「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」(詩編100:1,2)

◆礼拝は「神様への応答」です。では、何に対しての応答なのでしょうか?それは、神様が私たちを招いてくださることへの応答なのです。

◆礼拝プログラムの中に「招詞(招きの言葉)」があります。神様が、私たちの罪をゆるしてくださり、神の子どもとして私たちをご自分のもとへと招いてくださるという意味があります。この詩編100は、招詞としては非常に有名な箇所です。ここでは、神様の招きに対して私たちのあるべき応答の姿が書かれています。

1.主に向かって喜ぶ
 この詩編の詩人はどのように神様への応答を行うのか、一番はじめにあげたことが「喜ぶ」ことでした。礼拝は、沈黙してささげるものではなく、喜びの叫び、歌を持ってささげるものなのです。毎週の礼拝で「喜び」はありますか?「喜び」をもって集まっているでしょうか?私たちは、親しい友人などに招かれる時、どのような思いを持つでしょうか。反対に、友人を招く時、どのような思いを持ちますか。招かれる側が疲弊しきっているととても残念だと思うのです。友人に招かれた際、そのような状態で伺うことはしないでしょう。礼拝も同様です。神様は私たちを招いてくださっています。私たちは「喜び」をもって、その招きに応答することが大切です。

2. 主に仕える
 2つ目に「主に仕える」ことを聖書は教えています。教会の礼拝には様々な奉仕があります。司会、説教者、奏楽者、受付、アッシャー、ナースリーなどの目に見える奉仕、週報作成、印刷、掃除などの目に見えない奉仕。1回の礼拝を行うために様々な奉仕によって支えられています。奉仕をしてくださりありがとうございます。神様も一番喜んでくださっているでしょう。私たちが「主に仕える」こと。これも私たちの「神様への応答」です。奉仕を通して主を喜び、賛美し、感謝を表していると思うのです。誰のためでもなく、主のために共に仕えていきましょう。        礼拝③につづく

坂西恵悟

◆バプテストの教会員手帳には「礼拝は、復活して今ここに生きておられるキリストを喜び祝うことなのです。」(教会員手帳 p.46) とあります。礼拝は、「神様への応答」であったり、「仕えること」であったり、「ひれ伏すこと」であったりと様々な側面があるでしょう。様々な面がある中で共通していること、それは、「神様の恵みのゆえに、神様が私たちを招いてくださった」ということだと思うのです。今週から、礼拝について共に聖書から学んでいきましょう。

◆聖書における一番最初の礼拝。それは、カインとアベルのシーンです。(創世記4章)彼らは、主の元にそれぞれ献げ物をもってきました。カインは地の作物を、アベルは羊の群の中の最上の肥えた初子を献げました。この後のことについては聖書を読んでいただきたいと思います。このことから礼拝とは、「神様への献げ物」であるということがわかります。カインとアベル以降、ノアもアブラハムも礼拝をする時には献げ物を携えています。では、今日の私たちが献げる物は何でしょうか?

詩編51:19
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」

◆私たちが、神様に献げる物は「悔い改め」です。説教を聴きに来る前に、交わりをする前に、賛美をする前に、まず私たちは悔い改めをすることが必要です。神様の前に聖くあること。それを私たちは目指すことが必要です。もし、礼拝前に悔い改めていないことがあれば、まず悔い改めの祈りをしてください。そこから礼拝が始まります。前奏や賛美からではなく悔い改めから礼拝は始まるのです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
ローマの信徒への手紙12:1

坂西恵悟

◆最近、我が家はコーヒーメーカーが故障してしまい、新しいものを購入しました。とても美味しく淹れることが出来るので非常に満足していますが、一つだけ気になる点があります。それは今までのものより少し時間がかかるということです。それでも、私はこの製品が非常に美味しいコーヒーを淹れてくれると知っているので、多少時間がかかったとしても、出来上がりまで焦らずに待つことが出来ます。

◆さて、祈りについてはどうでしょうか?もちろん、神様は祈りに対して、最善をなしてくださる方であることを私は知っています。にもかかわらず、その時をひたすら信頼して待つことができず、早く祈りの結果を見せて欲しいと焦ってしまうことがあります。

◆今は早く結果を求められる時代です。スマートフォンで検索すれば結果はすぐに出てきます。しかし祈りはそういうものではありません。同じ祈りを変わらずに安定して継続していくこと、そして結果を焦らずじっくり待つことが大切です。思い浮かんだことを次々と祈ることも必要かもしれませんが、神様に祈り始めた課題を手放すことなく続ける、ということを今学んでいます。

「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」

詩篇119編65節(新改訳)

高橋利佳

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)

◆教会の目的③は、大宣教命令です。
新約聖書の四福音書すべてに共通して、書かれている弟子たちを派遣するシーンです。この派遣ののち、弟子たちは各地で宣教を行いました。(マルコ16:19)福音書ごとに表現は違っていますが、「福音を宣べ伝えること」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「証人になること」が書かれています。この大宣教命令から2000年ほど経ち、今の私たちまでつながっているのです。「伝道」「宣教」と聞くとなかなか一歩踏み出すのが難しいです。日本においては「外国の宗教」であるからこそ、難しさを覚えるでしょう。このような中、私たちはどのように伝えれば良いのでしょうか。

◆1.救われた喜びの中で生きる。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

(ルカ1:46,47)

救われた時の喜び覚えてますか?その喜びの中で今生きていますか?私たちがその喜びの中で生きる時、そこに主は確かに働かれます。生き生きしている人と、生き生きしていない人どちらに惹きつけられますか?生き生きしている人だと思います。24時間365日生き生きすることは難しいです。でも、何かあったとき、何気ないときに救われた喜びの中で生きることにより、周りの人への良い影響を与えるでしょう。そこからキリストを伝えるチャンスがあるのではないかと思うのです。

◆2.クリスチャンであることを"自然"に知ってもらう。
私たちがどんなに生き生きして、魅力的な生き方をしていても、その理由を知ることができなければ他の人には伝わりません。ぜひ、会社で学校で友人関係の中でクリスチャンであることを知ってもらってください。そこから伝道は始まります。

大宣教命令②に続く

坂西恵悟

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)

◆教会の目的②は、一つの所に集まることです。新約聖書において教会は「エクレシア」と訳されています。元々は、「呼び出された者の集まり」という意味があります。しかし、当時のユダヤ社会において、この「エクレシア」はキリスト教の集まりというより、ギリシャの議会などに使用されていた言葉でした。この「エクレシア」は招集によって市民を集め、神々への祈りと犠牲をささげることをもって始められたそうです。新約聖書において初めて「エクレシア」が「教会」として使用されたのは、マタイ16:18です。私たちが集まる所の土台、それが「この岩」です。「この岩」は新約聖書の時代においても、今の時代のおいても変わりません。では、「この岩」とは何でしょうか。それは、直前のペテロの告白(マタイ16:16)です。御子を正しく知り、それを言い表すことを基礎として、イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言いました。

◆教会は、私たちが集まりたいから集まったものではなく、神様によって集められているということを私たちは確認しなければなりません。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20:28)とあるように、イエスキリストの十字架によって一つに集められています。その中で、信じている者もそうでない者も集まり神様の前に近づく集まりなのです。

◆神様によって集められ者が神様を礼拝する集まり、それが教会の目的の一つです。神様によって集められた教会のかしらはイエスキリストです。エフェソ1:23にあるように私たちはキリストのからだです。神様によって集められた者はかしらであるキリストに従って歩んでいくのです。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

坂西恵悟

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)

◆教会は何の為にあるのでしょうか。福音を伝える為?隣人を愛する為?神様を礼拝する為?答えは様々だと思います。「これが答え!」という教会論を言いたい訳ではありません。多様性が求められる今日において、教会の目的や役割は多岐に渡るでしょう。しかし、様々な目的や役割が教会にある一方、変わらないこともあります。それは、イエスキリストの十字架と復活です。では、なぜイエスキリストは来られたのでしょうか。前述した聖書箇所を通して確認致しましょう

◆ルカによる福音書19章は徴税人ザアカイのストーリーから始まっています。このザアカイのストーリーの後、10節の御言葉があります。ローマ帝国統治時代、徴税人はローマ帝国の公務員でした。イスラエルの民からしてみると帝国の犬だったわけです。ただ税金を集めるだけならまだよかったかもしれません。徴税人は税金を民衆から多く取り立てて、私服を肥やしている人が多くいたことでしょう。そのようなことから、民衆に嫌われる存在でもありました。19章に出てくる人物ザアカイも同様でした。彼は、徴税人の頭で金持ちでした。(2節) また、ザアカイは民衆から罪人の烙印を押されていました。(7節) そんなザアカイの元にイエス様は食事を共にし、家に泊まることにしたのです。その結果、ザアカイは悔い改め、救いを受け取ることができたのです。

◆イエスキリストは、救いをもたらす為に来ました。それは、神様の前に罪ある者とされた私たちが、神様との関係を回復する為に、イエスキリストは来られたのです。教会の目的、それはイエスキリストがなぜ来られたのかを伝えることです。このことから教会は始まるのです。それを忘れてしまうと教会の働きとは言えないでしょう。「伝道しましょう!」と意気込むことは時に必要です。しかし、普段の生活の中でその意気込みのまま過ごすのは難しいと思います。だからこそ、日々の御言葉をしっかりと私たちのうちにとどめ、その御言葉からくる行動や発言を通して伝えていくことが必要なのではないでしょうか。御言葉にしっかり立って生きる時、私たちの「生き方」を通して、伝えることができると思うのです。

「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4:5a)

坂西恵悟

◆人には寿命があるが、教会にも寿命があるのかもしれない。先日ある教会に行った。かつては幼稚園もあり、にぎやかな教会だったようだが、今ではお年寄りばかりだという。これは少子高齢化以上に難しい状況だ。次を担う若い人がその教会に来てつながるとは考えにくく、何かしら大変革が起きない限りは、教会の寿命も尽きてしまうかもしれない。日本の多くの教会で、このようなことが起こっているのではないか。

◆人は本来保守的な生きものだろう。現状に満足して落ち着いてしまうと、それを神さまに与えられたものとして、何とか守っていこうとするのは理解できる。しかし行き過ぎると、知らぬ間に人の思いに固着して、何か新しいことをやろうにも強烈な抵抗力が働くようになる。まさに人の満足が神さまの自由な働きを妨げるのだ。こうなると、教会は硬直化し、収縮スパイラルに陥って寿命がつきることにもなりかねない。

◆果たしてJOYはどうだろうか? 少し前までは、幼いこどもたちがいないとか、中堅の30代がいないなどと、ちょっと不安に思うこともあったが、気が付けば、それらを埋めるような方々が、わさわさと集結している。また、大胆にも隣の土地も買ってしまったし、かなり若い牧師先生にも来ていただいたし、まさに神さまの自由な働きにより、春になってどんどん新しい芽が出てきて、これから大きく育っていくかのようだ。

◆教会では、私たち自身が神さまから様々な祝福をいただきたいと当然思う。しかしそれ以上に、私たちがまだ知らない次に来る方々に対して、神さまの恵みと喜びが与えられるようにすることが、教会に求められていることだろう。それによって教会もどんどん育っていくのだ。私たちが自己満足にとらわれることなく、いつまでも、神さまが自由に働かれることを喜びとする教会であるよう祈っていきたい。  

宮崎英剛

◆ペテロは、自分自身の弱さを持って、主の御前にありのままの姿で進み出ました。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味します。イエスさまがペテロを高く評価されたのは、自分の弱さを告白するその正直さのゆえでした。

◆「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意思が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけの者です」

◆多くの人は、自分の弱点を自分でみることができません。しかし、ペテロは自分の弱さをよく知っていました。その分回復も早かったのです。ペテロは自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出しました。そうして主はペテロの弱さを一つずつ癒し、取り扱われたのです。

◆ペテロは失敗ばかりして砕かれ、傷ついた経験をしたために、弱い人々を非難せず、愛をもって励ますことができたのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(I.ペテロの手紙 4章8節)

◆ペテロは、あまり祈れない人を見ても、きっとこのように励ましたのでしょうか。「私はイエス様の後をついて行きながらも、祈りながら寝込んでしまった。それなのに、イエス様のお顔を見たこともないあなたが祈ろうとしているのだから、それだけでも素晴らしいことです」と。  

石田政美

◆私たちが他の人たちのことをああだ、こうだと評価してしまう理由は何でしょうか。人は誰であれ「工事中」、つまりかえられる過程であることを知らないからではないでしょうか。ペテロは、自分が変えられることに時間がかかったことを知っていました。そのため、他の人たちのことを余裕を持って待てるようになったのです。彼は「主が完全にしてくださる」と言いました。今、完全なのではありません。工事中です。やがて完全にされ、堅くされ、強くされるということです。ペテロは神様の約束を信じてゆだね、人格が変えられることを信じたのです。「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
(I.ペテロの手紙5章10節)

◆この世に完全な人がいるでしょうか。ペテロも神が長い時間をかけて整え、用いられた人でした。私たちは自分の弱さに失望しないように心がけましょう。ペテロのように変えられるためには、弱さを持ったまま主の前に進み出て、主の励ましを受けて癒していただき、聖霊に満たされ、主に従い、主の力と御業が表れる人生を生きましょう。まず、自分にできる小さなことに従っていく信仰の人となることを祈ります。

石田政美

◆神様が、こんな者を選び、信仰者として、特に牧師として大切な宣教の尊い働きを委託されたことを通して「未熟で不安定な者を用いられる神」なのだということを教えられてきた。

◆イエス様の12弟子たちは、どのような人たちであったのでしょうか。まず、弟子たちは超人ではなく、凡人でした。彼らはガリラヤ湖畔で、ごく平凡に暮らしていたのです。年齢的にもまだ若く未熟でした。弟子たちの中で最も長生きしたヨハネは、たぶん高校2年生程度、つまり10代後半に弟子となったと思われます。他の者たちも20代、もしくは30代初めごろだったようです。イエス様が選ばれた弟子たちは、若さだけが取り柄のまだ世間知らずの若者たちでした。

◆イエス様は成熟した人ではなく、未熟な人を弟子として選ばれました。そして彼らを通して驚くべき御業を行いたいと願われたのです。神様は平凡な彼らが持っているわずかなものを用いて、御業をなそうと考えられたのです。その彼らが持っていたわずかなものとは、何だったのでしょうか。

弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は、言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

(ルカ17:5〜6)

◆「からし種一粒の信仰」つまり非常に小さな信仰であっても、神様の働きをするには充分なのです。主は未熟な人を用いられます。その小さな信仰を用いて、偉大なことを成し遂げられるのです。

石田政美

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