◆ルツ記2章では、絵画でも有名な落ち穂拾いから始まります。「ナオミと呼ばず、マラ(苦い)と呼んでください」(1:20)と愛する夫、息子たちを失い、悲しみの中、故郷へと帰ってきたナオミ。そのナオミに従って異邦の地へと訪れたルツ。この二人に、主は道を備えてくださっていたのです。

◆ボアズはエリメレクの親戚であり、有力者でもありました。ルツが、たまたま行った畑は、このボアズの所有する畑でした。

◆ルツがナオミに「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言いました。(2:2)この言葉には、彼女らの置かれた現状が表されています。当時、落ち穂拾いは貧しい者や寄留者たちのためのものでした。(レビ記19:9,10) このことからも、彼女らは貧しく、ルツも異邦人だったので、この律法通りに行動をしたのです。主なる神様からの律法には、誰一人こぼれることなく、恵みを与えてくださるものであることがわかります。この背後には、主なる神様への信仰がありました。収穫は、神様が与えてくださった恵みだから、独占するのではなく、必要とする人々へも分かち合うことが必要なのだということです。ルツは、この律法をもとに誰かの畑で落ち穂拾いをさせてもらおうと行動したのです。

◆私たちは、神様のご計画を100%知ることはできないでしょう。私たちの目から見たときに「これもご計画なの?」と思ってしまう出来事も、あります。ルツは、家族を失い、異邦人の地へと引越し、そこで弱者の立場で生活をしていました。人間的に見ると、最悪と思える状況かもしれません。それでも、主は、彼女を見捨てられませんでした。彼女に将来と希望を与えてくださっていたのです。

坂西恵悟

◆愛する夫と息子たちを失ったナオミは、故国ユダに帰る決断をしました。主が民を顧み、食べ物を与えてくだっさったことを聞いたからです。そのナオミの決断に、二人の息子の嫁たちもついていく決断をしました。ナオミは、彼女たちに「自分の里に帰りなさい」と強く勧めたのです。それでも、一緒について行くと泣いて訴える二人。その思いは、ナオミにとって大きな励ましと慰めだったことでしょう。それでも、ナオミは彼女たちの将来を考え、彼女たちを自分の里に帰るように強く語ったのです。(1:11-13)ナオミは、自分の置かれた状況に関して「主の御手がわたしに下された」と語り、信仰をもってこのことを受け入れました。

◆オルパは、別れを告げ、ナオミの下を離れました。しかし、ルツは別れず、ナオミに続いて行ったのです。この二人の大きな違いは何でしょうか。「自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている」オルパに対して、ルツは「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と告白し、不誠実な理由でナオミの下を離れるならば、「幾重にも罰してください」と誓ったのです。ルツは、ナオミの信じる主なる神様を信じたのです。そして、その主からの祝福を求めたのです。

◆このルツの決断は、大きな決断です。自分の民、自分の神を捨て、ナオミの神を自分の神とする。その決断の先には、主からの豊かな祝福を預かることとなるのです。(マタイ1:5)

◆この背後には、民を顧みられる主なる神様がおられます。その主を信じるナオミ、ルツには主の深い配慮と導きが表されていきます。神様は、依り頼む民の信仰を顧みられるお方なのです。ですから、私たちも彼女らのように信仰を公に告白し、主に依り頼む者でありたいのです。

坂西恵悟

◆ルツ記は、「士師が世を収めていたころ」(ルツ1:1)とあるように、士師記の時代の物語です。これまで見てきたように、士師記の時代は不信仰と無秩序な時代でした。その士師記と同じ時代とは思えないほどに、登場する人物たちは善意や配慮がありました。ナオミ、ルツ、ボアズの三人の姿はとても純粋で、相手を思いやり、不信仰、無秩序の時代の中にあっても信仰を持ち続けていたのです。たった4章の短い書ですが、士師記とのはっきりとしたコントラストを見ることができます。一つの家庭にある確かな主の祝福を見ることができるのです。彼らの誠実さ、忠実さは現代を生きる私たちも見習う模範となります。

◆飢饉が国を襲い、1つの家族はベツレヘムを出てモアブへと移り住みました。エリメレク、妻のナオミ、その息子マフロン、キルヨンです。ルツ記全体を通してみるナオミの姿から、エリメレクの一家は主に誠実であったことでしょう。そんな家族に悲劇が襲います。エリメレクの死、その後10年過ごしたモアブの地でマフロン、キルヨンの二人の息子も死んでしまったのです。ナオミは住み慣れたモアブを去って故郷に戻る決断をしました。けれども、彼女は決して一人ではなかったのです。オルパ、ルツの存在はナオミにとって大きな慰めだったことでしょう。またナオミが故郷に戻る決断を押し出したのは「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」という主の取り計らいでした。

◆私たちが悲しみのどん底にいる時、何もないように思えてしまいます。けれども神様は「その民を顧み」てくださったように、ナオミたちを顧み、私たちをも顧みてくださっているのです。主はいつまでもご自分の愛する者たちを悪い状況に置くのではなく、その先の希望を祝福を示してくださるのです。このことをルツ記を通して御言葉に聞いていきましょう。

坂西恵悟

◆神の前に罪を犯し、その地の民族に征服され、悔い改めた民に指導者としての士師をお遣わしになる。その士師によって平穏が与えられる。士師記は、この流れを何度も繰り返しました。これは、モーセ、ヨシュアを通して語られた神の律法を守らなかったゆえに起きた出来事です。士師たちが、いなくなった後のイスラエルは、堕落していました。神を忘れたイスラエルの姿は、非常に醜いものでした。イスラエルが自滅するほどに堕落したのは、彼らを愛してくださった神から離れた結果です。つまり、神から離れる時、私たちに待っているものは堕落になるのです。

◆士師記の終わりは「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」で終えられています。まさに、この時代を象徴する言葉です。イスラエルを統率し、主のみこころを示す指導者もいない。それぞれが、自分の目で見て、考えて正しいと思うことを行った結果、士師記に見られる偶像礼拝、道徳的堕落、混乱が起こされて行ったのです。このような混乱の中で、12人の士師たちがイスラエルを救い、統治しました。それでも、イスラエルは堕落を繰り返していったのです。

◆私たちが生きているこの時代も、形は違えど、混乱や無秩序、堕落が起こっています。イスラエルに士師たちが現れ、神様の言葉を伝えたように、今の私たちには聖書によって神様の言葉を受け取ることができます。真っ暗な状況の中、一人の王様を立てられたイスラエルのように。光となって来られたイエス様が、私たちを治めてくださっているのです。御言葉と祈りによって、今の時代を私たちは主と共に生きていきたいのです。

坂西恵悟

◆サムソンの物語は、いよいよクライマックスを迎えます。デリラを愛し、彼女のもとに入ったのです。サムソンを捕らえるためにガザの人々は待ち伏せをしますが、サムソンは町の門の扉と両脇の門中を引き抜き、それを抱えヘブロンに面する山頂へと登っていったのです。この行動は、当時の戦いに勝利した軍が敵の門の扉を運び去るという習慣にならったのです。ちなみに、ガザからヘブロンまでは約60km、標高差は約900mです。

◆デリラは、サムソンの弱点を探りました。ペリシテの領主たちから銀をもらう約束をし、サムソンに力の秘密を聞いたのです。けれども、サムソンは正直には話しませんでした。どうしても秘密を知りたいデリラは、サムソンに懇願しました。サムソンは、デリラの懇願に耐えきれず、力の秘密を明かしてしまったのです。デリラは、サムソンの言う通りに行いました。サムソンの髪の毛を剃り落とし、ペリシテ人に渡したのです。サムソンは、両目をえぐられ、青銅の足かせをつけられ牢に入れられました。婦人の労働である臼を引く仕事をさせられたのです。屈辱だったことでしょう。

◆サムソンが、なぜそのようになったのか。それは、サムソンから力が取り去られたことによります。神に反抗し、罪の道を歩み続けるなら、そこに神の力が取り去れることがあることを、私たちは知らなくてはなりません。けれども、主なる神はそのような罪人に対し、回復の道をも備えてくださいました。サムソンの髪は伸び、ペリシテ人を打ったのです。

◆私たちも罪の中に陥ることがあります。その罪を悔い改めるなら、主は私たちを神のかたちとして回復させてくださるのです。ですから、私たちの歩みが主のご計画のうちにあることを信じ、悔い改めて、主の道を歩ませていただきましょう。

坂西恵悟

今週の一面『思い込み』 9/27  

Shin1

◆3月にスポーツ自転車を購入しました。バランスを取るのが難しいです。特に立ち漕ぎをする時、左に寄っていってしまいます。「利き腕の右が勝っちゃうんだな・・」と思ってました。

◆先日「左右の筋肉の量を測ってくれる」サービスがあるとのこと。測ってもらうと、なんと左の方が強い!「本当?」と思いましたが、思い当たる節があります。高校時代野球をしていましたが、後半、右肩が痛くて、野球をしている時以外は右肩に力を入れないようにしていたんです。それ以降、実に30年間それを続けてきた結果、左右のバランスが逆転していたのです。自転車で左に寄っていってしまうのは、単純に左の方が強くなっていたからでした。

◆なるほどそうだと分かったら、右を鍛え直せばいいとも思いましたが、あまり力が入らない。専門的には、おそらく遊離軟骨がうんぬんって話で。神様は私に「宏、そういうことだよ。今までの思い込みを捨てなさい。洗礼受けただろ(もう17年も前だけど)。それ以前とは違う生き方をしなさい。」と言われている気がしました。

◆2020年、コロナウイルスが流行して外出自粛やイベントの延期・中止、残念なことが多い反面、神様はこのことを通じて、私たちが思い込みを超えて、様々な体験や気づきを与え、眠っている計画・才能が目覚めるように促してくれる方なんだと思います。時差出勤、在宅勤務、離れた場所からでも・移動時間がなくても参加できる礼拝や祈り会、今までメリットがあると思いつつ、推進されて来なかったことが動き出しました。取税人のマタイが救われた後、イエス様を同族に紹介する祝宴を開いたように、私自身も教会もそれまでは躊躇していた新たな道を祈り、確信し、実行、前進していきたいです。

高橋 宏

◆サムソンの人生を見ると、主の霊が彼の上に下り、普通の人ではありえないほどの怪力を発揮させました。まさに英雄のような姿です。しかし、サムソンの人格は必ずしも成熟していたわけではありませんでした。彼は、性格的に欠点が多いようにも見えます。

◆「聖別された者」という意味のナジル人とされたサムソンは成長し、ティムナに住むペリシテ人の女性と結婚をしました。20歳ごろと思われる青年が、一人の女性に好意を持つことは自然なことでしょう。しかし、彼が好意を持ったのはペリシテ人でした。異邦人との結婚は一般のイスラエル人にはとっても許されないものでした。ましてやサムソンは、ナジル人として生まれたわけですから、彼の両親が反対するのも当然です。けれども、彼はその声に耳を傾けることがありませんでした。

◆サムソンの結婚は、彼の感情だけで決まったものではありませんでした。「父母にはこれが主のご計画であり」(13:4)とあるように、その背後には、主なる神がおられるのです。神様は、サムソンの身体的な能力だけでなく、彼の性格をもお用いになられたのです。神様がお用いになる基準は、私たちでは判断できません。私たちの基準で決められていないからです。何ができる、できないではなく、主が決められた人が用いられていくのです。旧約の時代の人々は後の世代の人々のモデルとして選ばれていました。今を生きる私たちは、イエスキリストを通して命じられている宣教の働きが担わされています。

◆一人一人が主によって選ばれた場所で、主が私たちをお用いになろうとご計画されているのです。

坂西恵悟

◆士師記の最後に登場するのは、士師記の中でも有名なサムソンです。これまでの士師たちは、民を率いて多民族との戦いに出ていました。しかし、サムソンは一騎当千の活躍をするのです。サムソンが士師として立てられるようになった理由は、イスラエルがまたも主の目に悪とされることを行い、主が40年間ペリシテ人の手に渡され、圧迫された日々を送っていたからです。(13:1)

◆サムソンを出産した母親は、マノアという人の妻でした。彼女は、不妊の女性でした。彼女のもとに主の御使いが現れ、男の子を産むと告げたのです。(13:3)この御使いの言葉は、彼らだけでなく、イスラエルに対しての希望の言葉となりました。不妊の女性に子どもが与えられるだけでなく、生まれてくる子どもが、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者になるという約束も備えられていたからです。(13:4)サムソンの両親は、御使いの言葉に従いました。マノアは、妻に語られたことを聞き従うために、再度御使いの言葉を求めたのです。主によって与えられた子どもは、不妊の中に与えられた喜びだけでなく、民の喜びとして、感謝して受け止めていったのです。

◆私たちも大切なことは、しっかり聞きます。メモをして残すこともあります。それは自分自身にとって非常に大切なものだからです。だからこそ、私たちは主の御言葉をこの夫婦のようにしっかりと聞く者でありたいのです。彼らは、ただ聞くだけでなく、語られることを求めました。希望に耳を傾け、為すべきことを行ったのです。私たちには聖書を通して希望が語られています。私たちもその希望に耳を傾け、それぞれの為すべきことを行っていきましょう。

坂西恵悟

◆エフタのアンモン人との戦いは、エフタの勝利で終えました。しかし、主との誓いの中で、アンモン人との戦いに勝利した際、自分を迎える者を献げると誓ったのです。その結果、彼は一人娘を主に献げました。(11:29-40)

◆アンモン人との戦いに勝利したエフタ。そのことを喜ばない人たちがいました。エフライム人です。エフライム人は、マナセ族と共にヨセフ族から枝分かれした部族です。エフライム人は、アンモン人との戦いの時、自分たちに共に戦うよう呼びかけなかったことに対して抗議をしたのです。彼らの不満は、どこから来るものなのでしょうか。戦いの勝利による戦利品の分け前にあずかれなかったことだったのかもしれません。カナン北部の諸部族の盟主であることを自負するエフライム人の自尊心が傷つけられたから、かもしれません。いずれにせよ、エフライムはエフタに対して抗議し、脅迫をしたのです。

◆彼らの抗議や脅迫は、エフタに効果はありませんでした。エフタはアンモン人との戦いにおいて、エフライムが呼びかけに応じなかったことを説明し反論したのです。そして、エフライム人との戦いに出たのです。同族同士の戦い、結果としてエフタは勝利しました。エフライムを逃げ出した者は、ヨルダン川を渡ろうとしましたが、言語のなまりを利用し、逃げ出したエフライム人を打ったのです。

◆この同族同士の戦いのきっかけは、エフライム人の高慢さでした。箴言16:18「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあるとおり、その高慢さ故に彼らは破滅へと進んでいったのです。この高慢さは私たちも持ってしまうものです。もし誰かとの間で争いが生じてしまっているならば、そこには人間の高慢さがあるかもしれません。ですから、私たちはいつも主によってへり下り、平和をつくりあげる者でありたいのです。

坂西恵悟

◆エフタは、6年間イスラエルをおさめた士師です。彼は、ギレアド人で勇者でした。彼の父はギレアドで彼の母は遊女でした。(11:1)それゆえに、兄弟と同等の権利が与えられず、追い出されてしまいました。エフタは逃げた先で、ならず者たちが集まり、彼らのリーダーとして立ったのです。

◆イスラエルとアンモン人は対立し、戦争になりました。ギレアドの長老たちは、エフタに指揮官になってもらうことを求めたのです。

◆アンモン人は、イスラエルの民がエジプトから出た時、自分たちの国土を奪ったと主張し、その返還を求めました。指揮官となったエフタは、アンモン人の土地をイスラエルは奪っていないということです。もともとギレアドの地はアモリ人の土地でした。アモリ人の王シホンを打ったイスラエルはアモリ人の地を占領しました。エフタの主張は、「あなたは、あなたの神ケモシュが得させてくれた所を得、わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得たのではなかったか。」(11:24)ということです。つまり、それぞれの土地はそれぞれの神によって与えられたものだと主張しました。

◆私たちには、主から与えられた生きる場所、範囲があります。物理的な住まいというだけでなく、環境や立場もそうです。神様によって与えられた場所で生きているのです。エフタが「わたしたちは、わたしたちの神、主が与えてくださった所をすべて得た」と主張するように、私たちが"今"置かれている所は主が与えてくださった所であるということを信仰を持って表していきたいのです。多くの戦いがあります。けれども『主の山に備えあり』とあるように、主が与え、備えてくださることに私たちは感謝し期待していきましょう。

坂西恵悟

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