◆祭司エリのもとで、主に仕えていたサムエル。そのサムエルに主からの呼びかけがありました。当時のイスラエルは霊的にひどい状況でした。エリの息子たちの行動からも、そのことはわかります。「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」(3:1)ともあるように、主が語られることがない状況がイスラエルにあったのです。その時代に、サムエルは主に仕えていたのです。

◆3節では「神のともし火は消えておらず」とあります。主の宮にあった燭台の火が燃え続けていたこと、イスラエルの霊的な状態にも、神のともし火が消えていないそのことを表しているのではないでしょうか。その神の宮でサムエルが寝ている。サムエルが預言者として、霊的なともし火を燃え立たせる者であることを表しているのではないでしょうか。主は、サムエルに呼びかけられました。しかも、1度だけでなく、3度もです。サムエルがしっかりと応答するまで呼びかけてくださるのです。

◆現代の私たちの社会は、イスラエルの霊的状況と同様なのではないでしょうか。主の前に悪とされることが横行している今の社会。けれども主はイスラエルに士師を召し出し、サムエルに語りかけてくださったように、この社会を生きる信仰者たちに対しても、御言葉を通して語りかけてくださっているのではないでしょうか。

◆療養期間中、御言葉を体験する機会が多く与えられました。確かに生きておられる主が、語りかけてくださっている。そのことを体験することができました。神のともし火は決して消えることがありません。私たちは、そのともし火を灯し続けることが大切なのです。

坂西恵悟

今週の一面『 蒔かれた種 』1/31  

Shin1

◆礼拝で「主われを愛す」が歌われた朝、U姉が語られたお話が心に残っています。
「小3の担任の先生は、白髪のおじいちゃん先生でした。先生がクラス礼拝で歌う讃美歌は、きまって『主われを愛す』でした。いつも目をつぶって歌う先生が『わが罪のため』の箇所になると涙を浮かべるのを不思議に思っていました」。
「先生は戦争中の軍隊での体験をよく話してくれました。きっと戦争でつらい経験を幾度もしてきたのだと思います。この讃美歌を歌うと先生の歌声を思い出します。先生がどんな思いで賛美していたのか、今なら思い描けます。先生がクリスチャンだったか、それさえも、わからないけれど、幼かった頃からずっとこの歌詞をずっと覚えていたのも、蒔かれた種のひとつだと感謝しています」。

◆クリスチャンの家庭で育ったわけではないU姉は、その後ウン十年経って、こどものつながりで知り合った友人を通して、聖書を手にとるようになり、バプテスマを受けられました。蒔かれた信仰の種が、時を経て芽を出したこの出来事に、主のご計画の深さ、広さ、大きさを思います。

◆教会にさまざまな形で招かれたこどもたちの顔が目に浮かびます。今は教会に来ていないけれど、やがていつの日か、神様が選ばれた時に、蒔かれた種が芽を出すことを信じて祈り続けます。かく言う私も幼い頃、隣家のおばちゃんに連れられて教会に行ったことがきっかけでした。その後、長いこと教会に行ったことがなかったにもかかわらず、大人になって神様の愛を知る者に造りかえられたひとりですから。
「昔 主イエスの蒔きたまいし いとも小さき生命の種
 芽生え育ちて地のはてまで  その枝を張る樹とはなりぬ」
(新生讃美歌389番)

◆会堂にこども達の声が響き、足音が聞こえる恵みを感謝します。主が備えてくださる希望の種を、共に手を携えて蒔き続ける喜びを主に捧げつつ。

西原寿美子

今週の一面「見ること」の魔力 1/24  

Shin1

◆ある予防医学書に「目について」次のようなことが書かれていた。「人間の脳と連結している神経の中で、視神経が占める割合はかなり大きい。それほど目は脳の諸機能に多大な影響を及ぼしている。目の疲労は心身の病苦と結び付く。目を酷使すれば頭痛になり、すべてのことが煩わしくなる現象もそのためである」と。

◆キリストも目と体の相関関係に言及して「目は心のあかり」(マタイ6:22)であると言っておられる。

◆人は、愛する対象を見つめるようになる。また、見つめる対象を愛するようになる。目が向かうところに心も従う。つまり「見ること」の魔力である。この魔力には、どんな強い人も立ち向かうことはできない。人間の罪も「善悪を知る木の実」(創世記3:6)を見つめることから始まった。

◆ラジオに比べテレビの影響力が大きいのは、テレビを見るときには聴覚とともに視覚も動員するからである。多くのメディアが人々の視覚を奪おうと血眼になっている。現代の戦いは、霊的戦いであり「たましいの争奪戦」である。

◆詩編の記者は「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(詩編119:37)と懇願している。

◆人は誰でも愛する対象を見つめるようになり、その見つめるものに似るようになる。クリスチャンは、主を見つめることによって主に似るようになる。視線をいつも主に集中させ、最大のストレスである罪から自由になった人生を歩もうではないか。

石田政美

今週の一面「パウロの旅路」1/17  

Shin1

◆元旦の朝、年賀状と共に贈り物が届きました。小包を開けてみると「パウロの旅と七つの教会」と題されたスケッチ集が梱包されていて、「お世話になっている友人が、コロナ禍のステイホーム中に朝晩の祈りを持って、神様の力で出版することが出来た素敵なスケッチ集をどうぞ」という友からのメッセージも添えられていました。

◆新しい一年の最初の朝、主の贈り物に感謝を覚えページを開いていくと、3回に渡るパウロの伝道旅行で訪れた町々の風景や遺跡が水彩画で描かれていて、聖書の世界がソフトタッチな3次元になって、パウロの伝道熱が伝わるものでした。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、 裸か、危難か、剣か。」ローマ8章35節

◆2021年を迎えても尚、感染拡大を続けるコロナ禍にあって、2度目の緊急事態宣言も発令され、再び礼拝に集うことが難しい状況となりましたが、むしろその社会的制約が、何者にも奪われることのないキリストの愛を際立たせていることに気づきます。
「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8章39節

◆神様が与えてくださった安らかなひとりの時間に、必要のないものを手放す勇気と、夕べがあり、朝があった順路を思い返すことができました。新しく変わっていく世界に変わらぬ主の愛とともに光を持って歩めますよう祈り続けます。

守屋まゆ美

◆2019年に80歳になり、これからどのように生きていったら良いかと思案していた時、すてきな本に出会いました。タイトルは「わたしはよろこんで歳をとりたい」(2019年度キリスト教書店大賞受賞)。

◆よろこんで歳をとる、などといえるのは、よほど恵まれた人だろうと思っていましたが、この本に出合って、とっても納得し、2020年新年に、第四の人生はこのように歩みを進めていこうと心に決めてスタートしました。

◆ところが、コロナ問題で、様々な制限が強いられる中、我家の二台のクーラーが故障し、新たなクーラーが取り付けられる8月末までの猛暑の3週間、大変厳しい日々でした。

◆クーラーが付き、ホッとした矢先、9月4日に「化膿性脊髄炎」で緊急手術、80日間の入院生活ですっかり心が萎えてしまいました。

◆「わたしはよろこんで歳をとりたい」と心に決めて歩み出しましたが、様々な出来事に翻弄された一年でした。

◆しかし、そのような辛い状態の中にあっても、主に目を注ぎ、こんな私をもなお神は愛していてくださっているのだということを強く知らされる時でもありました。

◆入院中、ヨブ記を読みました。神はどん底にいたヨブに「わたしは荒野をその家として与え、荒地をそのすみかとして与えた」(ヨブ39:6)と言われました。

◆ここが神の家、ここが天の門であることに気づかされ、よろこびの声をあげることができた2020年でもありました。

石田政美

◆新年明けましておめでとうございます。新しい1年、お一人お一人の上に主の祝福と守りが豊かにあるようお祈りいたします。新しい年を迎え、1年の歩みをスタートしている私たちですが、主の導きに感謝し、主に期待する1年にしていきましょう。

◆私たちには、価値があります。それは、キリストが私たちの身代わりとなって死んでくださるほどの価値です。その価値を持って私たちは生きています。それを私たちは普段どれほど受け取っているでしょうか。わたし、あなたという存在は尊くかけがえのない存在です。しかし、私たちは時に、すること、しようとすることにおいてキリストが命をかけるほどの価値であることを表すことができていないことがあります。生き方、立ち振る舞い、言動の自己中心、自己実現、自己満足、キリストの名を汚し、キリストの福音宣教の働きを妨げることをしてしまった時、私たちは自分自身の価値を落としてしまっているのではないでしょうか。キリストが犠牲になってくださり、私たちにいのちを与えてくださり、価値を明確にしてくださっているにも関わらず、キリストのために生きるのではなく、自分のために生きる。益を生み出すより多くの害を生み出し、人をつまずかせ、与えられている賜物を錆びつかせているのではないでしょうか。

◆パウロはフィリピの信徒に対して、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(フィリピ1:27)と勧めました。つまり神の国の生活にふさわしい歩みです。キリストによって与えられた霊によって一つとなって歩んでいく。シンプルに言うならば、「信じて生きる」ということでしょう。

◆キリストを信じて生きること。それは、キリストと共に生きることです。キリストと共に生きることは、キリストのように生きることです。キリストのように生きるとは、キリストのために生きることです。

◆私たちの存在は、イエスキリストの命という大きな犠牲を払うほどに尊い存在なのです。ですから、私たちは、そのキリストを表して生きていこうではありませんか。私たちを通して、誰かがキリストと出会い、信じることへと導かれるなら、これほど喜ばしいことはありません。そのために、私たちがまずキリストを「信じて生きる」という歩みをしていきたいのです。

坂西恵悟

◆現代社会では、子どもは"つくるもの"という考えがあります。おそらく、医学などの進歩によって、妊娠のメカニズムなどが明らかになっているからでしょう。一昔前までは、子どもは"授かるもの"と考えられていました。100%意図したとおりにならないことからも、偶然もしくは、何か大きな働きによって授かったと考えられていたからでしょう。聖書の時代は、徹底して、子どもは神様からの賜物であると考えていました。

◆エルカナとハンナの間に与えられたサムエル。彼らは喜びに満ち溢れていました。主に対して敬虔であったエルカナは、毎年主の宮に上ることを大切にしていました。サムエルが与えられてからも同じように行動をしようとしますが、ハンナはそのことを拒んだのです。ハンナは、乳離れするまでサムエルを手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたのです。

◆「三つ子の魂百まで」という言葉があります。これは3歳ごろ(幼児期)に体得した性質は年をとっても変わらないという意味です。実際、子育ての現場でも3歳までの関わりを一つの節目と考えられています。ハンナは乳離する時期、3歳ごろまで、自分の元で育てる決意をしました。サムエルは敬虔な家族、敬虔な母親のもとで育てられて行ったのです。ハンナはサムエルが主によって与えられたもの、主に委ねられたものであることを語ります。(1:27,28)それゆえ、彼女はサムエルを献げることを主に約束していたのです。

◆私たちが主によって与えられているものは何でしょうか。私たちが主に献げることができるのは、主が私たちに与えてくださっているからです。一人の祈り深い母親の信仰は、私たちの信仰者としての歩みの中で一つの模範となることでしょう。

坂西恵悟

◆サムエル記は、現代の聖書では上下巻になっていますが、元々は一つの書物でした。ここでは、3人の人物に焦点が当てられています。書簡名となっているサムエル、最初の王様サウル、そしてダビデです。これまでのイスラエルはそれぞれの地域において、神様によって召し出されたリーダー、士師によって治められていました。士師の時代を経て、イスラエルの民は王様を求めます。部族ごとではなく、一つの国としてのあゆみを求めていきました。その結果、イスラエルは士師の時代から統一国家への時代へと変化していきます。

◆1章からは、サムエルの物語が始まります。子どものいないハンナは深い悲しみの中にいました。けれども神様の恵みによってサムエルを与えられたのです。この神様の恵みは彼女の喜びとなりました。そして、喜びは彼女の祈りとなっていきます。神様は高ぶる者に敵対し、謙虚な者を引き上げ、世に悪があったとしても神様は目的を成し遂げる方であること。いつの日か油注がれた王様を送ることが祈られています。(2章)

◆サムエルは成長し、イスラエルの預言者、指導者となっていきます。ペリシテ人の脅威が増し、イスラエルとの対立関係へと発展していきます。ペリシテ人の脅威の中、神様に助けを求めたり、信頼するということをせず、契約の箱をお守りのように使用し、結果ペリシテ人に奪われてしまったのです。神様は災いをペリシテ人に与え、イスラエルの民にも神様の前に謙虚であることを教えられました。

◆高ぶる者が下げられていき、謙虚な者が上げられていく。ハンナの祈りの通りになっていくのです。

坂西恵悟

◆ボアズはルツに言ったように、町の門のところへ行き、自分よりも買戻しの責任を持つ親戚にその責任を果たしてもらうよう、長老たちの前ではっきりとさせようとします。当時の町の門は、裁判や商談などが行われていた場所だったそうです。証人がそこにいて、争いごとなどの決着をつける習慣がありました。ボアズもその習慣に従い、自分よりも近いエリメレクの親戚に長老たちの前で買戻しの責任を果たすのかを確認しました。親戚は、当時の習慣に従って履物を脱ぎ、証人の前でその権利をボアズに譲ったのです。ボアズは、それを受け、証人たちの前で責任を果たすことを宣言しました。(4:1-10)

◆こうして、ボアズとルツは結婚し、二人の間に男の子が与えられました。それを見た女性たちは、ナオミを祝福しました。傷心して故郷に戻り、嘆いていたナオミの心は主にある希望によって回復されていきました。先がどのようになるかわからない。けれども、目の前に起きていく出来事を通して、ナオミは確かな神様の深い愛、憐み、慈しみを受け、確かな神様の導きを受け取っていたことでしょう。たとえ、直接的な神様の語りかけがなかったとしても、神様がいつも共におられ、その言葉と約束によって励まされ、慰められ、信仰者の道を歩んでいたことでしょう。それと同時に、ルツの信仰をも主は目をとめてくださり、救い主イエスの系図へと加えられていくのです。

◆ルツ記には、主の約束を信じて生きる人に与えられる、人間の考えを遥かに超えた神様の恵み、ご計画を見ることができます。神様の救いの計画の中において、私たちの苦しみ、悲しみ、無力感などが神様の力によって乗り越えることができ、希望と喜びへと変えられる姿を見ることができます。イエスキリストの誕生を迎えるこの時、改めて主の約束に希望を持って歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

◆ナオミの指示に従ったルツは、ボアズの足下で寝ていました。当時、男性の衣の裾を広げて女性を覆うことは、その相手と結婚する表明だったそうです。この時は、ルツからボアズに結婚を申し込んだ形になりました。ルツの気持ちを知ったボアズは、その思いを受け止め、最善を尽くそうと決意しました。ですから、まずルツに対して主の祝福を求める祈りをしたのです。

◆ボアズは、ルツに提案をしました。確かに、ボアズは責任のある親戚ですが、彼よりももっと近い親戚がいます。その人が、ルツに親戚の役目を果たすのかを確認し、役目を果たさないのであれば、ボアズが責任を果たすというものでした。

◆ここまでのボアズの姿から、彼が感情で行動する人ではなく、主の定められた掟に従順な人であることを見てきました。ボアズとルツは年が離れていたと考えられていますが、そういった中であっても浮き足立たず、ただただ主に信頼し従っている姿を見ることができます。ルツが、朝早く人知れないように帰っていく時、手ぶらで返すわけにはいかないと、大麦六杯を持って帰らせました。ここにも、彼の思いやりをみることができます。ナオミの嘆き(1:21)を逆転させる主の恵みを示すものでもあったでしょう。ナオミは、これを見て、主の恵みによる贖いの時を待ち望むように導かれます。

◆ナオミの「成り行きがはっきりすまでじっとしていなさい」という言葉は、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。」(出エジプト14:13)と語ったモーセの信仰を想起させるものです。

◆ルツ記では、主の語りかけの言葉はありません。しかし、一人一人の行動や言葉には、主の約束を信じる姿を見ることができます。アドベントを迎えるこの時、私たちも主の約束を信じ、待ち望んでいきたいのです。

坂西恵悟

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