◆イスラエルの人々は、主の前に悪とされることを行いました。また、彼らは主ではなく、他の神々に仕えていたのです。その民に対して、主は怒りを覚え、クシャン・リシュアタイムの手に渡されたのです。外国の圧政によって苦しんだイスラエルは主に助けを叫び求めました。その求めに主は応じてくださり、救助者を立ててくださったのです。

◆この士師の時代のイスラエルは、主に対する背信→主の怒りとさばき→民の叫び→士師による救助。この形が何回も繰り返し行われています。人間的に見るならば、「いい加減にしてくれ」と思ってしまうところですが、主なる神は忍耐を持ってくださり、イスラエルの民の叫び、悔い改めに応えてくださるのです。

◆イスラエルの救助者として立てられたオトニエルは、カレブの甥っ子でした。オトニエルは始め「救助者」として立てられました。イスラエルを助ける者として立てられたのです。主の霊が臨んだオトニエルは、士師としてイスラエルを治めました。主の手によって、オトニエルはクシャン・リシュアタイムを抑えて40年に渡って国が平穏になりました。士師は、罪と苦難の時代に召し出され、イスラエルをさばき、治め、救助者として立たされました。士師は継承されるものではなく、時代、場所は、それぞれです。しかし、主の確かな守りと憐みが、士師を通して臨むのです。

◆士師記を見て行くと、人間の罪を繰り返す弱さを見ることができる一方で、主なる神様の忍耐と憐みを繰り返し見ることができます。主なる神は同じように、私たちに対しても忍耐してくださり、イエスキリストを救い主として送ってくださったのです。

坂西恵悟

◆2016年のリオオリンピックで、男子400mリレーが銀メダルを獲得しました。「日本人は、短距離では勝てない」という言葉が言われ続けていた中での快挙でした。その快挙のきっかけとなったのが、「バトンパス」でした。バトンの受け渡しを突き詰めたことで銀メダルを獲得できたのです。

◆クリスチャンも「つなぐ」ことがあります。「信仰継承」と呼ばれるものです。この「信仰継承」はいつの時代も考えられたものでしょう。私自身も一人の親として考えるものの一つです。成功談、失敗談は数多くあります。それは、聖書の中にもあります。エジプトを脱出し、荒野の40年を過ごし、約束の地へと入ったイスラエル。モーセ、ヨシュアがリーダーとして召しだされました。彼らと共に過ごした人々は主に信頼し、従う歩みをしていました。ヨシュアの死後も、ヨシュアと共に生きた長老たちの存命中は続いていました。

◆しかし、時間が流れ、新しい世代になった時、イスラエルの民は主に従うことをやめてしまったのです。彼らが選んだのは主ではなく、バアルなどの他の神々に従ったのです。このような民に、主は「士師」を立たせてくださいました。士師は、「さばく」や「治める」という意味があり、別の訳では「さばきつかさ」とも訳されています。士師は、イスラエルの民を「治め」、「正しくさばく」働きをしていたのです。この士師の元でイスラエルの民は、主を見続けることを選ぶのです。

◆私たちは、日々の生活の中で主以外のものに心を向けてしまうことがあります。また、主の前に罪を犯します。しかし、イエスキリストによって、私たちは主の前に正しく歩むことができるのです。私たちがつなげていくことは、イエスキリストによる福音です。この福音によって、私たちは主に従うことができ、主の豊かな祝福の中を歩むことができるのです。

坂西恵悟

◆110歳でその生涯を終えたヨシュア。彼が、イスラエルの民に最後に伝えたこと、語ったことは、主である神がイスラエルに何をしてくださったのか(23:14)、イスラエルは主に対して何をすべきなのか、主はイスラエルに何を警告しているのか、主の命令を破るとどうなるのかを23章で語りました。この24章では、主をおそれ、誠実と真実をもって主に仕えるようにと語ったのです。また、この24章は民との対話になっています。ヨシュアの問いかけに対し、民が応答する。この民の応答は、私たちの応答のモデルです。イスラエルの民のように、私たちも応答していくことが大切です。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に真の神に仕えるのか、他の神々に仕えるのかをはっきり選ぶように勧めました。どっちつかずではありません。その問いかけに対し、イスラエルの民は、はっきりと真の神に仕えることを告白したのです。
民はヨシュアに答えた。『わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。』」(24:24)

◆民は主に仕えること(24:24)、主を礼拝すること(24:21)を選びました。主への信仰をはっきりと告白したのです。

◆私たちは、どうでしょうか。はっきりと選び取っているでしょうか。どっちつかずになっていないでしょうか。イスラエルの民が体験した主の御業は、大きな恵みでした。その主が、同じように私たちに御業をなしてくださるのです。その御業は、イエス様の贖いです。私たちは、この主に仕え、その声に聞き従うものでありましょう。

坂西恵悟

◆「聖書の登場人物で誰が一番好きですか?」という質問に対して,私は毎度悩みます。それは、自分の名前がまず浮かんでしまうからです。少しマイナーな人を挙げようとしてもやはり、授かった名前からは逃げられないようです。         

◆しかし、いまでも聖書に書かれている彼の歩みから学ばされます。モーセの生きている時代、ヨシュアはアマレク人との戦いや、カナン偵察などに登場しています。後にモーセの後任者としてエリコを打ち―約束の地カナンへイスラエルの民を導きます。

◆彼の好きなところは、彼は一貫して主の前に忠実な戦士であったことです。初めてヨシュアを知ったのは、エリコ侵略(聖書アニメ)ですが、ヨシュアはヒーローでスーパーマンだと思っていました。確かに素晴らしい戦士ですが、ヨシュアは民の指導者である以前に、主のしもべであったということを後に知りました。主のしもべであったこと、また主の約束(カナンの地)があること。それ故に○○の中でも固く主を信頼し続け、ヒーローのような素晴らしい御業を体験できたのだと思います。     

◆ヨシュアと比べると、私は不安に弱いです。勉学や、これから始まる仕事、コロナ禍など、気づけば目先の不安に捕らわれ、自分の主が神様でなくなってしまうときがしばしばです。また、気づけば問題も問題とすら認識せずに大切なことを忘れてしまうときもあります。しかし、次のような御言葉に助けられたいと思います。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネ16:33)
強く、また雄々しくあれ。...わたしはいつもあなたと共にいる。(申命記 31:23)

そして、ヨシュア記の最後に書かれている言葉にも応答するものでありたいと思います。
あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。(ヨシュア記 24:22)

澤田芳矢

◆ヨシュア記の23章、24章は、ヨシュアの告別説教と言われている箇所です。創世記のヤコブの言葉、申命記のモーセの言葉、主からの祝福が中心に語られていました。年齢を重ねて、年老いていく中で、後世に何を伝えていくのかということは、多くの方が考えることでしょう。遺言という形で残されたりもします。ヨシュアは自身の人生の終わりに際し、イスラエルの民に別れの言葉をかけたのです。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に対し、神がイスラエルに何をなさったかを語りました。その中で、「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。」(23:14)と語った通り、主の約束されたことは全てがイスラエルの民に実現しました。具体的に主がなさったことは、イスラエルの先頭に立って、戦われたこと。(23:3)主が共にいてくださったので、約束の地を嗣業の地として与えられました。(23:4)

◆主の約束が何一つたがうことなく実現したのは、イスラエルの民が主に従い、悔い改め、主を愛していたからです。モーセもヨシュアも、主の教えを守ることを何度も伝えました。それと同時に、主を愛することも伝えていたことでしょう。

◆主は真実な方です。約束してくださったことを守ってくださる方です。その主に私たちも信頼していくものでありたいのです。自身のあゆみを振り返る中に、確かに主が導いてくださったということを確信を持って歩んでいきましょう。

だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。(23:11)

坂西恵悟

◆いよいよ、イスラエルの各部族に土地の割り当てが始まります。13章から始まる割り当ては、くじによって決められました。部族の大きさによって土地のサイズも変わっていました。主がモーセに命じられたとおり、それぞれの部族が土地を割り当てられていったのです。(13章~21章)

◆このような中、カレブはヨシュアの元へ行き要求をしました。カレブは、モーセの時代カナンの地へ偵察にいったメンバーの一人でした。カレブは、カナンの地を偵察し、「断然上っていくべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」とモーセに進言したのです。(民数記13:30~33) 他の偵察に行った人々は、カナンへ上ることを勧めなかったのに対して、カレブは確信を持って進言したのです。そして、ヨシュアと共に、イスラエルの民に約束の地へ行くことを訴えたのです。(民数記14:5~10)この偵察の時、カレブは40歳でした。そして、40年の荒野での旅を終えて、カナンの地に入り、85歳の年を重ねていました。そして、土地の割り当てについて、主が約束してくださった地を与えてくださるようにヨシュアに訴えたのです。

◆85歳になる老人カレブの訴えには、偵察にいった40歳の時と変わらない信仰がありました。「主が共にいてくださる」という信仰です。偵察の時には、「彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)と語り、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」(ヨシュア14:12)と語りました。彼の体は間違いなく、衰えていたことでしょう。しかし、カレブの信仰は年を重ねるにつれて、堅くなっていたのです。自分が土地を得るのではなく、主が与えてくださる。主が共にいてくださるからこそ、主の約束が果たされ、主が御業をなしてくださるという信仰に立っていたのです。

坂西恵悟

◆13章からヨシュア記は後半部分に入っていきます。この後半には、12部族への嗣業の土地の配分、ヨシュアの最期が記されています。この割り当てはヨシュアに与えられたもう一つの大きな使命です。約束の地へと入ったイスラエルの民が諸国との戦いを経て、その地に住む。モーセのもとでエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が約束の地に住むことは、神様による救いと平安、安息の中に入れられることです。イエスキリストによって与えられた、救いと平安のモデルとしても見ることができるでしょう。

◆ヨシュアは年を重ねて、老人になりました。おそらく90歳を超えていたと思われます。そのような中でも、彼は主に信頼し、主の言葉に従いました。このヨシュアに神様は、これからの使命をより具体的に語ってくださったのです。(13:1)そして、これまでと同じように主は約束してくださったのです。
わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う。あなたはただ、わたしの命じた通り、それをイスラエルの嗣業の土地として分けなさい。」(13:6)

◆神様のご命令は、一貫していました。「わたしの命じた通り行え」これは変わることのない言葉です。神に命じられた通りに行ったことはすべてその通りになりました。神様はヨシュアに対して、なすべきことを、神の言葉に従った先のことをいつも示してくださったのです。

◆私たちも主の言葉に従うものでありましょう。その言葉を信じることができなかったのであれば、私たちは何を基準に生きるのでしょうか。常識や当たり前が変わっていく世の中に私たちの基準を置くのではなく、変わることのない御言葉に基準をおいていきましょう。

坂西恵悟

◆「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自身を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブル9:28)

◆今、復活祭のシーズンです。聖書の預言のとおりに、御子イエス・キリストは、この地上で人の子として、人類の罪のあがないを完成する十字架の業を成し遂げてくださいました。そして、主は、もう一度、この地に戻って来られます。

◆現在、新型コロナウィルスにより、世界中が未知のウィルス感染の対応と対策に追われています。私たちは、連日の報道であらゆる情報に一喜一憂しています。私たちも連日の情報を見聞きし、とりなし祈る日々を過ごしています。

◆イエス様のご再臨の日時は誰にも分かりませんが、マタイ24章にある「愛が冷え、産みの苦しみ」が増している状況を知り、また、神不在の人間中心の社会構造や、世界の国々が生み出した負の要因や、悔い改めるべき事実が明るみに出されてきていることを思うと、次の御言葉にしっかり向き合う使命を明確にされます。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
(I.ペトロ4:7〜8)

石田政美

◆エリコ、アイと侵攻したイスラエルの民は、さらに西へと進路を進めました。ヨルダン川の西側の山地に住む、ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人はイスラエルの話を聞き、協力してイスラエルに立ち向かうことを決めたのです。ところが、ギブオンの人々は立ち向かうのではなく、策略を立ててイスラエルへと近づきます。彼らは遠い国から来た人々に変装し、イスラエルと協定を結んだのです。(9:1-13)食糧を携えてきた彼らとの協定を結んだヨシュアでしたが、大きな失敗をヨシュアは犯していたのです。それは、「主の指示を求めなかった。」(14)と言うことです。

◆ヨシュアが主の声を求めなかったのは2回目になります。1度目は、アイを攻める時、斥候の話を聞き、その斥候の説明通りに2,3000人で攻め、敗れた時です。そして、このギブオンの人々の協定の時です。このヨシュアの行動は、私たちもよく行ってしまう行動です。神様に祈りながら、御心を求めながら、御言葉に聞きながら歩んでいても、時に、人の言葉によって、一般的な常識によって、経験などによって判断してしまうことがあります。ですから、たとえ自分自身の経験から来ていたとしても、私たちは主への祈り、導きを求めた上で行動を起こしていくことが大切だと思うのです。何か決断をする前に、主の前にへりくだり、これでよいかと祈っていく。これをするのとしないのでは大きな違いがあるでしょう。

◆私もこの行動を行ってしまうことがあります。判断を早くしなくてはいけない時など、焦れば焦るほど、主に祈るということを忘れてしまいます。私たちの軸はキリストであり、神様です。その軸を土台を変えてはいけません。ですから、たとえすぐに判断できたとしても、主に祈ることをしていきたいのです。「主よ、この決断で行動します。どうぞ主の御心を行ってください。導いてください。」と祈り、決断していく者になっていきたいのです。

坂西恵悟

◆木曜日は、洗足の日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りの日でした。金曜日は、受難日でした。この1週間皆さんは、どのように過ごされたでしょうか。7日には、緊急事態宣言が発令されました。これを受け、教会としても会堂での祈り会を休止する決断をいたしました。オンラインでの祈り会を継続していこうと思っていますが、そこに加わることができない方々もいらっしゃいます。その方々のためにも引き続き祈っていきましょう。

◆マルコ14:3-9は、この時期に読まれる箇所の一つです。イエス様がベタニアのシモンの家にて高価なナルド香油を注がれる箇所です。約300万円ほどの香油を注ぐ。このことは、普通の感覚では考えられません。4節にあるように、「無駄遣い」と思ってしまう行動です。

◆彼女の行動には2つの意味があります。一つは、イエスに香油を注ぐことは、イエスが救い主、メシアであることを告白していることです。メシアは「油注ぐ」という意味から来た言葉です。ですから、彼女の行動はイエスが救い主であるという信仰による行動なのです。

◆もう一つは、イエスご自身の口から仰っています。「埋葬の準備」をしたということです。ヨハネ福音書を見ると、この女性はマリヤであるとされています。この女性がマリヤならば、イエス様の話をよく聞いていたと思いますし、意味を知った上での行動でもあったと思います。

◆この時、イエス様が救い主であり、十字架の死によって罪を贖ってくださる方だと信じていたのは、この女性だけだったかもしれません。弟子たちはイエスが逮捕された時、逃げました。そして、ヨハネによると、彼女の行動を否定したのはユダですが、おそらく他の弟子たちも彼女の行動を理解できていなかったことでしょう。

◆イエスキリストが、"わたし"のために十字架にかかってくださったことをこの週特に覚えたいのです。愛を持って、罪から救ってくださった。そのために、ご自身を犠牲にされ死んでくださった。この主の愛は、ここにいた人々だけでなく、今を生きる私たちにも、同じように注がれているのです。

◆なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

坂西恵悟

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

過去の記事

ケータイサイト


記事コンテンツがケータイで見れます。
ケータイで上のQRコードを読み取りアクセスして下さい
お持ちのケータイにバーコード読み取り機能が無い場合には↓
URLをケータイに送信