今週の一面 『 祈りの生活 』 8/11  

管理人

◆讃美歌に「この世のつとめ いとせわしく 人の声のみ しげき時に 内なる宮に のがれてゆきて われは聞くなり 主のみ声を」という歌詞がある。

◆確かに現代に生きるわたしたちは、多忙と騒音のなかに明け暮れる毎日である。いやおう無しにこういう中で生活しなければならぬわたしたちが、自分に語りかけたもう主のみ声を聞くためには、なんとしてもこの世から退くことが必要である。そして、わたしたちの心のチャンネルを神に合わせることなしに神の語りかけを聞くことはできない。

◆主イエスは、食事をする暇さえない弟子たちに対して「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ6:31)とすすめられた。これは主が弟子たちにこの世から逃れていって、心を静めて神の語りかけを聞くこと、すなわち祈りの時を持つことをすすめたことばである。そうでなければ、結局生活が枯渇して来、生きる意味を失ってしまうのである。

◆「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)「イエスは祈るために山に行き夜を徹して神に祈られた」(ルカ6:12)「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから...祈っておられた」(ルカ22:39)神の子にしてかつこれほどの祈りを要したのである。わたしたちも成長していく信仰のために、まず祈りの生活を確立したいものである。

石田政美

今週の一面 『十戒④ 』 8/4  

管理人

◆第6戒からは、人に対する具体的な行動に関する戒めです。(殺人、姦淫、盗み、偽証)これは、内面的な部分もありますが、主だっては外面的に見えるものになります。神様が求めていることは、私たちがきよくあることです。
「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21 新改訳)

◆神様は、自分自身をきよめる人を、尊い働きのために用いてくださるのです。

◆第10戒では、人に対する行動の外面的なものではなく、内面的なことが戒められています。私たちは、他人の心を完全に理解することはできません。すべてを理解しているのは、神様だけです。神様は、人が他人の家を欲することを禁じられました。土地や家屋だけでなく、家に属するすべてのものを欲することを禁じられたのです。

◆私たちは、いつも比較します。商品を買うときも比較しますし、自分と他人も比較します。貪る心は神様の対する不信仰から出てくるものです。神様が私たちの必要を与えてくださるという御言葉を信じるのであれば、他人と比較することは必要ないでしょう。むしろ、今与えられているものに感謝をすることができるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。」とあるように、神様が与えてくださっていることを信じるが故に、現状に満足する心が与えられて、将来に対しても平安が与えられるのです。

◆神様からの十戒は、イスラエルの民にとって、私たちにとって基本的なことです。しかし、私たちは、この十戒を完全に守ることができません。この十戒は、私たちが罪人であること、不完全な者であることを明らかにします。だから、イエス・キリストが救い主であり、この律法を完全に守り、成就された方であると信じることができるのです。

坂西恵悟

今週の一面 『 十戒③ 』7/28  

管理人

◆十戒は第1戒から第4戒が神様に対するもの、第5戒からは人間に対してのもの。ある人は、第5戒はその架け橋的なものであるとしています。子どもにとって親は神の代理人とも言える立場で、親の地位は神聖なものと考えられていたからです。

◆「敬う」という言葉には2つの意味が考えられます。「従順」と「尊敬」です。赤ちゃんは自分で何もできません。親に従順です。成長するにつれ、子どもは自分自身で物事の判断ができるようになっていきます。しかし、いつまでも従順させてしまうと親に依存してしまうでしょう。ですから、「従順」することから「尊敬」するようになっていくことが大切です。両親を敬う者に、神様からの祝福が伴うのです。(20:12)

◆第6戒では、「殺してはならない」と命じられています。原語では、ラーツァフとなっている言葉ですが、これは血の報復を求めるような殺人という意味から、憎しみや悪意といった個人の感情に基づいて加えられる暴力的行為という広い意味まであります。

◆私たちは"神様のかたち"に造られており、人間の生命は尊いものです。神様は一人一人にご計画を立ててくださっています。神様は私たちを高価で尊い存在として愛してくださっています。だからこそ、神様の示す道から外れていく私たちを憐れみ、イエス・キリストをこの地に送ってくださったのです。殺すことは人間の手によって神様のご計画を奪ってしまうことになるのです。

◆私たちは、お互いが神様のかたちに造られていることを覚え、お互いを神様によって赦されている者として愛し合う者でありたいのです。

坂西恵悟

◆第3戒において「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と命じれらました。最近聞くことが少なくなりましたが、若者の間で何に対してもすぐに「神」と表現することがあります。会話の中で「まじ、それ神だよね」や「〇〇神じゃん」などの表現がよく使われていました。

◆そもそも、私たちは名前を大切にします。それはイスラエルの民も同様でした。子どもの名前を選ぶ時、非常に神経を使ったことでしょう。自分の名前をいい加減に使われるならいい気分にはなりません。神様もご自身の御名を威厳をもって呼ばわれることを望んでおられるのです。また、昔のイスラエル人は誓いを立てる時、神の名によって誓いました。神の名によって誓ったことは、必ずそれを守ることを要求されていたのです。時が経つにつれ、神の名を軽んじて使うようになり、いい加減な誓いをするようになったのです。

◆神の名を大切にするには、私たちを通して神様が素晴らしさが伝わることが必要です。つまり、私たちが良いあかしの生活を送ることによって、神様の名があがめられることが大切なのです。

◆第4戒では、安息日に関する教えです。安息日を聖とし、6日間働き、7日目は仕事を休むことを命じられました。神様が7日目に休まれ、祝福されたからです。

◆旧約の時代、金曜の日没から土曜の日没まで安息日でした。家族で神様を礼拝し、祈りと瞑想の時を持ち、午後には集まって聖書を学ぶようになったのです。イエス様が復活されてからは、教会は日曜日を聖日として守るようになりました。週のうち1日は神様を礼拝し、神様の創造のわざを覚え、神様の救いのわざを覚えることが、安息日を聖別することになるのです。

◆私たちが週に1度集まり礼拝をすることは、神様の素晴らしさを覚えるために必要なことなのです。私たちは霊とまことをもって神様に礼拝をささげていきましょう。
坂西恵悟

◆神様はご自身がどのような方であるかを語った後、モーセに十戒をお与えになりました。まず始めに、人間が守るべき大切な戒めを示されたのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(20:3)

◆人間が神以外のものを神とする、偶像を持つことを禁じられました。人間は偶像を拝む習慣がありました。イスラエルの民がいたエジプトにも多くの神と呼ばれるものがあり、遡ってアブラハムの時代にも月を神として礼拝していました。また日本にも八百万の神や、先祖を神とする文化があります。また、そういった神格化されているもの以外でも神以上に大切なものとされるなら、それも偶像でしょう。お金、財産、地位、名声、学歴、名誉などが神以上に大切にならないように、私たちは気をつけなければなりません。

◆続く第2戒では、その偶像を持つだけでなく、拝んだり仕えたりしてはいけないことを教えています。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(20:4)

◆なぜ神様を形にしてはいけないのでしょうか。それは、神様は霊なる方であり、形のない方だからです。(ヨハネ4:24) また申命記ではイスラエル人は神様の姿を見ず、いかなる偶像も造ってはいけないと言われています。(申命記4:15,16) 神様は霊で形を持たない方です。時間の制約も空間の制約も受けない方です。そのお方を形にすることは不可能です。無から有を生み出す神様を、被造物である私たちが造ることなど不可能なのです。

◆私たちは、今も生きておられる神様を礼拝し、祈りをささげていくべきです。また、神様を愛し、神様の戒めを守ることが必要です。そうする時、私たちの後の世代も神様の大きな祝福にあずかることができるのです。(20:6)

坂西恵悟

今週の一面 7/7  

管理人

◆この20章から申命記に至るまで、神様はモーセを通し多くの律法を与え られました。聖書では、私たちは迷いやすい羊であるとたとえられていま す。私たちはすぐに道をを外れてしまいます。その道を正しく歩むために は、道しるべが必要なのです。この神様からの律法は、ただの命令ではな く私たちが神様の前に正しく歩むために必要な道しるべとなります。

◆神様がモーセを通してイスラエルに与えられた律法は、旧約時代に適用 されるものと、新約時代に適用されるものの2つに分けることができま す。旧約時代のものは、儀式に関するものや、当時の社会生活に関わるも のです。新約時代のものは、道徳法すなわち十戒です。この十戒は2枚の 石の板に書かれ、幕屋の中の神の箱に納められました。移動の時にはイス ラエルの民の中心に据えられました。この十戒が彼らにとっての基準であ り、中心だったのです。また、この十戒は現代の私たちの法律の基になっ ているものです。

◆十戒は大きく2つに分けることができます。神様に対するもの(前半4 つ)と人間に対するもの(後半6つ)です。十戒を与える前に神様ははじめに ご自身がどのような方であるかを示されました。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出 した神である。」(20:2)

◆約束は一人ではできません。相手がいて初めて成り立ちます。何かを契 約するとき、相手が誰かわからないと契約することは出来ません。神様は まずご自身が、奴隷であったイスラエルの民をエジプトから救い出し、こ のシナイ山まで導いた神であることを明らかにされました。そして、十戒 を与えられたのです。

坂西恵悟

今週の一面 6/30  

管理人

◆今日は使徒パウロが、自身の弱さや様々な困難の中でどうやって神様に希望を見出したのか、見てみたいと思います。パウロの言う弱さとは何でしょうか?パウロはⅡコリント12:7で「一つのとげ」が与えられたと言っています。それが具体的に何かは、聖書では明らかにされていません。パウロはそのとげを取り去ってくださいと三度、神に願いましたが、それは叶いませんでした。その代わりに、神様から次の言葉が与えられました。12:9「「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そしてパウロはこう言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

◆ここでいう弱さとは、生まれつき持っている病気や体の障害のことです。あるいは病気などで肉体的、精神的に弱っている状態を指します。パウロはその弱さを「とげ」と表現しています。とげ、というと皆さん何を想像されますか?とげは尖っていますから触れると痛いです。ですから「とげ」とは、あまり触れたくない、考えると心が痛くなるような、自分自身についての部分と言えるでしょう。それは例えば、パウロのように身体的な部分、あるいは性格的な特徴でもあり得ます。皆さんお一人一人も、とげがあるのではないでしょうか。パウロのとげとは、パウロ自身が触れたくない、考えたくない部分だったのでしょう。

◆​何回も祈ったのに、そのとげが自分から離れていかないと知ったとき、パウロは自分の弱さを認め、受け入れました。そして誇ったのです。誇るとは、隠さないで、堂々と他の人に見せることです。それは、キリストの力がパウロに宿るためでした。
嶋田和幸

◆エジプトを脱出し、神様の多くの奇跡と御業を体験したモーセのもとに、しゅう とであるエトロが訪問しました。エトロは、神様がモーセとイスラエルの民になさ ったすべてのこと、エジプトから導き出されたことを聞いて、モーセの家族と共に モーセのもとへと訪れたのです。エトロを迎えたモーセは、神様がイスラエルのた めにファラオとエジプトに対してなされたこと、道中での神様の御業を話しまし た。このような証を聞き、またエトロ自身も目の前にある雲の柱、火の柱、マナを 目の当たりにして驚き感動を覚えたことでしょう。エトロはこの証を聞いて喜び、 主を賛美し、いけにえをささげました。(出エジプト18:10-12)

◆異邦人であるエトロがこのような行動に出るほど、神様の行われた御業がどれほ ど素晴らしいのかを知ることができます。エトロはイスラエルのことを耳にしてい ました。そして、実際にモーセと話し、目の前の出来事を見て、主を賛美したのです。 まことの神様を信じる人が、神様に信頼を持って従い、神様の力と神様の恵みを体験 する時、まことの神様を知らない人に対して、主を証することができるのです。

◆私たちは、神様の恵みに満ちあふれた日々を送ることが出来ているでしょうか。 私たちの日々の歩みの中に、主が働き、主の偉大な御業と力と恵みと愛を私たちは 見つけることが出来ているでしょうか。神様のもとに一歩進んだ時、私たちの目の 前には主の偉大な御業、力、豊かな恵み、変わらぬ愛が広がっています。その恵み を受け取る時、私たちの口からは主への賛美で溢れることでしょう。また、私たち の歩みを通して、周りの人々も主を賛美することができたら、なんと素晴らしいこ とでしょうか。

「主をたたえよ・・・今、わたしは知った・・・主はすべての神々にまさって偉大 であったことを。」(出エジプト18:10-11)

坂西恵悟

◆人間は、弱いものです。神様の素晴らしい御業を体験しても、時間が経つ と忘れてしまいます。イスラエルの民も例外ではありませんでした。むし ろ、彼らの姿は、弱さをよく映し出しているものでもあるでしょう。十の 災いの奇跡を目の当たりにし、エジプトを脱出した後も目の前には雲の柱、 火の柱が導いているにも関わらず、彼らの口からは恐れや不満でした。エジ プトの民は、後ろから迫ってくるエジプトの大軍に恐れました。エジプト の神々を打ち砕いた方がいるにも関わらず、彼らは、目の前のことに集中 していたのです。

◆私たちも、神様からの恵みを忘れてしまうことがあります。そして、試 練の中で恐れてしまうことが、よくあると思うのです。過去の恵みを早くに 忘れ、今の不安定な環境に飲み込まれてしまいやすいものです。

◆葦の海での出来事は、イスラエルの民にとって大きな試練の一つです。 しかし、この試練は、神様によって与えられたものです。試練も、神様の 御手の中にあるのです。この試練の中において、イスラエルの民は、主に 向かって叫びました。試練の中において信仰をもって、助けや守りを神様 に求めることは、とても良いことです。しかし、このイスラエルの民の叫 びは、不平不満な叫びでした。彼らは、神様だけにではなく、リーダーで あるモーセに対しても言ったのです。彼らは、エジプトから救ってくださっ た神様の御業に不平を言い、エジプトに戻ることを望んだのです。神様の 御業を否定することほど、残念なことはありません。ここに、私たちの弱さ が、顕著に表されているのではないでしょうか。モーセは、イスラエルの 民に言いました。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の 救いを見なさい。」(出エジプト14:13)

◆主が、私たちのために御業をなしてくださいます。その御業を感謝し、主 に信頼するものでありたいと願います。

坂西恵悟

◆アロンを助け手として与えられ、ファラオの元へと遣わされたモーセ。イスラエルの民をエジプトから出してほしいと願うもファラオには聞き入れられませんでした。ファラオの心は頑なでした。そんな、頑ななファラオやエジプトに対し、神様は10のしるし(災禍)を起こされました。ナイル川の水が血に変わり、蛙が群がり、ぶよ、あぶがエジプトに広がり、家畜に疫病が蔓延し、はれ物が人と家畜に生じました。また、雹が降り、いなごの大群が押し寄せ、暗闇がエジプトを覆いました。そして最後にエジプト中の初子が過越の出来事により打たれました。この10のしるし(災禍)を通して、ファラオはイスラエルの民がエジプトから出ていくことをゆるしたのです。この10のしるし(災禍)を通して神様は何を教えようとされたのでしょうか。

「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、

わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたがたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」(出エジプト10:1b-2)

◆神様が教えようとしたことは、神様が主であるということです。力も権威も命も人のものではなく、神様のご支配の中にあるということです。この出来事は神様の言葉に従う者、従わない者の違いを見ることができます。また10番目のしるしは、イエス様の十字架を想起させます。救いの御業は神様からのものです。神様の言葉を信じたイスラエルの民と信じなかったエジプト、この違いは明確でした。新約の時代に入った私たちにとって、イエス様の十字架が私たちの救いです。私たちはこの救いの御業に感謝をささげるのです。

坂西恵悟

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