今週の一面 『どちらを選ぶか』1/7  

Shin1

◆人が生きていく上で,常に『どちらを選ぶか』という行為が付きまといます。何を食べるか,何を飲もうか,何を着ようかといった軽微なものから,人生の岐路に立ってどちらを選ぶべきか大いに悩む事もあります。一日の中でどのくらいどちらにするかを選んだかを一つ一つデーターとして記録したら,何万回にも及ぶ行為をしていることに気付くことでしょう。

◆イエス様は,「何を食べようか,何を飲もうか,何を着ようかと言って思い悩むな。」と言って下さいます。(マタイ6:31)そして「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と続けてくれています。

◆何気なく今までやってきた,習慣として選んでいることも多いはずです。例えば,毎日車を運転して走る道,一日の生活の始まりから就寝までのパターンなど。思い悩むことなく選べるのであれば,それはそれで感謝です。主が共にいて下さり,一日無事に過ごせた感謝を祈りとして主に献げましょう。

◆人生の行く先を思い悩んだら。どちらを選んだらよいか迷ったなら。「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。」の御言葉の通り,イエス様であればどのように思われるかを祈り求めるべきです。そしてその結果として,「これらのものはみな加えて与えられる。」の通りになるのです。  

伊東昌彦

今週の一面 12/31  

Shin1

◆クリスマスを賑やかに祝い、年末年始を過ごすこの時期、様々な宗教の混在する日本では、元旦礼拝や主日礼拝とはいえ、「えっ?クリスマスでもないのに教会に行くの?」との疑問を持たれることも珍しくはありません。

◆つい先日の祈り会で、聖書暗誦についての学びの時があり、聖書の様々な翻訳にも触れました。現在、私達を含め多くの教会や学校で用いられている【新共同訳聖書】は、20世紀後半以降、それまで異なる聖書を用いてきたカトリック教会とプロテスタント諸派が共同して、エキメニズムと呼ばれる教会一致運動の一つの形として、世界各国で聖書の翻訳に取り組んだもので、日本でも新約のみの翻訳である【共同訳】を経て、固有名詞の原音表記主義や意訳との調整・修正を重ね、出来上がったとのことです。さらに現在も新たな進化を目指し、研究が進められており、約1年後には【聖書協会共同訳】の発行が予定されています。

◆世界の各国で同じように聖書翻訳がされてはいても、この【共同訳】聖書が日本の様に多くの教会で実際に用いられている国は、とても稀なのだそうです。宗教について、独特の文化と価値観を持つ日本であるからこそ、味わえる祝福なのかもしれません。

◆十字架上の主イエスは、ご自分を十字架につけ、ののしる者たちのために、主の赦しと救いを祈られました。

◆主によって与えられる新しい年、まだ見ぬ兄弟姉妹の救いと世界の平安を祈るものへとされるため、心を整え、明日を迎えることができますように。

末永美奈子

今週の一面『視点』12/17  

Shin1

◆マタイ17章20節あたりに、山を動かす信仰という話が出てくる。そういうものなんだ、とは思うものの、あまり現実味を感じることがなかった。そうはいっても山なんて動くわけないだろうとか、そんなに信仰深くもないしとか、思った通りになるなどご利益宗教じゃあるまいしとか、内心どことなく、そんなように思っていたところがあった。

◆ところが、私は今、このJOYチャペルで山が動き出したのではないかと思っているのである。それも、ちょっとやそっとではない圧倒的なパワーでもって動き出したように感じているのである。人の視点から見れば、JOYでの最近の出来事やこれから将来のことを考えると、混乱とか不安とか無謀とか、そう思うところもある。でも、ふと神様の視点に立ったつもりで見てみると、まるで何かの幕開けかのように、いろいろなものが一斉に進みだしているように思えてしまうのである。

◆そもそも山を動かすのは私たちではない。その目的や方法も、私たちの理解をはるかに超えるものかもしれない。私たちは、山を動かす主の働きにただただ驚くばかりで、できることは畏れをもって主を賛美することのみではないか。人は、知らず知らずのうちに、何事も自らの視点で考え、自らの思いや力で動かそうとする。その結果は知れたものだ。しかし万事を益とされる主に信頼して見ていれば、人知を超えるすばらしい方向へと向かう。山を動かす信仰とはそういうものかもしれない。

◆今年も、もうすぐクリスマス。家畜小屋でのイエス様の誕生は、世間的には全く取るに足らないことだっただろう。しかし、神様からすると、それは世の人々を救いに導く大いなる計画の始まりであった。これからJOYに起こってくる一つ一つの出来事も、どんなにすばらしいことにつながることか、主に期待してみていきたい。     

宮﨑英剛

「主よ。この人はどうですか。」...「それがあなたに何の関わりがありますか。」

ヨハネ21:21〜22

◆他の人についての神の取り扱いに干渉してはならない。忠告する権限のない事を忠告してはならない。あなたの側でなすべき事は、常に神との正しい関係を保つことである。そうすれば、他の人を祝福するために、いつでもあなたを通して、神の洞察力があなたに臨むのである。(「いと高き方のもとに」より抜粋)

◆霊的に、自分が進歩をしていないように思え、周りの人に対しても、言葉で話さずとも、良き証し人となれているのか、疑問に思う事がある。そんな時、よくよく考えてみると、自分の思いや周りの人に対して、心が奪われている事を見い出す。こんなちっぽけな心に、沢山の思いは入りきれない。ならば、少なくとも、一番大切な事だけを心に思っていたい。

◆イエス様は、私達のなすべき事は、神との正しい関係を保つ事だと示して下さっている。罪を捨て、全ての心配も、人への思いも、自分の願いも主に委ねて、このちっぽけな心を、主への思いで満たして頂こう。そうすれば、あとは神さまが最善の時に、最善をもって、豊かな祝福で満たしてくださり、私達は神に出会うと、約束されている。

「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」

申命記4:29

久田ゆかり

◆アドベント(待降節)を迎えました。教会ではアドベントから一年が始まります。新たな気持ちで主イエス様の誕生を待ち望みたいと思います。アドベントという単語は「到来」を意味するラテン語のAdventus(=アドベントゥス)から来たもので、「キリストの到来」を意味します。キリスト教においては、アドベントは人間世界へのキリストの到来、そして、キリストの再臨(ギリシア語のパルーシアに相当)と二つの意味を込めてキリストの到来を待ち望みます。

◆アドベントを過ごすにあたり、私は「キリストが来る」という意味について考えさせられます。私たちは神様に願いを祈ります。神様がすぐにでも答えてくださることを期待して...。けれども、現実には「待たされること」や「なぜ、この時に?」と私のほうでは思ってもないタイミングで神様の答えが来るのです。

◆長い間祈り願っていたことが、もう叶えられるはずがないと思っているときに「祈りは届いたよ」と言われても、すぐには信じること(受け入れる)ができないのではないでしょうか。ザカリアもそうでした。「その願いが聞き入れられた」そう言われたとき、素直に信じることができなかったのです。それゆえに彼に与えられたのは「沈黙」することでした。

◆聖書において「沈黙」の時は、「聴く」「神様との対話、自己との対話」「祈りへの備え」などの意味を含んでいます。「時が来れば実現する」(20)との神様の想いについてザカリアは深く考えさせられる時を与えられます。今、私にとっての「沈黙の時」の意味を深く思い考えていきたいと思うのです。

林 健一

今週の一面『 とりなしの祈り 』11/26  

Shin1

◆歴代誌下24章によれば、祭司ヨヤダの子ゼカルヤが、神の霊によって立ち上がり、民に向かって語った。「神はこう言われる。『あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」(歴代誌下24:20)。ヨアシュ王も民もこの言葉を聞こうとせず、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。

◆ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれをご覧になり、責任を追及してくださいますように。」(歴代誌下24:22)。私たちはこのゼカルヤの最後を読むとき思い出すのはキリスト教会の最初の殉教者ステファノのことである。彼もまた真理を語ることによって群衆から石で打ち殺された者である。

◆しかし、彼がゼカルヤと対照的なことは彼の最後の祈りが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)。という祈りであったということである。一方は自分の仇をのろい、他はその者のためにとりなしの祈りをなす。一体どこにこの違いが生じる原因があったのであろうか。確かに敵を愛し、仇のために祈るということは私たちのできることではない。あのゼカルヤのようにおのれを撃つ者に向かってのろいながら死んでいくのが私たちである。 

◆しかし、そんな私たちが、イエス・キリストを信じ、仰ぐとき、敵を愛し、仇のために祈ることができる者に変えていただけるのである。

神山 武

◆「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出て来た元の家に帰ろうと言って帰ってみると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾り付けがしてあった。そこで出て行って、自分以上に悪い七つの霊を一緒に連れて来て中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。邪悪な今の時代も、このようになるであろう。」(マタイ12:43〜45)

◆サタンは祈らない魂(家)、堕落した魂(家)の中に住み着くことを好みます。私たちがどれだけ道徳的な生活をし、実践的な生活をするとしても、イエスさまが私たちの人生の継続的な主人にならなければ、サタンはさらに悪い状態になって私たち(私たちの家)を占領するでしょう。

◆どれだけよく家(魂)を掃除しても、その家(魂)が空いていれば、必ず誰か(サタン)に占領されてしまうのです。イエスさまを信じ、その方を私の王、私の主人としなければ、サタンはもっと悪いサタンを連れて来て、もっと悪い状態にしてしまいます。

◆サタンは祈らない魂を自分の家にします。そこはサタンが住むのにとても良い環境だからです。

◆私たちの中にサタンが住み着くような要素がありませんか。私たちの魂に日々イエスさまをお迎えして、サタンに占領されないために一日の初めに、まずディボーションを!    

石田政美

今週の一面『3つの誤った前提』11/12  

Shin1

◆「子どもが生まれるまでは、ほんとうに良い妻でした。でもあの子が生まれたとたんに、伴侶ではなく母親になってしまったのです。」と言った人がいます。夫婦の間に第一の試練が訪れる。それは、親子関係が夫婦関係に優先してしまうことです。

◆夫婦関係は長いあいだ継続するが、子どもとの生活は一時的なこと、夫婦二人の関係を最善のものにしておくことが何をおいても第一のものです。

◆二つ目の誤った前提とは、子どもを家庭の中心に生きるという考え方です。多くの親たちが子どもたちの歓心を得ようと努力している。そのため家庭で子どもが王様となっている。こういう価値観の中で育った子どもには、案外自己中心なわがままな子どもが多い。私たちは子どもを家庭の中心に据えるべきではない。中心はいつも夫と妻の関係であるべきなのです。

◆第三の誤った前提は、子どもに不当な要求をし子どもに年相応以上のことをさせようとすること。たとえば、まだ人形遊びに熱中する女の子が、遠い所までダンスを習いに行かされたり、ブロック遊びの好きな男の子に本を読むのを強制するといった具合です。

◆子どもは親の願望充足の手段となり、少しでも他の人に先んじていないとという頑張りから生じる優越感や劣等感で、自尊心が傷つけられ、神から与えられた人格の尊い資質を奪うことになります。

◆三つの誤った前提にくれぐれも注意を!

石田政美

今週の一面『荒野の祝福(5)』11/5  

Shin1

◆荒野の生活が祝福である3番目の理由は、そこでは主だけを頼り、生きていくしかないからです。イスラエルの民には、食物や飲み物がありませんでした。昼には暑い太陽が照り、夜は厳しい寒さの中で過ごしました。そんな中で彼らができることは、主だけに頼ることでした。

◆私たちは、あまりにも多くのことに関心を持っています。神もその中の一つであるかのように思われます。しかし、荒野では主だけを頼るしかありません。ですから、足りないこと、病にかかっていること、苦難があることは大切なことなのです。人に頼らず、主だけを頼るようになるからです。

◆「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった。」(申命記8:3)

◆「パンだけで生きていく」とは、自分の方法と意思で生きていくことを意味します。しかし、人はパンだけで生きていくことができません。神と共に生きていかなければなりません。

◆このように荒野の生活を通して、神はご自分だけに頼る人を用いられます。裏を返せば、誰であっても、神を絶対的に頼るようになるまでは用いられないということです。

◆荒野は人生に不必要なものではなく、私たちを苦しめるだけの所でもありません。「荒野を受け入れます」と信仰によって告白し、神に用いられる人生を歩みましょう。

石田政美

◆18年前にJOYチャペルが伝道所として誕生した時は、僅か3家族で、しかも礼拝はKさん宅のリビングで捧げていました。その頃の私達は、『石田先生に牧師給が払えるだろうか?』と心配しつつも、『もし払えないことがあったら"ツケ"にしてください!後でお返ししますから...』とお願いしてスタートしたのでした。ところが、神様は牧師給だけではなく、その時々に応じて必要なメンバーを送ってくださり、礼拝の場所も、YMCAの教室⇒めぐみ館⇒新会堂と用意してくださり、たくさんの恵みや祝福を頂くことができました。

◆私たちが神様から与えられた宿題は、いつも私たちの計算ではとても無理な計画と思えたのですが、ひとりひとりが祈りの中で神様の御心を求めて一歩踏み出した時に、神様は不可能と思えた計画を実現させてくださったのでした。あるときは、神様の御心を求めて24時間の連鎖祈祷も行いました。このような、神様の恵みの御業をいくつも体験させて頂いた18年間でした。

◆ヘブル書では、『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』とあり、多くの信仰の先輩たちが信仰によって一歩踏み出していった様子が記されています。アブラハムは、信仰によって行き先も知らずに約束の地を目指して出発しました。

◆教会の成長や成熟した教会を目指す時に、神様の働かれる場を私たちがこの世の知恵や常識によって奪ってしまうことがないように心掛けたいと思います。『人にはできないが、神にはできる。(マルコ10:27)』これからも、信仰によって一歩踏み出すことにより、神様の御業をたくさん体験できる教会でありたいと願います。

澤田 猛

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