◆サムエル記は、現代の聖書では上下巻になっていますが、元々は一つの書物でした。ここでは、3人の人物に焦点が当てられています。書簡名となっているサムエル、最初の王様サウル、そしてダビデです。これまでのイスラエルはそれぞれの地域において、神様によって召し出されたリーダー、士師によって治められていました。士師の時代を経て、イスラエルの民は王様を求めます。部族ごとではなく、一つの国としてのあゆみを求めていきました。その結果、イスラエルは士師の時代から統一国家への時代へと変化していきます。

◆1章からは、サムエルの物語が始まります。子どものいないハンナは深い悲しみの中にいました。けれども神様の恵みによってサムエルを与えられたのです。この神様の恵みは彼女の喜びとなりました。そして、喜びは彼女の祈りとなっていきます。神様は高ぶる者に敵対し、謙虚な者を引き上げ、世に悪があったとしても神様は目的を成し遂げる方であること。いつの日か油注がれた王様を送ることが祈られています。(2章)

◆サムエルは成長し、イスラエルの預言者、指導者となっていきます。ペリシテ人の脅威が増し、イスラエルとの対立関係へと発展していきます。ペリシテ人の脅威の中、神様に助けを求めたり、信頼するということをせず、契約の箱をお守りのように使用し、結果ペリシテ人に奪われてしまったのです。神様は災いをペリシテ人に与え、イスラエルの民にも神様の前に謙虚であることを教えられました。

◆高ぶる者が下げられていき、謙虚な者が上げられていく。ハンナの祈りの通りになっていくのです。

坂西恵悟

◆ボアズはルツに言ったように、町の門のところへ行き、自分よりも買戻しの責任を持つ親戚にその責任を果たしてもらうよう、長老たちの前ではっきりとさせようとします。当時の町の門は、裁判や商談などが行われていた場所だったそうです。証人がそこにいて、争いごとなどの決着をつける習慣がありました。ボアズもその習慣に従い、自分よりも近いエリメレクの親戚に長老たちの前で買戻しの責任を果たすのかを確認しました。親戚は、当時の習慣に従って履物を脱ぎ、証人の前でその権利をボアズに譲ったのです。ボアズは、それを受け、証人たちの前で責任を果たすことを宣言しました。(4:1-10)

◆こうして、ボアズとルツは結婚し、二人の間に男の子が与えられました。それを見た女性たちは、ナオミを祝福しました。傷心して故郷に戻り、嘆いていたナオミの心は主にある希望によって回復されていきました。先がどのようになるかわからない。けれども、目の前に起きていく出来事を通して、ナオミは確かな神様の深い愛、憐み、慈しみを受け、確かな神様の導きを受け取っていたことでしょう。たとえ、直接的な神様の語りかけがなかったとしても、神様がいつも共におられ、その言葉と約束によって励まされ、慰められ、信仰者の道を歩んでいたことでしょう。それと同時に、ルツの信仰をも主は目をとめてくださり、救い主イエスの系図へと加えられていくのです。

◆ルツ記には、主の約束を信じて生きる人に与えられる、人間の考えを遥かに超えた神様の恵み、ご計画を見ることができます。神様の救いの計画の中において、私たちの苦しみ、悲しみ、無力感などが神様の力によって乗り越えることができ、希望と喜びへと変えられる姿を見ることができます。イエスキリストの誕生を迎えるこの時、改めて主の約束に希望を持って歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

◆ナオミの指示に従ったルツは、ボアズの足下で寝ていました。当時、男性の衣の裾を広げて女性を覆うことは、その相手と結婚する表明だったそうです。この時は、ルツからボアズに結婚を申し込んだ形になりました。ルツの気持ちを知ったボアズは、その思いを受け止め、最善を尽くそうと決意しました。ですから、まずルツに対して主の祝福を求める祈りをしたのです。

◆ボアズは、ルツに提案をしました。確かに、ボアズは責任のある親戚ですが、彼よりももっと近い親戚がいます。その人が、ルツに親戚の役目を果たすのかを確認し、役目を果たさないのであれば、ボアズが責任を果たすというものでした。

◆ここまでのボアズの姿から、彼が感情で行動する人ではなく、主の定められた掟に従順な人であることを見てきました。ボアズとルツは年が離れていたと考えられていますが、そういった中であっても浮き足立たず、ただただ主に信頼し従っている姿を見ることができます。ルツが、朝早く人知れないように帰っていく時、手ぶらで返すわけにはいかないと、大麦六杯を持って帰らせました。ここにも、彼の思いやりをみることができます。ナオミの嘆き(1:21)を逆転させる主の恵みを示すものでもあったでしょう。ナオミは、これを見て、主の恵みによる贖いの時を待ち望むように導かれます。

◆ナオミの「成り行きがはっきりすまでじっとしていなさい」という言葉は、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。」(出エジプト14:13)と語ったモーセの信仰を想起させるものです。

◆ルツ記では、主の語りかけの言葉はありません。しかし、一人一人の行動や言葉には、主の約束を信じる姿を見ることができます。アドベントを迎えるこの時、私たちも主の約束を信じ、待ち望んでいきたいのです。

坂西恵悟

今週の一面「礼拝の朝」11/22  

Shin1

◆その日は、電車にも乗らず、駅から歩くこともなく、カーテンで仕切られた2畳ほどの空間が、主の日の礼拝の場となりました。入院中のベッド上に、JOYの礼拝のライブ配信が届く恵み。新型コロナ禍の中、半年前には考えもしなかった形で、礼拝を捧げられたことにただただ感謝しました。

◆心の中で賛美の声を合わせた後、読み上げられた聖書箇所にドキリとしました。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。」(詩編121:1-2)

◆この箇所は、5年前天に召されたY姉の愛唱聖句です。突然の入院生活の中、ずっとY姉の闘病中のこと、その時姉妹の上に起こった主の御業を思い起こしていたのです。

◆どんな時も、どこにいても、どんな状況であったとしても、いつも主が共にいてくださる、今与えられている痛みも不安も、共に担ってくださる。しかも、その時々にふさわしい課題や試練を与えられると実感した礼拝の朝でした。
「私は、神が人の子らに労苦させるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。」(コヘレトの言葉 3:10-11 聖書協会共同訳)

◆アドベントを迎えようとしている今、コロナ禍の2020年を一緒に歩き続けた教会のみなさま、家族、友人、地域の方々、海の向こうのみなさまと、救い主イエスのご降誕を祝う時を待ちつつ、祈りを合わせたいと願います。

「主をたたえよ 日々、私たちを担い、救われる神を。」(詩編 68:20)

西原 寿美子

◆ボアズの畑で落ち穂拾いをしたルツは、夕暮れ時まで拾い続けました。彼女が拾った大麦は、1エファ(約23ℓ)にも及びました。落ち穂を拾って集めた量としては考えられないくらいの多さです。このことからも、ボアズとその家の人たちの好意がどれほどのものだったかがわかります。ルツは、それを持ってナオミの元へ帰りました。ナオミは、ルツの持って帰ってきた大麦の量に驚いたのです。ルツからボアズの畑で落ち穂拾いをしたことを聞くと、主の祝福を祈ったのです。ナオミは、ルツにボアズが縁続きの人で、彼女達の家を絶やさないようにする責任のある人であることを告げます。ルツに目をかけたボアズによって、彼女たちには、喜びと希望が与えられたのです。

◆神様の視線は、いつもわたしたちに目をかけてくださっています。私たちの実際の生活の中では、このルツのように上手くいくとは限りません。ナオミが経験したように、飢饉や愛する人たちとの死別という現実も起こり得ます。生きる手段、希望を失うこともあります。そのような場合であったとしても、主は、私たちを目にかけてくださるのです。"たまたま"という偶然の中にも、確かな神様の導きがあります。その時々に与えられる恵みを私たちが受け取り続ける、拾い続けることにより、神様の豊かな祝福を受け取ることができるのです。

◆聖書を通して約束されている主の恵みによりたのみ、主の下に身を寄せ、主の下から離れようとしない者に、主の計り知れない恵みが注がれていくのです。私たちも主の下に身を寄せ、そこにとどまり続けていきましょう。

坂西恵悟

◆ナオミの故郷へと来たルツは、畑に落穂を拾いに出ていきました。彼女が、"たまたま"行った畑地はエリメレクの親戚であるボアズの畑地でした。

◆ボアズは、ベツレヘムからやってきて、畑で働く人たちを労い声をかけました。「主があなたたちと共におられますように」と。ボアズは、心から神様を求め、神様の言葉に生きていました。そのボアズをしもべたちは尊敬していたことでしょう。ボアズは、自分の畑にいる見慣れない一人の女性を見つけました。ルツのことを召使いから聞いたボアズは、ルツに対して、他の畑ではなくこの畑で他の女性たちについていくこと、若い者たちが組んだ水を飲んで良いことを話しました。ルツの働きを労り、異邦人であるがゆえの嫌がらせなどを受けないように取り計らったのです。

◆ルツは、顔を伏せ、地面に平伏しました。よそ者の自分に厚意を示されたことで恐縮したからでしょう。けれども、ボアズの応答は、ルツのこれまでの行動がただナオミに対しての感情だけでなく、イスラエルの神に対する信仰から出たものとして受け止め、主の御翼の下に身を避けようとしてやってきた彼女に主の報いを祈ったのです。

◆主の報いを祈ることを私たちも祈ります。私たちも、イエスキリストによって、主の御翼の下に避け所を見出したものです。主こそ、私たちの避け所です。ルツは、ボアズを通して主の報いをいただきました。主に身を避ける者だったからです。私たちも主に身を避ける者としてあゆみ、主の豊かな報いを感謝して受け取っていきましょう。

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。詩編46:2

坂西恵悟

◆ルツ記2章では、絵画でも有名な落ち穂拾いから始まります。「ナオミと呼ばず、マラ(苦い)と呼んでください」(1:20)と愛する夫、息子たちを失い、悲しみの中、故郷へと帰ってきたナオミ。そのナオミに従って異邦の地へと訪れたルツ。この二人に、主は道を備えてくださっていたのです。

◆ボアズはエリメレクの親戚であり、有力者でもありました。ルツが、たまたま行った畑は、このボアズの所有する畑でした。

◆ルツがナオミに「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言いました。(2:2)この言葉には、彼女らの置かれた現状が表されています。当時、落ち穂拾いは貧しい者や寄留者たちのためのものでした。(レビ記19:9,10) このことからも、彼女らは貧しく、ルツも異邦人だったので、この律法通りに行動をしたのです。主なる神様からの律法には、誰一人こぼれることなく、恵みを与えてくださるものであることがわかります。この背後には、主なる神様への信仰がありました。収穫は、神様が与えてくださった恵みだから、独占するのではなく、必要とする人々へも分かち合うことが必要なのだということです。ルツは、この律法をもとに誰かの畑で落ち穂拾いをさせてもらおうと行動したのです。

◆私たちは、神様のご計画を100%知ることはできないでしょう。私たちの目から見たときに「これもご計画なの?」と思ってしまう出来事も、あります。ルツは、家族を失い、異邦人の地へと引越し、そこで弱者の立場で生活をしていました。人間的に見ると、最悪と思える状況かもしれません。それでも、主は、彼女を見捨てられませんでした。彼女に将来と希望を与えてくださっていたのです。

坂西恵悟

◆愛する夫と息子たちを失ったナオミは、故国ユダに帰る決断をしました。主が民を顧み、食べ物を与えてくだっさったことを聞いたからです。そのナオミの決断に、二人の息子の嫁たちもついていく決断をしました。ナオミは、彼女たちに「自分の里に帰りなさい」と強く勧めたのです。それでも、一緒について行くと泣いて訴える二人。その思いは、ナオミにとって大きな励ましと慰めだったことでしょう。それでも、ナオミは彼女たちの将来を考え、彼女たちを自分の里に帰るように強く語ったのです。(1:11-13)ナオミは、自分の置かれた状況に関して「主の御手がわたしに下された」と語り、信仰をもってこのことを受け入れました。

◆オルパは、別れを告げ、ナオミの下を離れました。しかし、ルツは別れず、ナオミに続いて行ったのです。この二人の大きな違いは何でしょうか。「自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている」オルパに対して、ルツは「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と告白し、不誠実な理由でナオミの下を離れるならば、「幾重にも罰してください」と誓ったのです。ルツは、ナオミの信じる主なる神様を信じたのです。そして、その主からの祝福を求めたのです。

◆このルツの決断は、大きな決断です。自分の民、自分の神を捨て、ナオミの神を自分の神とする。その決断の先には、主からの豊かな祝福を預かることとなるのです。(マタイ1:5)

◆この背後には、民を顧みられる主なる神様がおられます。その主を信じるナオミ、ルツには主の深い配慮と導きが表されていきます。神様は、依り頼む民の信仰を顧みられるお方なのです。ですから、私たちも彼女らのように信仰を公に告白し、主に依り頼む者でありたいのです。

坂西恵悟

◆ルツ記は、「士師が世を収めていたころ」(ルツ1:1)とあるように、士師記の時代の物語です。これまで見てきたように、士師記の時代は不信仰と無秩序な時代でした。その士師記と同じ時代とは思えないほどに、登場する人物たちは善意や配慮がありました。ナオミ、ルツ、ボアズの三人の姿はとても純粋で、相手を思いやり、不信仰、無秩序の時代の中にあっても信仰を持ち続けていたのです。たった4章の短い書ですが、士師記とのはっきりとしたコントラストを見ることができます。一つの家庭にある確かな主の祝福を見ることができるのです。彼らの誠実さ、忠実さは現代を生きる私たちも見習う模範となります。

◆飢饉が国を襲い、1つの家族はベツレヘムを出てモアブへと移り住みました。エリメレク、妻のナオミ、その息子マフロン、キルヨンです。ルツ記全体を通してみるナオミの姿から、エリメレクの一家は主に誠実であったことでしょう。そんな家族に悲劇が襲います。エリメレクの死、その後10年過ごしたモアブの地でマフロン、キルヨンの二人の息子も死んでしまったのです。ナオミは住み慣れたモアブを去って故郷に戻る決断をしました。けれども、彼女は決して一人ではなかったのです。オルパ、ルツの存在はナオミにとって大きな慰めだったことでしょう。またナオミが故郷に戻る決断を押し出したのは「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」という主の取り計らいでした。

◆私たちが悲しみのどん底にいる時、何もないように思えてしまいます。けれども神様は「その民を顧み」てくださったように、ナオミたちを顧み、私たちをも顧みてくださっているのです。主はいつまでもご自分の愛する者たちを悪い状況に置くのではなく、その先の希望を祝福を示してくださるのです。このことをルツ記を通して御言葉に聞いていきましょう。

坂西恵悟

◆神の前に罪を犯し、その地の民族に征服され、悔い改めた民に指導者としての士師をお遣わしになる。その士師によって平穏が与えられる。士師記は、この流れを何度も繰り返しました。これは、モーセ、ヨシュアを通して語られた神の律法を守らなかったゆえに起きた出来事です。士師たちが、いなくなった後のイスラエルは、堕落していました。神を忘れたイスラエルの姿は、非常に醜いものでした。イスラエルが自滅するほどに堕落したのは、彼らを愛してくださった神から離れた結果です。つまり、神から離れる時、私たちに待っているものは堕落になるのです。

◆士師記の終わりは「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」で終えられています。まさに、この時代を象徴する言葉です。イスラエルを統率し、主のみこころを示す指導者もいない。それぞれが、自分の目で見て、考えて正しいと思うことを行った結果、士師記に見られる偶像礼拝、道徳的堕落、混乱が起こされて行ったのです。このような混乱の中で、12人の士師たちがイスラエルを救い、統治しました。それでも、イスラエルは堕落を繰り返していったのです。

◆私たちが生きているこの時代も、形は違えど、混乱や無秩序、堕落が起こっています。イスラエルに士師たちが現れ、神様の言葉を伝えたように、今の私たちには聖書によって神様の言葉を受け取ることができます。真っ暗な状況の中、一人の王様を立てられたイスラエルのように。光となって来られたイエス様が、私たちを治めてくださっているのです。御言葉と祈りによって、今の時代を私たちは主と共に生きていきたいのです。

坂西恵悟

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