◆ヨナタンとの別れを告げたダビデは、サウル王から逃げる逃亡生活が始まります。この逃亡生活は、このあと29章まで続いて行きます。ダビデが向かったノブという町は、「祭司の町」(22:19)と呼ばれていたことからも、重要な場所であったと思われます。

◆ダビデは恐れを抱きながらもまず、祭司のもとへと逃げ込みました。長い逃亡生活のはじめに祭司を選んだのです。ここからも、ダビデが危機に遭遇した時、預言者や祭司のところに最初にいくのは、預言者たちが神様の言葉に関わる人物であり、ダビデは自分の将来を神様に委ねる信仰を表明していたことがわかります。ダビデは、サムエルから油注がれ、王様となることが神様のご計画でした。その歩みを見る時、ダビデのもとに確かに主が共におられることが明らかにされていました。

◆しかし、ダビデはアヒメレクに嘘をついてその場をしのぎ、パンと武器を得ました。もし、正直に話していれば、匿うこと自体が王に対しての反逆行為ととられていたことでしょう。22章では、その場にいたドエグというサウルに属する牧者によって、密告されることが書かれています。

◆ダビデは、ペリシテのガトの王アキシュのもとへと逃げました。しかし、ダビデであることを知られ、ダビデはアキシュを非常に恐れたのです。ダビデは、気が狂ったような振る舞いをし、その場を凌ぎました。

◆生きることは、綺麗事だけではできません。神様の守りもただ眠っていて与えられるものではありません。主の守りを信じるがゆえに、生きる努力が必要なこともあるのです。様々な計略を行ったダビデ。そのダビデの背後には、確かな神様の導きがありました。たとえ、困難の中にあったとしても、主の導きと守りがダビデの上にあったのです。ダビデは、逃亡の中でそのことを学んでいったのでしょう。主への信仰を深め、主の守り、導きが表されるのです。

坂西恵悟

◆サムエル記上の20章では、ダビデとヨナタンの友情の物語が記されています。この20章以降、ダビデはサウルのもとを離れ、逃亡生活を始めます。ダビデとヨナタンの深く結ばれた友情がありましたが、そこから離れなくてはならなくなったのです。

◆サウルは嫉妬、激しい憎悪と敵意をダビデに向けました。19章では明確にダビデを「敵」と認識しました。(19:17)しかし、ダビデは、ヨナタンをはじめ、サウルの娘ミカルや預言者サムエルの助けによって、難を逃れたのです。ここに確かな神様のご計画がありました。神様に油注がれた者とされていたダビデ。神様のご計画の中で、イスラエルの王への道を歩むことになるのです。

◆ヨナタンは、サウルがダビデを殺そうとしていることを知り、ダビデにその旨を知らせました。(20:35-)厚い友情で結ばれていた二人が、離れ離れにならなくてはいけなかったのです。ダビデとヨナタンは、別れる際に約束をしました。ヨナタンは、決してダビデを裏切らないということ、ダビデは自分が王様になっても、ヨナタンの家系を無くさないことを約束したのです。事実、サムエル記下には、ヨナタンの息子に対して、その約束を履行する箇所があります。(サムエル記下9章、21:7) ダビデとヨナタンの愛は、神様と人の関係で与えられている愛と同じものです。ですから、この2人は主の愛によって、互いに愛し合っていました。その愛によって、お互いの家のために契約を行ったのです。

◆ダビデとヨナタンの愛は、神様と人間との愛と同じ言葉が使われています。主なる神様が、私たちに対して与えてくださった永遠の契約は、決して無碍にされることはありません。その確かな希望をいただきつつ、歩んでいきたいのです。                    

坂西恵悟

「主の守り」サムエル記上19章. 7/4  

Shin1

◆ダビデに対しての敵意を向けたサウルは、息子のヨナタンも含め家臣全員にダビデを殺すように命じました。しかし、ヨナタンはダビデにサウルが殺そうとしていることを伝え、彼を逃し、父サウルに対してダビデを殺すことの不当性を主張したのです。

◆息子ヨナタンの主張を受け、ダビデを殺すことをやめたサウルでしたが、悪霊の働きにより、再びダビデを殺そうと行動に起こします。琴を奏でるダビデを襲い、逃げていったダビデを殺そうと命じていくのです。そのサウルの計画は娘のミカルにも妨げられていきました。ミカルはダビデを逃し、ダビデはサムエルの元へと避難していったのです。

◆ダビデはこの時のことを背景に詩編59編を書きました。この詩編からも分かる通り、ダビデは主なる神様への全き信頼を持って逃げていました。苦しみの中にあっても主をたたえ、主が与えてくださる希望を信じていました。このダビデの願い通り、主なる神様は確かにダビデを守られたのです。

◆一方サウルは、変わらずにダビデを殺そうと計画し、ダビデを追ってラマへと向かいました。しかし、主の霊に妨げられ、一昼夜裸のままで倒れ、王の権威も威厳も、面目も失われるようなこととなっていったのです。サウルの計画はすべて失敗に終わりました。神様の計画に反抗し、その感情に身を委ねていった結果でした。
 ダビデは、神様の支配と導きに委ねる信仰を持っていました。神様はそのような信仰者とともにおられ、救いの導きを変わることなく与えてくださっているのです。

坂西恵悟

「妬みの罪」サムエル記上18:5-16 6/27  

Shin1

◆ペリシテ人のゴリアテに勝利したダビデは、そのままサウルの元へ召し抱えられました。そこで、サウルの息子ヨナタンとの深い友情が生まれました。ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣し、勝利を収めていきました。戦いの勝利は、全ての兵士、サウルの家臣に喜ばれることでした。

◆しかし、このことをサウルだけは喜びませんでした。戦いから戻った兵達をイスラエルのあらゆる町から女性たちが出て喜びながらサウル王を迎えました。しかし、実際に迎えられていたのはダビデでした。「サウルは千を討ち ダビデは万を討った」という歌はサウルとダビデの武勲を称えるものでしたが、サウルはこれが自分自身に対してのものではなく、ダビデの良さが称えられる歌と受け取ったのです。サウルは、この時から、ダビデを妬みの目で見るようになり、ダビデを敵視するようになりました。

◆以前、礼拝メッセージの中で「sin」と「crime」について話したことがあります。まさにサウルの内には妬みという「sin」が起こり始めたのです。その「sin」は積み重なってダビデを殺そうとする行動へと発展させていきました。サタンは、人間のこのような罪に入り込んできます。サウルもそうでした。

◆妬みは、私たちを本来向ける方向から別の方向へと向けます。神様へ向くべきところをそれ以外のところに向けさせます。コヘレトでは「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」(コヘレト4:4/新改訳)とあります。ですから、私たちは本来向くべき方向に目も心も向けていくことが大切なのです。

◆ダビデの勝利は、主からのものでした。主から目をそらしたサウルに待っていたのは、罪でした。私たちは、罪を犯してしまいます。その時に主に悔い改め、主を見上げて歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

◆ゴリアテに恐れおののいているイスラエルの民のもとへ、一人の少年がきました。彼は、エッサイの息子のダビデです。ダビデは、戦いに出ている兄たちに食料を届けにきました。兵達と話をしているダビデを見たエリアブは快く思わず、ダビデを嗜めました。

◆サウルの前に出たダビデは臆することなく、サウルに対して戦うことを進言しましたが、サウルは目の前にいる少年にそれはできないと思い、まともに話を聞くことはしませんでした。しかし、ダビデは自分自身が主によって獅子や熊から守られたことを引き合いにだし、主がゴリアテからも守ってくださるという信仰を示したのです。

◆ゴリアテの前に出たダビデは石を一つとり、石投げでそれを放ち、ゴリアテを倒しました。そして、ゴリアテの首をはね、イスラエルは勝利したのです。
戦車を誇る者もあり、馬を誇る者があるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる。(詩編20:8,9)

◆私たちは、目に見えるものを求めます。目に見える安心、安全、確証を求めます。ダビデは、目に見えない主を求め、信じました。この詩編の御言葉にあるように、私たちに必要なことは主の御名を唱えること、主を呼び求めることです。神様の助けには、強大な武力も、装備も必要されません。ただ、主の御業が働かれるだけなのです。若く、弱い存在だったダビデを主は豊かに用いてくださったように、私たちも主は用いてくださるのです。ですから、私たちは主に信頼するものでありましょう。

坂西恵悟

◆サムエル記上17章は、旧約聖書の中でも有名なダビデとゴリアテの物語です。ペリシテ人は戦いに備えて軍を招集しました。彼らが陣を敷いたのは、エルサレムの南西約27km、ベツレヘムからは西方約20kmのところに丘陵地帯です。ペリシテはソコとアゼカの間、イスラエルはエラの谷にそれぞれ戦いに備えたのです。

◆ペリシテには身長280cmを超えるゴリアテが、青銅の装備を装着していました。ゴリアテは、イスラエル人に対し、一騎討ちを挑み、敗れた方が奴隷になるように呼びかけました。この一騎打ちの習慣は、当時のイスラエルのものではありません。ギリシャの習慣でした。ゴリアテは、挑んでくる者などはイスラエルにいないと侮り、愚弄し続けました。また、イスラエル人だけでなく、イスラエルの神をも愚弄していました。そのことを気づいていないイスラエルは、この屈強で、大きなゴリアテを前に、恐れおののいていたのです。イスラエルの神を愚弄することの深刻さを明らかにしたのは、少年ダビデだけでした。

◆サウルをはじめ、イスラエルの民はゴリアテの前に恐れおののきました。目の前にいる、たった一人の脅威に怯えていたのです。これまでのイスラエルの戦いを振り返ると圧倒的不利な状況で、勝利をしたことがありました。サウルが王となって2年の時、戦ったペリシテとの戦いでは、圧倒的な戦力差がありながらも、ヨナタンの信仰をもった行動により勝利しました。主により頼む先に、主にある勝利がありました。しかし、この時のイスラエルは主により頼むという考えに至らず、ただただ目の前の脅威に怯えていたのです。しかし、信仰によって歩むダビデにとっては、この戦いは主の勝利が約束されたものだと確信を持っていたのです。

坂西恵悟

◆16章から、いよいよダビデが登場します。サムエルは、サウルのことを嘆く日々を過ごしていました。主なる神様が、サウルをイスラエルの王としたことを後悔されていたからです。神様は、サウルに変わる新しい王を立ててくださいました。神様の命令によってサムエルはベツレヘムに行き、そこでエッサイの子ども達に会いに行きました。新しい王として油注がれるべき人物は、エッサイの子であったからです。

◆サムエルは、ベツレヘムで混乱が起きないよう、主にいけにえをささげるために来たと伝え、エッサイの子ども達にあったのです。サムエルは、エリアブに目を留めました。そして、確信を持ってエリアブが油注がれる者であると思ったのです。しかし、神様の答えはNOでした。主は、サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と語られたのです。エッサイは、サムエルの前に7人の息子たちを通らせました。しかし、7人とも違っていました。羊の番をしている末っ子のダビデが連れてこられた時、主なる神様は「立って彼に油を注ぎなさい。これがこの人だ。」と命じられたのです。

◆神様が選ばれたダビデも血色が良く、目は美しく、姿も立派な人物でした。このダビデの姿は「人間が見る」基準と同じように思えます。エッサイはダビデが幼いことから、サムエルの前に連れてくるということをしませんでした。なぜ、神様がダビデを選ばれたのかは、わかりません。しかし、心を見られる神様は、ダビデが適任であることをご存知だったのです。I.コリント1:26-28にあるように、神様は無に等しい者を選ばれたのです。「愛された者」という意味の名のダビデ。私たちは、この世の評価ではなく、神様に愛された者として評価されているのです。神様に愛された者、神様の恵みを受けた者であることを感謝していきましょう。

坂西恵悟

◆サウルの物語もいよいよ終盤へと入っていきます。この15章では、サウルはアマレク人との戦いに出ていきました。イスラエルの民の悩みの種は、ペリシテ人でした。民が求めていたのは、ペリシテ人に勝利し、安定した王国を建てあげるための王様でした。サウルは、その民の期待を背負いながらペリシテと戦い、勝利しました。ペリシテ人との戦いは、サウルの生涯をかけて行われていました。しかし、アマレク人との戦いは民が求めるものではありませんでした。民は、問題ともしていなかったことでしょう。けれども、主なる神様からの言葉は、そのアマレクを滅ぼし尽くすというものでした。そのきっかけは、出エジプトの時、イスラエルが約束の地に入るのを最も卑劣な方法で妨げようとしていたからです。彼らは、主なる神様の敵対者だったのです。(出エジプト17:16)

◆サウルは、この命令に従い、アマレクと戦い、勝利しました。しかし、神様が命じられたことを100%守ることはしませんでした。(15:9)サウルのこの行動により、神様の御心にかなう人物ではないことが明らかになってしまったのです。神様は、サウルを王としたことを後悔され、そのことを知ったサムエルは、深く心を痛め、主に叫んだのです。

◆一方サウルは、戦勝碑を建てました。そして、尋ねてきたサムエルに対し、主の命令に従ったと報告したのです。彼は、自分の罪に気づいていなかったのです。サムエルの忠告を聞いても、自分を正当化しました。サムエルは、主の御声に聞き従うことが主が喜ばれることだと語り、サウルの王位が退けられることを告げました。ここまで聞かされて、やっとその罪に気付き、罪の赦しを求めましたが、主の裁きの言葉が取り消されることはありませんでした。

◆この15章では、サウルのことを嘆き、王としたことを悔いている神様の姿を見ることができます。民を愛するが故に悔いておられる姿です。しかし、神様の悔いる姿は、イスラエルに対する救いの希望を明確に表しているのではないでしょうか。人の罪と、神様の見捨てることのない愛を私たちは見ることができるのです。

坂西恵悟

◆13章で集められた3000人の兵たちは、ペリシテ軍の圧倒的な数の多さ、武力に怖気付いて、隠れ、逃げ出していました。サウルのもとに残った兵士はおよそ600人でした。しかも剣も槍も持っていませんでした。サウルは、ミグロンのざくろの木陰にいました。元々の言葉では、「座っていた」という意味であることからも、その場から動くことができなかったのでしょう。そんな中、息子ヨナタンは行動をしていったのです。

◆ヨナタンの行動には、ヨナタンの信仰が見られます。彼は、迷うことなく、ペリシテ軍の元へと進んでいきました。兵の数の多少を問題にしていなかったのです。ここにヨナタンの信仰があります。ヨナタンは自分自身に自信があるのでも、自分の力を過信しているのでもありません。「主が計らってくださるに違いない」という神様への信仰を持って進んでいったのです。ヨナタンは、主が答えてくださるしるしを受けて、勇気をもって敵陣に攻め入りました。従者との2人での戦いがどのようなものか具体的ではありませんが、結果20人の敵を倒し、ペリシテ軍全体に動揺を引き起こす結果となりました。

◆一方、サウルはペリシテ軍の動揺を知り、祭司アヒヤに対し、神の箱を運ぶよう命じましたが、それを途中でやめ、攻勢に出ました。主の救いによって、イスラエルは形勢逆転することができたのです。サウルは、神様に託宣を求めようとしながら、それを途中でやめたり、無理な誓いを兵士たちにさせ苦しめました。サウルの神様に対する信仰の一貫性を見ることができません。

◆サウルは、イスラエルの王として国のために戦った立派な戦士であり、指導者でした。彼なりの神様への信仰を表そうとしていました。しかし、その神様への敬虔さは、神様の言葉に聞く信仰ではなかったことが明らかにされていくのです。

坂西恵悟

◆サムエル記上13章-15章は、サウルの戦いがまとめられています。サウルが王となったのは、30歳の時であるとされています。(新改訳第三版、口語訳) しかし、ヘブル語の原本では、その年齢の部分が欠けており、ギリシャ語訳の写本に30歳という数字が加えられています。ですから、正確な数字が明確になっていませんが、ヨナタンという戦士の息子がいることからも、その年齢に近いのかもしれません。

◆サウルは、ペリシテ人に対抗するために、兵を召集し戦いに備えました。ヨナタンがペリシテ人の守備隊を打ち破ったことがきっかけとなり、戦いが始まっていきました。しかし、ペリシテ軍はイスラエルの10倍以上の人が集まり、イスラエルは戦意を喪失してしまいました。

◆サウルは、このような中にあっても、サムエルの命令を守りました。(10:8) サウルの王様としての行動は、勇敢であり、責任感を持ち、サムエルの命令にも忠実に従っていたことがわかります。けれども、その約束の期日が終ろうとしている中で、次々と離脱していく兵たちを見て、サウルは動揺し、焦ったのです。そして、サウルは献身を表す和解の献げ物を献げたのです。焼き尽くす献げ物を献げ終わった時に、サムエルは到着したのでした。この光景を見たサムエルは、サウルを非難したのです。

◆サムエルが非難したのは、サウルが神様のことを求めなかったことでした。たとえ、7日間待ってサムエルが現れなかったとしても、サウルが行うべきことは神様の言葉を求めることだったからです。

◆私たちは、試練に直面する時、御言葉よりも自分の思いや感情を優先して判断してしまうことがあります。イエス様がゲッセマネで苦しみながらも神様の御心を求めたように、私たちも主のご計画を信じ、御心を求めて祈ることが大切なのではないでしょうか。

坂西恵悟

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