◆バラクによってシセラは打たれ、カナンの王ヤビンに勝利しました。この戦いの後で、デボラは勝利の歌を歌ったのです。「わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって わたしは賛美の歌をうたう。」(5:3)この賛美から始まった歌、その歌にはイスラエルの民が主の目に悪を行ったことが歌われ、その罪の故にイスラエルの民が他民族よって苦しめられたことが歌われています。この中でデボラは自分自身に対して歌っている部分があります。「奮い立て、奮い立て、デボラよ 奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ」(5:12)

◆イスラエルの民の苦しみを思い、主に助けを祈り求めているデボラでさえ、「奮い立て」と歌ったのです。まるで、自分自身に言い聞かせるように。この混乱の中、主への信仰にしっかりと立たなくてはならないことを知っていたのでしょう。デボラ自身が主に信頼すること、主の確かさの中いることを確認しながら、この時を歩んでいたのです。

◆デボラは、主の助けによって勝利を得ました。そして40年に渡って平穏が与えられました。しかし、そこに至るまでの勝利は主への信仰を持ちながらも、不安や緊張があったことでしょう。それでも、主への信仰によって彼女自身が確固たる場所に立っていたと思うのです。ヘブライ人の手紙の中でも彼女たちの信仰が語られています。(ヘブライ11:32-34)

◆何が出来る出来ないではなく、神様への信仰によって行動することが大切なのです。事を成すのは神様です。神様の助けによって、神様の力が与えられて、私たちは行動していくことが出来るのです。デボラを選び、立たせた主は今も生きておられ、私たちを同じように力づけ、立たせてくださるのです。

坂西恵悟

◆エフドの死後、イスラエルはこれまでと同じように主の目に悪を行いました。主は、カナンの王ヤビンの手にイスラエルを渡されたのです。イスラエルは、ヤビンの将軍シセラによって苦しめられていました。主に助けを求めたイスラエルの人々に、主はデボラを士師として遣わされたのです。

◆神様が選ばれた士師には、条件が必要なのでしょうか。ここまでの士師たちは、それぞれの特徴がありました。オトニエルには、主の霊が臨み力強い戦いをしました。(3:10)エフドは、左利きであることが強調され、その点を有効に用いました。(3:15)シャムガルは、牛を追う棒でペリシテ人600人を打ちました。(3:31)牛追う棒は、農作業で使う道具ですから、彼は普段から農作業をしていたのでしょう。そして、デボラは女預言者でした。このように、神様が選ばれた士師は性別も職業も、おそらく年齢も異なる人々でした。神様は、その時代、その場所に必要な人を用いようとされるのです。

◆適材適所という言葉があります。一般社会の中でもこのことは意識されているでしょう。しかし、残念ながら、人間が行うには不確実な物です。けれども、神様の行われることに間違いはありません。ですから、私たちが置かれている環境や状況は、主が"わたし"を召してその場に置いてくださっているのです。

◆士師達は、主の召しを受けて立ちました。彼らがしたことは、主の声に聞き従いました。これは、士師達だけでなく、聖書に出てくる人物が行っていることです。ですから、時代も環境も違っていても、主の言葉に従い続けた信仰者たちのように、私たちも主の声に聞き従い続けていく者でありましょう。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)

坂西恵悟

◆二人目の士師は、エフドです。エフドは、ベニヤミン族の出身で、「私は賛美する」という意味の名前です。エフドの曾祖父が、ベニヤミンです。

◆イスラエルの民は、"またも"主の目に悪とされることを行いました。その結果、神様は、モアブの王エグロンを強くされ、なつめやしの町(エリコ)を占領したのです。エグロンは、18年間イスラエルを支配したのです。このイスラエルの民は、オトニエルの時代と同じでした。主への背信、主からのさばき、民の悩み、叫び、士師の登場。同じ様式でエフドは選ばれ、立てられたのです。

◆神様は、エフドを救助者として立てられました。エフドは、エグロンのもとへ行き、エグロンを討ったのです。その後、モアブはイスラエルの手によって陥落しました。イスラエルは、80年の平穏を得たのです。エフドの後には、シャムガルが立てられました。1節のみの取り扱いですが、確かにイスラエルの民を救ったのです。

◆士師によって平穏が何十年続いたとしても、イスラエルは同じことを繰り返しています。士師記は、このことを繰り返し伝えています。人間の弱さをはっきりとみることのできる書物かも知れません。私たちも同じ失敗を何度も繰り返してしまうことがあります。その失敗により主に悔い改めることを何度もしているでしょう。失敗をし続ける私たちを、主なる神様は見捨てることをなさらず、むしろイエスキリストによって、平穏を与えてくださるのです。士師記の時代は、限られた時間だけの平穏でした。けれども、今の私たちは、イエスキリストが私たちを治めてくださり、今も生きておられる主が私たちと共にいてくださるのです。その主のもとに、私たちは平穏をいただくことができるのです。

坂西恵悟

◆イスラエルの人々は、主の前に悪とされることを行いました。また、彼らは主ではなく、他の神々に仕えていたのです。その民に対して、主は怒りを覚え、クシャン・リシュアタイムの手に渡されたのです。外国の圧政によって苦しんだイスラエルは主に助けを叫び求めました。その求めに主は応じてくださり、救助者を立ててくださったのです。

◆この士師の時代のイスラエルは、主に対する背信→主の怒りとさばき→民の叫び→士師による救助。この形が何回も繰り返し行われています。人間的に見るならば、「いい加減にしてくれ」と思ってしまうところですが、主なる神は忍耐を持ってくださり、イスラエルの民の叫び、悔い改めに応えてくださるのです。

◆イスラエルの救助者として立てられたオトニエルは、カレブの甥っ子でした。オトニエルは始め「救助者」として立てられました。イスラエルを助ける者として立てられたのです。主の霊が臨んだオトニエルは、士師としてイスラエルを治めました。主の手によって、オトニエルはクシャン・リシュアタイムを抑えて40年に渡って国が平穏になりました。士師は、罪と苦難の時代に召し出され、イスラエルをさばき、治め、救助者として立たされました。士師は継承されるものではなく、時代、場所は、それぞれです。しかし、主の確かな守りと憐みが、士師を通して臨むのです。

◆士師記を見て行くと、人間の罪を繰り返す弱さを見ることができる一方で、主なる神様の忍耐と憐みを繰り返し見ることができます。主なる神は同じように、私たちに対しても忍耐してくださり、イエスキリストを救い主として送ってくださったのです。

坂西恵悟

◆2016年のリオオリンピックで、男子400mリレーが銀メダルを獲得しました。「日本人は、短距離では勝てない」という言葉が言われ続けていた中での快挙でした。その快挙のきっかけとなったのが、「バトンパス」でした。バトンの受け渡しを突き詰めたことで銀メダルを獲得できたのです。

◆クリスチャンも「つなぐ」ことがあります。「信仰継承」と呼ばれるものです。この「信仰継承」はいつの時代も考えられたものでしょう。私自身も一人の親として考えるものの一つです。成功談、失敗談は数多くあります。それは、聖書の中にもあります。エジプトを脱出し、荒野の40年を過ごし、約束の地へと入ったイスラエル。モーセ、ヨシュアがリーダーとして召しだされました。彼らと共に過ごした人々は主に信頼し、従う歩みをしていました。ヨシュアの死後も、ヨシュアと共に生きた長老たちの存命中は続いていました。

◆しかし、時間が流れ、新しい世代になった時、イスラエルの民は主に従うことをやめてしまったのです。彼らが選んだのは主ではなく、バアルなどの他の神々に従ったのです。このような民に、主は「士師」を立たせてくださいました。士師は、「さばく」や「治める」という意味があり、別の訳では「さばきつかさ」とも訳されています。士師は、イスラエルの民を「治め」、「正しくさばく」働きをしていたのです。この士師の元でイスラエルの民は、主を見続けることを選ぶのです。

◆私たちは、日々の生活の中で主以外のものに心を向けてしまうことがあります。また、主の前に罪を犯します。しかし、イエスキリストによって、私たちは主の前に正しく歩むことができるのです。私たちがつなげていくことは、イエスキリストによる福音です。この福音によって、私たちは主に従うことができ、主の豊かな祝福の中を歩むことができるのです。

坂西恵悟

◆110歳でその生涯を終えたヨシュア。彼が、イスラエルの民に最後に伝えたこと、語ったことは、主である神がイスラエルに何をしてくださったのか(23:14)、イスラエルは主に対して何をすべきなのか、主はイスラエルに何を警告しているのか、主の命令を破るとどうなるのかを23章で語りました。この24章では、主をおそれ、誠実と真実をもって主に仕えるようにと語ったのです。また、この24章は民との対話になっています。ヨシュアの問いかけに対し、民が応答する。この民の応答は、私たちの応答のモデルです。イスラエルの民のように、私たちも応答していくことが大切です。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に真の神に仕えるのか、他の神々に仕えるのかをはっきり選ぶように勧めました。どっちつかずではありません。その問いかけに対し、イスラエルの民は、はっきりと真の神に仕えることを告白したのです。
民はヨシュアに答えた。『わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。』」(24:24)

◆民は主に仕えること(24:24)、主を礼拝すること(24:21)を選びました。主への信仰をはっきりと告白したのです。

◆私たちは、どうでしょうか。はっきりと選び取っているでしょうか。どっちつかずになっていないでしょうか。イスラエルの民が体験した主の御業は、大きな恵みでした。その主が、同じように私たちに御業をなしてくださるのです。その御業は、イエス様の贖いです。私たちは、この主に仕え、その声に聞き従うものでありましょう。

坂西恵悟

◆「聖書の登場人物で誰が一番好きですか?」という質問に対して,私は毎度悩みます。それは、自分の名前がまず浮かんでしまうからです。少しマイナーな人を挙げようとしてもやはり、授かった名前からは逃げられないようです。         

◆しかし、いまでも聖書に書かれている彼の歩みから学ばされます。モーセの生きている時代、ヨシュアはアマレク人との戦いや、カナン偵察などに登場しています。後にモーセの後任者としてエリコを打ち―約束の地カナンへイスラエルの民を導きます。

◆彼の好きなところは、彼は一貫して主の前に忠実な戦士であったことです。初めてヨシュアを知ったのは、エリコ侵略(聖書アニメ)ですが、ヨシュアはヒーローでスーパーマンだと思っていました。確かに素晴らしい戦士ですが、ヨシュアは民の指導者である以前に、主のしもべであったということを後に知りました。主のしもべであったこと、また主の約束(カナンの地)があること。それ故に○○の中でも固く主を信頼し続け、ヒーローのような素晴らしい御業を体験できたのだと思います。     

◆ヨシュアと比べると、私は不安に弱いです。勉学や、これから始まる仕事、コロナ禍など、気づけば目先の不安に捕らわれ、自分の主が神様でなくなってしまうときがしばしばです。また、気づけば問題も問題とすら認識せずに大切なことを忘れてしまうときもあります。しかし、次のような御言葉に助けられたいと思います。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネ16:33)
強く、また雄々しくあれ。...わたしはいつもあなたと共にいる。(申命記 31:23)

そして、ヨシュア記の最後に書かれている言葉にも応答するものでありたいと思います。
あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。(ヨシュア記 24:22)

澤田芳矢

◆ヨシュア記の23章、24章は、ヨシュアの告別説教と言われている箇所です。創世記のヤコブの言葉、申命記のモーセの言葉、主からの祝福が中心に語られていました。年齢を重ねて、年老いていく中で、後世に何を伝えていくのかということは、多くの方が考えることでしょう。遺言という形で残されたりもします。ヨシュアは自身の人生の終わりに際し、イスラエルの民に別れの言葉をかけたのです。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に対し、神がイスラエルに何をなさったかを語りました。その中で、「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。」(23:14)と語った通り、主の約束されたことは全てがイスラエルの民に実現しました。具体的に主がなさったことは、イスラエルの先頭に立って、戦われたこと。(23:3)主が共にいてくださったので、約束の地を嗣業の地として与えられました。(23:4)

◆主の約束が何一つたがうことなく実現したのは、イスラエルの民が主に従い、悔い改め、主を愛していたからです。モーセもヨシュアも、主の教えを守ることを何度も伝えました。それと同時に、主を愛することも伝えていたことでしょう。

◆主は真実な方です。約束してくださったことを守ってくださる方です。その主に私たちも信頼していくものでありたいのです。自身のあゆみを振り返る中に、確かに主が導いてくださったということを確信を持って歩んでいきましょう。

だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。(23:11)

坂西恵悟

◆いよいよ、イスラエルの各部族に土地の割り当てが始まります。13章から始まる割り当ては、くじによって決められました。部族の大きさによって土地のサイズも変わっていました。主がモーセに命じられたとおり、それぞれの部族が土地を割り当てられていったのです。(13章~21章)

◆このような中、カレブはヨシュアの元へ行き要求をしました。カレブは、モーセの時代カナンの地へ偵察にいったメンバーの一人でした。カレブは、カナンの地を偵察し、「断然上っていくべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」とモーセに進言したのです。(民数記13:30~33) 他の偵察に行った人々は、カナンへ上ることを勧めなかったのに対して、カレブは確信を持って進言したのです。そして、ヨシュアと共に、イスラエルの民に約束の地へ行くことを訴えたのです。(民数記14:5~10)この偵察の時、カレブは40歳でした。そして、40年の荒野での旅を終えて、カナンの地に入り、85歳の年を重ねていました。そして、土地の割り当てについて、主が約束してくださった地を与えてくださるようにヨシュアに訴えたのです。

◆85歳になる老人カレブの訴えには、偵察にいった40歳の時と変わらない信仰がありました。「主が共にいてくださる」という信仰です。偵察の時には、「彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)と語り、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(ヨシュア14:12)と語りました。彼の体は間違いなく、衰えていたことでしょう。しかし、カレブの信仰は年を重ねるにつれて、堅くなっていたのです。自分が土地を得るのではなく、主が与えてくださる。主が共にいてくださるからこそ、主の約束が果たされ、主が御業をなしてくださるという信仰に立っていたのです。

坂西恵悟

◆13章からヨシュア記は後半部分に入っていきます。この後半には、12部族への嗣業の土地の配分、ヨシュアの最期が記されています。この割り当てはヨシュアに与えられたもう一つの大きな使命です。約束の地へと入ったイスラエルの民が諸国との戦いを経て、その地に住む。モーセのもとでエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が約束の地に住むことは、神様による救いと平安、安息の中に入れられることです。イエスキリストによって与えられた、救いと平安のモデルとしても見ることができるでしょう。

◆ヨシュアは年を重ねて、老人になりました。おそらく90歳を超えていたと思われます。そのような中でも、彼は主に信頼し、主の言葉に従いました。このヨシュアに神様は、これからの使命をより具体的に語ってくださったのです。(13:1)そして、これまでと同じように主は約束してくださったのです。
わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じた通り、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」(13:6)

◆神様のご命令は、一貫していました。「わたしの命じた通り行え」これは変わることのない言葉です。神に命じられた通りに行ったことはすべてその通りになりました。神様はヨシュアに対して、なすべきことを、神の言葉に従った先のことをいつも示してくださったのです。

◆私たちも主の言葉に従うものでありましょう。その言葉を信じることができなかったのであれば、私たちは何を基準に生きるのでしょうか。常識や当たり前が変わっていく世の中に私たちの基準を置くのではなく、変わることのない御言葉に基準をおいていきましょう。

坂西恵悟

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