◆サムエル記上12章は、サムエルの告別説教とも呼ばれています。サムエル自身の生涯をすべての民の前で総括し、神様がイスラエルになさった御業を振り返り、民の誤った行動を明確に表し、彼ら真の神様に立ち返るよう語ったのです。

◆これまでの預言者たちも、イスラエルの歴史を振り返り、繰り返し語ったきました。主が、ご自分の民にどのように働かれたのかを思い起こさせるためです。神様がモーセを立て、イスラエルの先祖をエジプトの地から導き出された方であるということです。それにもかかわらず、民は主なる神様を忘れ、偶像を礼拝しました。それにより、シセラ、ペリシテ、モアブなどに、苦しめられたのです。士師の時代を終わりに迎え、アンモン人のナハシュがイスラエルに向かって攻めた時、彼らはこれまで、様々な脅威から救ってくださった主なる神様ではなく、人間の王を求めました。サムエルは、イスラエルの民が主ではなく、人間の王を求めたことを罪であると指摘し、主はそれでも、民の上に王を置くことを許されたことを説明します。そして、民に対して、主の律法を忠実に守るように勧めたのです。

◆詩篇103:2に、このような御言葉があります。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2/新改訳)

◆私たちの生活を振り返った時、どれほど主なる神様が私たちに良いことをしてくださっていたでしょうか。一方で、良いことをしてくださった神様に、私たちはどれほど応答することができたでしょうか。聖書は一貫して、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛するようにと語っています。これは、イスラエルの民だけでなく、私たちに対してもです。主の御業を思い返す時、悔い改めも生まれてくることでしょう。私たちは、私たちを愛してくださる主に忠実に、誠実に従うものでありたいのです。

坂西恵悟

◆アンモン人ナハシュは上ってきて、ギレアドのヤベシュを包囲しました。ヤベシュは、ヨルダン川中腹あたりの東にある町です。アンモン人が住んでいる地域のすぐそばにある町でもあります。そのヤベシュにアンモン人は陣を敷きました。ヤベシュは、勝つ見込みがなかったために、和平を申し入れましたが、アンモン人たちは右の目をえぐり取ることを条件に和平を受けようとしたのです。ヤベシュの長老たちはイスラエルの全土に置かれている状況を伝えました。

◆この状況を聞いたサウルに神の霊が激しく降り、彼は怒りに燃えました。サウルはサムエルとの連名でイスラエル中の人々に戦いに出るよう伝え、アンモン人との戦いに出陣しました。サウルにはまだ戦争の経験がありませんでした。その状況で彼が勝利することができたのは、神の霊が激しく降り、知恵と力が与えられたからです。私たちも怖気づくような出来事を目の前にしたとしても、聖霊の助けによって、そのことを乗り越え、勝利がもたらされるのです。

◆イスラエルはアンモン人を打ち破ると、サウルを認めていなかった人々を処罰するように訴えました。しかし、サウルは戦いの勝利は神様からのものであることを告白し、民の提案を退けたのです。サムエルはギルガルで王国を興すことを勧め、彼らはそれに従いサウルを王とし、主に和解のささげものをささげ、喜び祝ったのです。

◆この後、このサウルでさえ、大きな失敗を犯してしまいます。主が勝利をもたらしたと語り、主に栄光を帰していてもです。私たちも同様の状態になってしまいます。ですから、私たちは初めの愛から離れないようにし、悔い改めて主の前に帰ることが大切なのです。(黙示録2:4,5)

坂西恵悟

◆人生で決断を迫られる時が誰にでもあると思います。小さな決断から運命を決める大きな決断まで、ある意味では人生は決断の連続であるというふうにも言えると思います。

◆私の人生で最大の決断は、もちろん牧師になるということでした。この神の召しに、決断できず必死に祈りました。何か神から示されないか、聖書のあちこちを読みました。又、信頼する人に打ち明けました。できれば牧師ではなく、他の道で神様に仕えることを願いました。

◆決断する材料のひとつになる文章に出合いました。「すべての仕事は目についたところから、ちょぼちょぼやればいいのだ。そして未完で終わればいいのだ。神のごとき公平な決断とか、すべての仕事を完璧にやりおえて死ぬことなど、私たち人間にはできることではない。神によって流される生涯を生きればよいのだ」。

◆「神によって流される」ということは一見受身的ですが、「もし、神がお望みなのでしたら、仰せの通りになりますように」という積極的な決断、献身を迫る言葉でした。モーセは80才という高齢で神に召され、イスラエル民族の「主エジプト」という一大事業を遂行しました。それこそ、神によって流された人生、神に振り回された生涯でした。

◆私が献身の決断をしてから「神によって流される」40年間、常に神に知られ、神に配慮される歩みでありました。

石田政美

◆サムエルによる油注ぎを受けたサウルは帰途につきました。サムエルの言っていた通りの出来事を受け、サウルは心を新たにされていきました。しかし、サウルはおじに対して、自分自身に起きた出来事すべてを話したわけではありませんでした。王位については語らずに黙っていたのです。

◆サムエルは、ミツパに民を呼び集めました。王を選ぶにあたり、出エジプトから士師の時代に至るまでの神様の確かな守りと導き、恵みを思い返しました。それと同時に、民がこのような恵みをくださった神様を退け、王を求めていることを明確にしたのです。

◆くじによる選出は、旧約聖書でも新約聖書でも行われています。ここでのくじは、ヨシュア記で行われているものと同様に大きい単位から小さい単位に絞る方法が取られます。この方法によって、サウルは選び出されました。ここで大切なことは、くじによる選定ではなく、くじの前に「主のもとに」集まったことが大切だと考えます。新約の使徒たちの選出の時のように祈りがなされていたことは明らかになっていませんが、サムエルはくじに先立ち祈っていたのではないかと考えられます。つまり、方法ではなく、祈りをもって主の御心を求めて行っていくことが大切になるのです。

◆サウルは、くじによって選ばれました。彼の行動は、謙遜のように見えますが、謙遜ではなく、自信のなさの現れでした。民はそのサウルを「王様万歳」と喜び叫んで受け入れたのです。サムエルは民に王の権能について語りました。神に心を動かされた勇士たち、すなわち信仰者たちは主がサウルを選ばれたということを確信し、サウルについて行きました。一方で、ならず者たちは、サウルを侮り、ついていくことはしませんでした。彼らは、主の御心ではなく、自分自身の判断で行動していたのです。私たちは、主に心動かされる者となり、主の御心を求めていく者でありたいのです。

坂西恵悟

◆いよいよ、待望の王様が誕生します。サムエルは、サウルの頭に油を注ぎ、主がサウルを指導者として選ばれたことを伝えました。この油注ぎは、サムエルとサウルの間だけで行われました。つまり主なる神様がサムエルを介してサウルを王として任命されたのです。

◆油を注ぐ儀式は、物や人を聖別するために行われたものです。王だけでなく、祭司や預言者を任命する時にも行われました。サムエルはこの油注ぎは主からのものであることをはっきりと明言しました。
主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」(10:1)

◆サムエルは、サウルに油注ぎの後、これからサウルに起こることを告げました。①二人の男に会うこと。②礼拝に行く3人の男と会い、2個のパンを受け取ること。③預言者の一団に出会い、主の霊がサウルに激しく降り、預言をする(新しい人/新改訳)状態になること。この3つがサムエルが伝えたものでした。サムエルはさらに、サウルに対してそのしるしを受けたら「しようと思うことは何でもしなさい」と言いました。新改訳2017では「自分の力でできることをしなさい」となっており、口語訳、新改訳3版では「手当たりしだいに何でもしなさい」と訳されています。

◆主の霊が降り、新しい人とされたサウルでしたが、彼の行動は主の願われたものへとはなっていきませんでした。サムエルからギルガルで待つようにと命じられながらも、それを守らずサムエルに代わり全焼のいけにえをささげました。結果、主の霊はサウルから離れ、悪霊がサウルをさいなむようになったのです。(16:14)

◆「しようと思うことは何でもしなさい」とは、自分自身からの出てきたものではなく、神から出てきたものを行っていくということです。ですから、主の言葉を第一にしていくことが大切なのです。

坂西恵悟

◆木曜日は、洗足の日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りの日でした。金曜日は受難日でした。この1週間、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。

◆マルコ14:3-9はこの時期に読まれる箇所の一つです。イエス様がベタニアのシモンの家にて高価なナルド香油を注がれる箇所です。

◆彼女の行動には2つの意味があります。一つは、イエスに香油を注ぐことは、イエスが救い主、メシアであることを告白していることです。メシアは「油注ぐ」という意味から来た言葉です。ですから、彼女の行動はイエスが救い主であるという信仰による行動なのです。

◆もう一つはイエスご自身の口から仰っています。「埋葬の準備」をしたということです。ヨハネ福音書を見ると、この女性はマリヤであるとされています。この女性がマリヤならば、イエス様の話をよく聞いていたと思いますし、意味を知った上での行動でもあったと思います。

◆この時、イエス様が救い主であり、十字架の死によって罪を贖ってくださる方だと信じていたのは、この女性だけだったかもしれません。弟子たちはイエスが逮捕された時、逃げました。そして、ヨハネによると、彼女の行動を否定したのはユダですが、おそらく他の弟子たちも彼女の行動を理解できていなかったことでしょう。

◆イエスキリストが"わたし"のために十字架にかかってくださったことをこの週、特に覚えたいのです。愛を持って、罪から救ってくださった。そのために、ご自身を犠牲にされ死んでくださった。この主の愛は、ここにいた人々だけでなく、今を生きる私たちにも同じように注がれているのです。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

坂西恵悟

◆サウルは、同行した若者の提案を受け、先見者(すなわちサムエル)に会いに出かけていきます。サウルは、サムエルをサムエルはサウルを知ることはありませんでした。しかし、サウルがサムエルに会う前日に、主なる神様はサムエルに対して語られていました。サムエルに語られた主からの言葉は驚くほど具体的な内容でした。イスラエルの指導者になる人物は、ベニヤミンの地から出るということ。その人物が明日サムエルの場所へと遣わすことが語られていったのです。

◆神様は、イスラエルの民の叫びを聞いておられます。その声に応答してくださり、イスラエルをペリシテの手から救い出してくださるのです。そのためにサウルを神様は召し出してくださいました。サウルは自分自身が最小の部族のベニヤミンのものであること、そのベニヤミン族の中でも最小の一族の人間であることを告白します。このことからも、神様は、最も弱いものを選ばれ、へりくだった者に恵みを与えられる恵みと慈しみに富んだ方であることが表されています。

◆ベニヤミンの地からやってくるのは「王」ではなく「指導者」です。「指導者」の原語は「告知を受けた者」という意味です。ですから、王様へのプロセスは民に選ばれることも必要ですが、その前に主なる神様が選ばれているということが大切になるのです。

◆神様は、最小の部族、最小の一族から王を選ばれました。人間の主権からではなく、主なる神様の主権がイスラエルにのぞんだのです。私たちは、主の前にいつも謙遜になり、仕えるものとして歩みたいのです。

坂西恵悟

◆いよいよ、イスラエルに最初の王様が誕生します。サウルです。サウルはどのような人物でしょうか。彼は、ベニヤミン族のキシュという人の息子でした。彼は、美しい若者であったとされ、彼よりも美しい者はいなかったと聖書は言います。彼は高身長でした。他の民よりも肩から上の分とありますので、頭ひとつ飛び抜けた高さだったことでしょう。容姿端麗な人物だったわけです。

◆私たちはリーダーに対して、完璧さを求めます。能力や外見も知らず知らずのうちに求めています。サウルはイスラエルの民の中でも目立つ存在だったことでしょう。そのサウルが選ばれるということはイスラエルの民が願っていたことかもしれません。主はイスラエルの民が望んでいるような人物を用意されました。

◆サウルは、父キシュのろばが数頭いなくなったので、若い者と共に捜しに行きました。エフライムの山地からベニヤミンの地へと歩きましたが見つからず、ツフの地で引き返すことを決心したのです。同行した若者は、サウルに対して「神の人」が近くにいることを伝え、会いにいくようにと提案しました。「神の人」とはサムエルのことで、サムエルはイスラエルに神の預言者として認められていました。サムエルのもとに行けば、自分たちがいくべき道が示されるかもしれないと思ったのです。

◆まさに彼らは、神様の言葉を頼りにしていったのです。そこには確かな主の導きとご計画が用意されていました。私たちも、方向性がわからなくなった時、主に尋ね求めていきましょう。神様に向かい、信頼していきましょう。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3:5-6

坂西恵悟

◆サムエルは、年老いました。彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回してイスラエルを裁いていました。彼が年老いた時、彼の息子たちをイスラエルの裁きを行う者として任命し、ベエル・シェバに遣わしました。ベエル・シェバは、イスラエルの南部地方に位置しています。サムエルが年老いたことにより、サムエルは北部地域を、息子たちに南部地域を任せていきました。しかし、息子たちはサムエルと同様の道を歩まず、自分たちの利益を追求し、賄賂を受け取り、裁きを曲げていました。

◆イスラエルの民は、このような状況を受けて、王を立てて欲しいと求めました。サムエルが高齢となり、その息子たちの歩みが主の道を歩んでいなかったからです。サムエルにとって、彼らの言動は悪と映りました。別の聖書の訳では「気に入らなかった」(8:6/新改訳)となっています。イスラエルを裁く者として用いられているサムエルの働きを否定するようなことだったからでしょう。サムエルは、主に祈りました。主は、民の言うことを聞き入れるように言われました。

◆イスラエルの民が求めていたのは、目に見える安心でした。彼らはサムエルを拒んだのではなく、主なる神様が治められることを拒んだのです。またもや、同じ過ちを繰り返します。神の箱に力があると勘違いをし、悔い改めたにもかかわらず、彼らは目に見えない主なる神ではなく、目に見える人間の王様を求めていったのです。出エジプトの時も同様でした。目に見える神を求め偶像を作りました。約束の地に着いた後もそうです。主なる神を捨て、他の神々に仕えていました。

◆改めて、私たちは自分自身に問いたいのです。あなたは、神に信頼して歩んでいますか。私たちは、このイスラエルの失敗から学んでいきたいのです。

坂西恵悟

◆神の箱はベト・シェメシュからキルヤト・エアリムへと移されていきました。キルヤト・エアリムはエルサレムから15kmほど離れた場所にある町です。キルヤト・エアリムの人々は、丘の上のアビナダブの家へと神の箱を運び、エルアザルに箱を守らせました。それから、20年の月日が経ちました。その間、イスラエルはペリシテ人によって苦しめられてきました。イスラエルの中には、ペリシテ人の神々や異国の神々を礼拝する者たちも起こされていったのです。しかし、そのような中にあって、イスラエルは主への飢え渇きがありました。(2節)

◆サムエルは、そのイスラエルに対して語りました。バアルとアシュトレトの神々を取り除き、ただ主にのみ仕えるようにと命じたのです。ここから、サムエルの預言者としての働きがスタートしていきます。また、サムエルはそれだけではなく、人々をミツパに集め、水を汲み、断食をし主に悔い改めたのです。

◆一方ペリシテ人は、イスラエル人たちがミツパに集まったのを聞き、その集まりが戦争の準備だと思い、イスラエルに向かってきました。このことを聞いたイスラエルは、とりなしの祈りを献げるようにとサムエルに求めたのです。サムエルは彼らの願いに答え、主に祈りました。それは叫びでした。結果、主は答えられてペリシテを打たれました。

◆この一連の物語は、私たちの信仰生活にも密接につながっているのではないでしょうか。主以外のものを第一とし、仕えるのではなく、ただ主にのみ仕え、主の前にへり下り、悔い改めるところに、主は働いてくださるのです。
「慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。主に喜ばれる道を歩む人を主は敵と和解させてくださる。」(箴言16:6,7)

◆主を畏れ、主に喜ばれる歩みをする者には、主の平和が与えられます。様々な問題にぶつかるとき、私たちと主との関係はどのような関係になっているでしょうか。まず、主との関係を大切にしていきたいのです。

坂西恵悟

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