◆イスラエルは、ペリシテ人との戦いに敗れ、神の箱を奪われてしまいました。奪われた神の箱があるペリシテでは3つの出来事がおきました。ダゴンという偶像が破壊され(5:2-4)、災害がもたらされ(5:6)、町の住民の間に腫れ物が広がりました。(5:9)このような結果、神の箱はペリシテの様々なところにたらい回しにされ、ペリシテ全体が恐怖に陥ったのです。触らぬ神に祟りなしの状態となったペリシテは、神の箱を返却することを決めたのです。

◆ペリシテ人は、神の箱をイスラエルに返すにあたり、何もつけないで返すのではなく、賠償の献げ物も一緒にして返すことにしました。賠償は一般的な賠償というよりも、「罪過のためのいけにえ」という意味のものになります。すなわち、彼らは自分たちが罪を犯したことを認めたのです。その罪の償いをすることによって、自分たちにのしかかっている神の手を軽くしてくれるのではないかと考えました。出エジプトの時のエジプトを例にあげ、彼らのように頑なにならないようにと考えたのです。

◆ペリシテ人は、神の手が重くのしかかっていても、7ヶ月間放置しました。神の箱に原因があると決めてそのようにしていたのです。町中から助けを求める叫び声は絶えませんでした。主の前に悔い改めるということをしなかったからです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ3:15)とあるように、私たちは主の前にへりくだり、悔い改めていきたいのです。主の御声を聞く時、心を頑なにするのではなく、忠実に誠実に御声を聞いていくものでありたいのです。

坂西恵悟

◆イスラエルで大切にされていた契約の箱。主が作るように命じられ(出エ25:10)、荒野をさまよっている時もイスラエルの真中にありました。ヨルダン川を渡った時も、エリコの町の崩壊も、この契約の箱が関わっていました。イスラエルの民にとって、見えない神を身近にとらえることのできるものとして、大切にされていたのです。

◆しかし、イスラエルはこの契約の箱を戦いの前線へと持ち出しました。これまでのイスラエルの歴史の様々な場面でキーとなっていたであろう契約の箱。箱そのものに効果はありません。主が臨在されない限り、ただの箱なのです。契約の箱によって、民の士気は高まりました。しかしそれだけでした。イスラエルの士気の高さを恐れたペリシテ人たちは、イスラエル以上に自らを鼓舞し、戦いました。その結果、イスラエルは破れ、契約の箱は奪われていったのです。

◆この敗戦の一番の要因は、契約の箱が自分たちに勝利をもたらすという間違った認識です。たしかにこれまで、契約の箱があるところに勝利がありました。神の臨在を象徴するものとして用いられるはずなので、箱そのものに力があると勘違いしていったのです。

◆この戦いをベニヤミン族の一人が報告しにきます。彼は自分の衣を裂き、頭に塵をかぶっていました。この行為は、嘆き悲しみを表すものでもありました。エリは、契約の箱が奪われたことを聞き、彼の席から落ち、首が折れて死んでしまいました。

◆イスラエルは、間違った神の臨在を求める信仰によって敗れました。悔い改め砕かれた心からの主の言葉に聞き従う信仰によって従うところに主は栄光を表してくださるのです。

◆四旬節が始まりました。イースターを迎えるにあたり、改めて私たちも主に悔い改め、イエスキリストの苦難、十字架、復活を覚えていきましょう。

坂西恵悟

◆エリのもとで主に仕えているサムエルに、主からの呼びかけがありました。彼は、エリが呼びかけているものと勘違いをし、エリのもとへと行きましたが違っていました。エリはサムエルに何が語られたのかを隠さないようにと言い、サムエルに起きた出来事を聞いたのです。エリは言いました。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」(3:18)

◆これまでに主は、イスラエルに対して言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでした。(3:1)ここで確かに主の言葉がサムエルに臨んだのです。サムエルは成長しました。主が彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはありませんでした。サムエルが主にあって、肉体的にも霊的にも成長したということです。主が共におられることは、信仰者にとって非常に重要なポイントです。サムエルは預言者としてのあゆみを進めていったのです。

◆ダンからベエル・シェバ。すなわち、イスラエル全体がサムエルを預言者として認めました。そのサムエルに主は御言葉をもって、御自身を示されたのです。

◆主の言葉によって成長、成熟していったサムエル。私たちはどうでしょうか。主の言葉にどれほど耳を傾けているでしょうか。情報社会と呼ばれる現代において、私たちは様々な言葉を聞きます。その言葉によって、私たちは、本来聞くべき言葉を見失っているのではないでしょうか。私たちは、日々の生活から御言葉を聞いていきたいのです。主の声を聞くことは、私たちの霊的成長、成熟につながっていきます。私たちは、このことを求めていく者でありたいのです。

坂西恵悟

◆祭司エリのもとで、主に仕えていたサムエル。そのサムエルに主からの呼びかけがありました。当時のイスラエルは霊的にひどい状況でした。エリの息子たちの行動からも、そのことはわかります。「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」(3:1)ともあるように、主が語られることがない状況がイスラエルにあったのです。その時代に、サムエルは主に仕えていたのです。

◆3節では「神のともし火は消えておらず」とあります。主の宮にあった燭台の火が燃え続けていたこと、イスラエルの霊的な状態にも、神のともし火が消えていないそのことを表しているのではないでしょうか。その神の宮でサムエルが寝ている。サムエルが預言者として、霊的なともし火を燃え立たせる者であることを表しているのではないでしょうか。主は、サムエルに呼びかけられました。しかも、1度だけでなく、3度もです。サムエルがしっかりと応答するまで呼びかけてくださるのです。

◆現代の私たちの社会は、イスラエルの霊的状況と同様なのではないでしょうか。主の前に悪とされることが横行している今の社会。けれども主はイスラエルに士師を召し出し、サムエルに語りかけてくださったように、この社会を生きる信仰者たちに対しても、御言葉を通して語りかけてくださっているのではないでしょうか。

◆療養期間中、御言葉を体験する機会が多く与えられました。確かに生きておられる主が、語りかけてくださっている。そのことを体験することができました。神のともし火は決して消えることがありません。私たちは、そのともし火を灯し続けることが大切なのです。

坂西恵悟

今週の一面『 蒔かれた種 』1/31  

Shin1

◆礼拝で「主われを愛す」が歌われた朝、U姉が語られたお話が心に残っています。
「小3の担任の先生は、白髪のおじいちゃん先生でした。先生がクラス礼拝で歌う讃美歌は、きまって『主われを愛す』でした。いつも目をつぶって歌う先生が『わが罪のため』の箇所になると涙を浮かべるのを不思議に思っていました」。
「先生は戦争中の軍隊での体験をよく話してくれました。きっと戦争でつらい経験を幾度もしてきたのだと思います。この讃美歌を歌うと先生の歌声を思い出します。先生がどんな思いで賛美していたのか、今なら思い描けます。先生がクリスチャンだったか、それさえも、わからないけれど、幼かった頃からずっとこの歌詞をずっと覚えていたのも、蒔かれた種のひとつだと感謝しています」。

◆クリスチャンの家庭で育ったわけではないU姉は、その後ウン十年経って、こどものつながりで知り合った友人を通して、聖書を手にとるようになり、バプテスマを受けられました。蒔かれた信仰の種が、時を経て芽を出したこの出来事に、主のご計画の深さ、広さ、大きさを思います。

◆教会にさまざまな形で招かれたこどもたちの顔が目に浮かびます。今は教会に来ていないけれど、やがていつの日か、神様が選ばれた時に、蒔かれた種が芽を出すことを信じて祈り続けます。かく言う私も幼い頃、隣家のおばちゃんに連れられて教会に行ったことがきっかけでした。その後、長いこと教会に行ったことがなかったにもかかわらず、大人になって神様の愛を知る者に造りかえられたひとりですから。
「昔 主イエスの蒔きたまいし いとも小さき生命の種
 芽生え育ちて地のはてまで  その枝を張る樹とはなりぬ」
(新生讃美歌389番)

◆会堂にこども達の声が響き、足音が聞こえる恵みを感謝します。主が備えてくださる希望の種を、共に手を携えて蒔き続ける喜びを主に捧げつつ。

西原寿美子

今週の一面「見ること」の魔力 1/24  

Shin1

◆ある予防医学書に「目について」次のようなことが書かれていた。「人間の脳と連結している神経の中で、視神経が占める割合はかなり大きい。それほど目は脳の諸機能に多大な影響を及ぼしている。目の疲労は心身の病苦と結び付く。目を酷使すれば頭痛になり、すべてのことが煩わしくなる現象もそのためである」と。

◆キリストも目と体の相関関係に言及して「目は心のあかり」(マタイ6:22)であると言っておられる。

◆人は、愛する対象を見つめるようになる。また、見つめる対象を愛するようになる。目が向かうところに心も従う。つまり「見ること」の魔力である。この魔力には、どんな強い人も立ち向かうことはできない。人間の罪も「善悪を知る木の実」(創世記3:6)を見つめることから始まった。

◆ラジオに比べテレビの影響力が大きいのは、テレビを見るときには聴覚とともに視覚も動員するからである。多くのメディアが人々の視覚を奪おうと血眼になっている。現代の戦いは、霊的戦いであり「たましいの争奪戦」である。

◆詩編の記者は「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(詩編119:37)と懇願している。

◆人は誰でも愛する対象を見つめるようになり、その見つめるものに似るようになる。クリスチャンは、主を見つめることによって主に似るようになる。視線をいつも主に集中させ、最大のストレスである罪から自由になった人生を歩もうではないか。

石田政美

今週の一面「パウロの旅路」1/17  

Shin1

◆元旦の朝、年賀状と共に贈り物が届きました。小包を開けてみると「パウロの旅と七つの教会」と題されたスケッチ集が梱包されていて、「お世話になっている友人が、コロナ禍のステイホーム中に朝晩の祈りを持って、神様の力で出版することが出来た素敵なスケッチ集をどうぞ」という友からのメッセージも添えられていました。

◆新しい一年の最初の朝、主の贈り物に感謝を覚えページを開いていくと、3回に渡るパウロの伝道旅行で訪れた町々の風景や遺跡が水彩画で描かれていて、聖書の世界がソフトタッチな3次元になって、パウロの伝道熱が伝わるものでした。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、 裸か、危難か、剣か。」ローマ8章35節

◆2021年を迎えても尚、感染拡大を続けるコロナ禍にあって、2度目の緊急事態宣言も発令され、再び礼拝に集うことが難しい状況となりましたが、むしろその社会的制約が、何者にも奪われることのないキリストの愛を際立たせていることに気づきます。
「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8章39節

◆神様が与えてくださった安らかなひとりの時間に、必要のないものを手放す勇気と、夕べがあり、朝があった順路を思い返すことができました。新しく変わっていく世界に変わらぬ主の愛とともに光を持って歩めますよう祈り続けます。

守屋まゆ美

◆2019年に80歳になり、これからどのように生きていったら良いかと思案していた時、すてきな本に出会いました。タイトルは「わたしはよろこんで歳をとりたい」(2019年度キリスト教書店大賞受賞)。

◆よろこんで歳をとる、などといえるのは、よほど恵まれた人だろうと思っていましたが、この本に出合って、とっても納得し、2020年新年に、第四の人生はこのように歩みを進めていこうと心に決めてスタートしました。

◆ところが、コロナ問題で、様々な制限が強いられる中、我家の二台のクーラーが故障し、新たなクーラーが取り付けられる8月末までの猛暑の3週間、大変厳しい日々でした。

◆クーラーが付き、ホッとした矢先、9月4日に「化膿性脊髄炎」で緊急手術、80日間の入院生活ですっかり心が萎えてしまいました。

◆「わたしはよろこんで歳をとりたい」と心に決めて歩み出しましたが、様々な出来事に翻弄された一年でした。

◆しかし、そのような辛い状態の中にあっても、主に目を注ぎ、こんな私をもなお神は愛していてくださっているのだということを強く知らされる時でもありました。

◆入院中、ヨブ記を読みました。神はどん底にいたヨブに「わたしは荒野をその家として与え、荒地をそのすみかとして与えた」(ヨブ39:6)と言われました。

◆ここが神の家、ここが天の門であることに気づかされ、よろこびの声をあげることができた2020年でもありました。

石田政美

◆新年明けましておめでとうございます。新しい1年、お一人お一人の上に主の祝福と守りが豊かにあるようお祈りいたします。新しい年を迎え、1年の歩みをスタートしている私たちですが、主の導きに感謝し、主に期待する1年にしていきましょう。

◆私たちには、価値があります。それは、キリストが私たちの身代わりとなって死んでくださるほどの価値です。その価値を持って私たちは生きています。それを私たちは普段どれほど受け取っているでしょうか。わたし、あなたという存在は尊くかけがえのない存在です。しかし、私たちは時に、すること、しようとすることにおいてキリストが命をかけるほどの価値であることを表すことができていないことがあります。生き方、立ち振る舞い、言動の自己中心、自己実現、自己満足、キリストの名を汚し、キリストの福音宣教の働きを妨げることをしてしまった時、私たちは自分自身の価値を落としてしまっているのではないでしょうか。キリストが犠牲になってくださり、私たちにいのちを与えてくださり、価値を明確にしてくださっているにも関わらず、キリストのために生きるのではなく、自分のために生きる。益を生み出すより多くの害を生み出し、人をつまずかせ、与えられている賜物を錆びつかせているのではないでしょうか。

◆パウロはフィリピの信徒に対して、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(フィリピ1:27)と勧めました。つまり神の国の生活にふさわしい歩みです。キリストによって与えられた霊によって一つとなって歩んでいく。シンプルに言うならば、「信じて生きる」ということでしょう。

◆キリストを信じて生きること。それは、キリストと共に生きることです。キリストと共に生きることは、キリストのように生きることです。キリストのように生きるとは、キリストのために生きることです。

◆私たちの存在は、イエスキリストの命という大きな犠牲を払うほどに尊い存在なのです。ですから、私たちは、そのキリストを表して生きていこうではありませんか。私たちを通して、誰かがキリストと出会い、信じることへと導かれるなら、これほど喜ばしいことはありません。そのために、私たちがまずキリストを「信じて生きる」という歩みをしていきたいのです。

坂西恵悟

◆現代社会では、子どもは"つくるもの"という考えがあります。おそらく、医学などの進歩によって、妊娠のメカニズムなどが明らかになっているからでしょう。一昔前までは、子どもは"授かるもの"と考えられていました。100%意図したとおりにならないことからも、偶然もしくは、何か大きな働きによって授かったと考えられていたからでしょう。聖書の時代は、徹底して、子どもは神様からの賜物であると考えていました。

◆エルカナとハンナの間に与えられたサムエル。彼らは喜びに満ち溢れていました。主に対して敬虔であったエルカナは、毎年主の宮に上ることを大切にしていました。サムエルが与えられてからも同じように行動をしようとしますが、ハンナはそのことを拒んだのです。ハンナは、乳離れするまでサムエルを手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたのです。

◆「三つ子の魂百まで」という言葉があります。これは3歳ごろ(幼児期)に体得した性質は年をとっても変わらないという意味です。実際、子育ての現場でも3歳までの関わりを一つの節目と考えられています。ハンナは乳離する時期、3歳ごろまで、自分の元で育てる決意をしました。サムエルは敬虔な家族、敬虔な母親のもとで育てられて行ったのです。ハンナはサムエルが主によって与えられたもの、主に委ねられたものであることを語ります。(1:27,28)それゆえ、彼女はサムエルを献げることを主に約束していたのです。

◆私たちが主によって与えられているものは何でしょうか。私たちが主に献げることができるのは、主が私たちに与えてくださっているからです。一人の祈り深い母親の信仰は、私たちの信仰者としての歩みの中で一つの模範となることでしょう。

坂西恵悟

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