていったのです。(13章~21章)

◆このような中、カレブはヨシュアの元へ行き要求をしました。カレブは、モーセの時代カナンの地へ偵察にいったメンバーの一人でした。カレブは、カナンの地を偵察し、「断然上っていくべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」とモーセに進言したのです。(民数記13:30~33) 他の偵察に行った人々は、カナンへ上ることを勧めなかったのに対して、カレブは確信を持って進言したのです。そして、ヨシュアと共に、イスラエルの民に約束の地へ行くことを訴えたのです。(民数記14:5~10)この偵察の時、カレブは40歳でした。そして、40年の荒野での旅を終えて、カナンの地に入り、85歳の年を重ねていました。そして、土地の割り当てについて、主が約束してくださった地を与えてくださるようにヨシュアに訴えたのです。

◆85歳になる老人カレブの訴えには、偵察にいった40歳の時と変わらない信仰がありました。「主が共にいてくださる」という信仰です。偵察の時には、「彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)と語り、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(ヨシュア14:12)と語りました。彼の体は間違いなく、衰えていたことでしょう。しかし、カレブの信仰は年を重ねるにつれて、堅くなっていたのです。自分が土地を得るのではなく、主が与えてくださる。主が共にいてくださるからこそ、主の約束が果たされ、主が御業をなしてくださるという信仰に立っていたのです。

坂西恵悟

◆13章からヨシュア記は後半部分に入っていきます。この後半には、12部族への嗣業の土地の配分、ヨシュアの最期が記されています。この割り当てはヨシュアに与えられたもう一つの大きな使命です。約束の地へと入ったイスラエルの民が諸国との戦いを経て、その地に住む。モーセのもとでエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が約束の地に住むことは、神様による救いと平安、安息の中に入れられることです。イエスキリストによって与えられた、救いと平安のモデルとしても見ることができるでしょう。

◆ヨシュアは年を重ねて、老人になりました。おそらく90歳を超えていたと思われます。そのような中でも、彼は主に信頼し、主の言葉に従いました。このヨシュアに神様は、これからの使命をより具体的に語ってくださったのです。(13:1)そして、これまでと同じように主は約束してくださったのです。
わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じた通り、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」(13:6)

◆神様のご命令は、一貫していました。「わたしの命じた通り行え」これは変わることのない言葉です。神に命じられた通りに行ったことはすべてその通りになりました。神様はヨシュアに対して、なすべきことを、神の言葉に従った先のことをいつも示してくださったのです。

◆私たちも主の言葉に従うものでありましょう。その言葉を信じることができなかったのであれば、私たちは何を基準に生きるのでしょうか。常識や当たり前が変わっていく世の中に私たちの基準を置くのではなく、変わることのない御言葉に基準をおいていきましょう。

坂西恵悟

◆「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブル9:28)

◆今、復活祭のシーズンです。聖書の預言のとおりに、御子イエス・キリストは、この地上で人の子として、人類の罪のあがないを完成する十字架の業を成し遂げてくださいました。そして、主は、もう一度、この地に戻って来られます。

◆現在、新型コロナウィルスにより、世界中が未知のウィルス感染の対応と対策に追われています。私たちは、連日の報道であらゆる情報に一喜一憂しています。私たちも連日の情報を見聞きし、とりなし祈る日々を過ごしています。

◆イエス様のご再臨の日時は誰にも分かりませんが、マタイ24章にある「愛が冷え、産みの苦しみ」が増している状況を知り、また、神不在の人間中心の社会構造や、世界の国々が生み出した負の要因や、悔い改めるべき事実が明るみに出されてきていることを思うと、次の御言葉にしっかり向き合う使命を明確にされます。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
(I.ペトロ4:7〜8)

石田政美

◆エリコ、アイと侵攻したイスラエルの民は、さらに西へと進路を進めました。ヨルダン川の西側の山地に住む、ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人はイスラエルの話を聞き、協力してイスラエルに立ち向かうことを決めたのです。ところが、ギブオンの人々は立ち向かうのではなく、策略を立ててイスラエルへと近づきます。彼らは遠い国から来た人々に変装し、イスラエルと協定を結んだのです。(9:1-13)食糧を携えてきた彼らとの協定を結んだヨシュアでしたが、大きな失敗をヨシュアは犯していたのです。それは、「主の指示を求めなかった。」(14)と言うことです。

◆ヨシュアが主の声を求めなかったのは2回目になります。1度目は、アイを攻める時、斥候の話を聞き、その斥候の説明通りに2,3000人で攻め、敗れた時です。そして、このギブオンの人々の協定の時です。このヨシュアの行動は、私たちもよく行ってしまう行動です。神様に祈りながら、御心を求めながら、御言葉に聞きながら歩んでいても、時に、人の言葉によって、一般的な常識によって、経験などによって判断してしまうことがあります。ですから、たとえ自分自身の経験から来ていたとしても、私たちは主への祈り、導きを求めた上で行動を起こしていくことが大切だと思うのです。何か決断をする前に、主の前にへりくだり、これでよいかと祈っていく。これをするのとしないのでは大きな違いがあるでしょう。

◆私もこの行動を行ってしまうことがあります。判断を早くしなくてはいけない時など、焦れば焦るほど、主に祈るということを忘れてしまいます。私たちの軸はキリストであり、神様です。その軸を土台を変えてはいけません。ですから、たとえすぐに判断できたとしても、主に祈ることをしていきたいのです。「主よ、この決断で行動します。どうぞ主の御心を行ってください。導いてください。」と祈り、決断していく者になっていきたいのです。

坂西恵悟

◆木曜日は、洗足の日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りの日でした。金曜日は、受難日でした。この1週間皆さんは、どのように過ごされたでしょうか。7日には、緊急事態宣言が発令されました。これを受け、教会としても会堂での祈り会を休止する決断をいたしました。オンラインでの祈り会を継続していこうと思っていますが、そこに加わることができない方々もいらっしゃいます。その方々のためにも引き続き祈っていきましょう。

◆マルコ14:3-9は、この時期に読まれる箇所の一つです。イエス様がベタニアのシモンの家にて高価なナルド香油を注がれる箇所です。約300万円ほどの香油を注ぐ。このことは、普通の感覚では考えられません。4節にあるように、「無駄遣い」と思ってしまう行動です。

◆彼女の行動には2つの意味があります。一つは、イエスに香油を注ぐことは、イエスが救い主、メシアであることを告白していることです。メシアは「油注ぐ」という意味から来た言葉です。ですから、彼女の行動はイエスが救い主であるという信仰による行動なのです。

◆もう一つは、イエスご自身の口から仰っています。「埋葬の準備」をしたということです。ヨハネ福音書を見ると、この女性はマリヤであるとされています。この女性がマリヤならば、イエス様の話をよく聞いていたと思いますし、意味を知った上での行動でもあったと思います。

◆この時、イエス様が救い主であり、十字架の死によって罪を贖ってくださる方だと信じていたのは、この女性だけだったかもしれません。弟子たちはイエスが逮捕された時、逃げました。そして、ヨハネによると、彼女の行動を否定したのはユダですが、おそらく他の弟子たちも彼女の行動を理解できていなかったことでしょう。

◆イエスキリストが、"わたし"のために十字架にかかってくださったことをこの週特に覚えたいのです。愛を持って、罪から救ってくださった。そのために、ご自身を犠牲にされ死んでくださった。この主の愛は、ここにいた人々だけでなく、今を生きる私たちにも、同じように注がれているのです。

◆なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

坂西恵悟

◆アカンへのさばきが終わり、イスラエルから罪が取り除かれて、イスラエルはきよめられました。神様は、改めてヨシュアに対し、アイに攻めのぼるよう命じられたのです。一度敗北をしている民が、もう一度攻めるというのは勇気がいることです。しかし、これまでと同様に、神様は「恐れてはなならない。おののいてはならない。...あなたの手に渡す。」(8:1)と約束をしてくださいました。神様の約束通り、イスラエルの民はアイとの戦いに勝利しました。

◆その後、ヨシュアは、エバル山とゲリジム山へ民を連れて行きました。エバル山では、主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげたのです。そして、モーセの命令通り、祝福と呪いを律法から読み上げました。(8:30-35)

◆イスラエルの祝福のために行われたこの出来事は、モーセが命じたことでもあります。(申命記27:15-26,申命記28章)焼き尽くす献げ物は、神様に対する従順さ、献身を表し、和解の献げ物は、神様との霊的な交わり、友好関係を願い、それが与えられていることを感謝して献げるものです。神様は、イスラエルを祝福されることを願われています。そのために律法を与え、守るように命じられたのです。

◆イエスキリストの十字架は、私たちがこの祝福に加えられるために必要なものです。イエスを信じ、愛し、主に結びつき、主の戒めを守り行うことが私たちに求められていることです。いよいよ、受難週を迎えます。この1週間、私たちはこれまで以上に主イエスの十字架を覚える1週間としていきたいのです。私のために十字架にかかられたイエスの痛み、苦しみを覚え、感謝し、復活の希望の日曜日を待ち望みたいのです。

坂西恵悟

今週の一面『God be with you』3/29  

管理人

◆所属する合唱団が20年の活動に休止符を打つ事となり、覚えた最後の練習曲を、デリー行き8時間のフライト中繰り返し聞いていた。
『神ともにいまして、ゆく道を守り、日ごとの糧もて、つねに支えたまえ。荒れ野を行くときも、嵐吹くときも、ゆくてをしめして、常に支えたまえ。また会う日まで、また会う日まで、神の恵み絶えせずともにあれ』 新生賛美歌366番

◆3年前、仕事でインドへ行った息子から、ようやく春には帰国出来そうだから、残りわずかな滞在中遊びに来てよと言われ、インド旅行の計画を立てたのは昨年末のこと。衛生用品と医薬品をスーツケースいっぱいに詰め込んだ。どこの国より空気も水も汚れ、世界一の感染病原菌を宝庫とする国で暮らす息子を案じて。準備を進めている間に予測していなかったことが起き始めた。新型コロナウィルスの感染が世界的に広がるという事態。

◆神ともにいまして、この賛美歌の英語タイトルは、God be with you 、後にtill we meet againの言葉が続く。これはGood byeの起源となる文節と言われている。今は互いに離れ離れになるのだとしても、神さまがいつも私たちと共にいてくださることを信じて、「Good bye=God be with you」と挨拶する。そして、この挨拶の中には、いつかまた神さまの祝福の中で再び会うことができることを信じる想いも込められているとのこと。

◆全てが主の守りの中にあってインドへの旅は無事に終え、帰国当日の朝、日本からインド入国が許可されないニュースを聞く。息子の交代要員が足止めとなり、息子もまた日本にはしばらく戻れなくなった。
耳の奥に残る「神ともにいまして」の賛美が祈りに変わる。

守屋まゆ美

◆神様は、人間をよくご存知です。人間が真の神以外のものに目を向けてしまうものであるということをご存知です。だから、神様は、イスラエルの民に律法を与え、私たちに聖書を与え、真の神に目を向ける、イエスキリストに目を向けるように備えてくださったと思います。

◆エリコの町を侵攻したイスラエルの民に、神様は制限をもうけました。金、銀などを主の宝物倉に納めるようにと命じられたのです。(6:19)しかし、この主の命令に従わない者が民の中から起こりました。結果、アイという町を侵攻したイスラエルは敗れてしまったのです。ヨシュアは、主が命じられた通り、従わなかった者、アカンを明らかにしました。アカンは、ヨシュアに対して分捕り物の中の上着、銀、金を取り、天幕の下に隠したと答えました。(7:19-23) 

◆アカンの罪は、むさぼりの罪でした。これは、十戒の10番目の戒めでもあります。彼は、目の前にある分捕り物を自分の物にしたいという誘惑に勝つことができなかったのです。これは、私たちにも起こり得ることです。だから、主がイスラエルの民に命じられたとおり、私たちも御言葉を日々読んでいく、行っていくことが大切なのです。

◆アカンは、神様の前に罪を犯しました。隠していたことから、見つからないだろうと思っていたかもしれません。しかし、主はそれをも見ておられます。私たちは主の前に悔い改め、「きよい、生きた供え物」として歩んでいきたいのです。

「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:16-17)

坂西恵悟

◆ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、いよいよカナンの地への侵攻をスタートしていきました。まず民が向かった先は、ヨルダン川を渡る前に斥候を送ったエリコでした。エリコの町は堅固な城壁に囲まれた町でした。「攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので」とあるように、その守りは強固なものだったでしょう。人間的な視点で言うならば、どのように攻め込むのかを熟考する必要があったかもしれません。固く閉ざされた城門を見て、不安を覚える人もいたかもしれません。しかし主は、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」と約束されました。エリコへと侵攻する前に、主はエリコを渡すと約束してくださっていたのです。

◆なぜ主はエリコを侵攻し、滅ぼすことをなさったのでしょうか。彼らと共存するという選択肢がなかったのはなぜでしょうか。それは、彼らが主の忌み嫌われることをしていたからです。具体的には、申命記18章の習慣をエリコの人々は行っていたのです。主はイスラエルの民がそのような習慣の影響を受けることがないように、カナンへの侵攻を許されたのです。実際、南北王朝時代は、他の神、習慣の影響を受け、神の前に正しくない行いをし続けていました。その結果、イスラエルの民はその報いを受けたわけです。ですから、主がこのように行われたのは、イスラエルの民がまことの神のみを信じ、その神に仕え、その神を礼拝し続けるために、行ったのです。

◆私たちは、このイスラエルの民の弱さを同じように持っています。周りに流されやすいものです。ですから、私たちはまことの神に、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずに歩んでいきたいのです。

坂西恵悟

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