◆ミディアン人との戦いに勝利したイスラエル。イスラエルの民たちは、ギデオンとその息子、孫達に自分たちを治めるよう願いました。(8:22)民たちは、ギデオンの指導力を認めたのでしょう。けれどもギデオンの答えは、彼らの期待に応えられるものではありませんでした。イスラエルの民を治めるのは、ギデオン自身でも息子、孫たちでもなく、「主があなたたちを治められる。」(8:23)と言い切るのです。ここに、ギデオンの主への信仰があらわされます。これまでも、イスラエルの民を導いた指導者がいました。彼らは民を導いたのであって、彼らを治めていたわけではありません。主が治めている中に、指導者として立てられていたのです。

◆しかし、このような信仰を公にしていたギデオンも失敗をしてしまいます。彼は、戦利品として手に入れた耳輪を民たちから回収しました。それを集めて、金のエフォドすなわち、偶像を作りだしたのです。エフォドとは、祭司が儀式などで身に着ける宗教的な衣服です。これを自分の町に置いたのです。ギデオンの功績を残し、それに宗教的な権威を着せ、礼拝の対象としたのです。

◆ギデオンによって40年の平穏を得ても、ギデオンの死後、イスラエルは再び偶像礼拝に陥り、バアルを神とし、主に心を止めなくなってしまったのです。(8:34,35)

◆ギデオンの勝利の要因は、自分の弱さを認め、主に立ち返ることでした。一人の臆病な人が、主の選びと助けによって強大な敵に立ち向かい、勝利を得ることができました。自分の力ではなく、神の力を信じてです。しかし、彼の失敗は、神への信仰を持っていながらも、自分の力を誇示したことです。ここに、私たちが学ぶべき姿があるのではないでしょうか。私たちも主の前にへり下り、謙遜になって主に委ね、主の力を信じていこうではありませんか。

坂西恵悟

◆私はOMF待機宣教師の坂西信悟と申します。東南アジア・メコン川流域に住む、まだ福音が届いていない少数民族のところへと遣わされる予定で、現在教会巡回訪問をしています。

◆世界宣教と聞くと、遠いところで起こっていること、あるいは特別な人がする働きのように思えるかもしれません。しかし、宣教は私たちにとって身近で日常的なことです。なぜなら、私たちの主がなされている働きが宣教であり、すべてのキリスト者がこの働きに加わるようにと招かれているからです。

◆エルサレムに向かっていた主イエスは七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に遣わされました。行くのは弟子たちですが、権威も目的も遣わした方である主イエスにあります。遣わした先には、主が福音を届けたい人がいます。ここに主の愛と熱心を見ることができます。そしてこの宣教の働きは、キリストの十字架と復活、昇天、そしてペンテコステを経て、エルサレムから地の果てへと向きを変え、日本に住む私たちのところにまでも届きました。誰があなたのところに福音を携えて来ましたか?その人を遣わしたのは主ご自身であり、主はあなたに福音を届けたかったのです!そして今度は私たちが主から任命され、主が行くつもりにしているところへ遣わされます。あなたは何をするように任命され、誰のもとへ遣わされているでしょうか?

◆主は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい」と言われました。遣わされると同時に、主が見ておられるようにこの世界を見、収穫の主に祈るよう招かれています。宣教が主の働きであるならば、私たちがこの方に祈る以上に良い働きが他にあるでしょうか?

福音交友会 坂西信悟派遣宣教師

◆主の目に悪を行ったイスラエルの民。今度はミディアン人の手に7年渡されました。これまでと同様に助けを求めるイスラエルの民。その求めに応じて主は、一人の預言者を遣わされたのです。この預言者が語ったことは、イスラエルの民が犯した罪についてでした。神様の声に聞き従わなかったことを指摘されたのです。

◆主は、このイスラエルの民に一人の士師を立てられました。それがギデオンです。ギデオンは、マナセ族、アビエゼルのヨアシュの子であり、その一族は弱く、家族の中で一番若かったのです。彼は、ミディアン人を恐れて、酒ぶねの中で小麦を打っていました。これまでの士師たちとは、様子が違っています。臆病なギデオンを主は選び、士師として召し出されたのです。主は、この臆病なギデオンに対して、「勇者よ」と語りかけるのです。
主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ。主はあなたと共におられます。」(6:12)

◆「主があなたと共におられる」この言葉は、どれほどの励ましでしょうか。主の御使いによって直接言われることは、とても嬉しいことだと思いますし、励まされることでしょう。けれども、ギデオンは、その言葉に反論しました。主が共におられるなら、なぜこういうことが起きるのか、先祖が体験した神の御業はどこにあるのか、主は私たちを捨てて、ミディアンの手に渡されたと。(6:13)この反論に対しても主の応えは、「わたしがあなたを遣わす」「わたしがあなたと共にいる」と語ってくださるのです。

◆私たちは、「神がいるならなぜこんなことが起きるのか」と考えたり、訴えたりすることがあります。その中で、士師記を通して教えられることは『神に立ち返る』ということです。「主があなたと共におられる」という励ましは、神に立ち返ることでその恵みの豊かさを知ることができます。ギデオンは、困難や不安の中にあっても、主への信頼を持って、その言葉に従っていったのです。

坂西恵悟

◆バラクによってシセラは打たれ、カナンの王ヤビンに勝利しました。この戦いの後で、デボラは勝利の歌を歌ったのです。「わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって わたしは賛美の歌をうたう。」(5:3)この賛美から始まった歌、その歌にはイスラエルの民が主の目に悪を行ったことが歌われ、その罪の故にイスラエルの民が他民族よって苦しめられたことが歌われています。この中でデボラは自分自身に対して歌っている部分があります。「奮い立て、奮い立て、デボラよ 奮い立て、奮い立て、ほめ歌をうたえ」(5:12)

◆イスラエルの民の苦しみを思い、主に助けを祈り求めているデボラでさえ、「奮い立て」と歌ったのです。まるで、自分自身に言い聞かせるように。この混乱の中、主への信仰にしっかりと立たなくてはならないことを知っていたのでしょう。デボラ自身が主に信頼すること、主の確かさの中いることを確認しながら、この時を歩んでいたのです。

◆デボラは、主の助けによって勝利を得ました。そして40年に渡って平穏が与えられました。しかし、そこに至るまでの勝利は主への信仰を持ちながらも、不安や緊張があったことでしょう。それでも、主への信仰によって彼女自身が確固たる場所に立っていたと思うのです。ヘブライ人の手紙の中でも彼女たちの信仰が語られています。(ヘブライ11:32-34)

◆何が出来る出来ないではなく、神様への信仰によって行動することが大切なのです。事を成すのは神様です。神様の助けによって、神様の力が与えられて、私たちは行動していくことが出来るのです。デボラを選び、立たせた主は今も生きておられ、私たちを同じように力づけ、立たせてくださるのです。

坂西恵悟

◆エフドの死後、イスラエルはこれまでと同じように主の目に悪を行いました。主は、カナンの王ヤビンの手にイスラエルを渡されたのです。イスラエルは、ヤビンの将軍シセラによって苦しめられていました。主に助けを求めたイスラエルの人々に、主はデボラを士師として遣わされたのです。

◆神様が選ばれた士師には、条件が必要なのでしょうか。ここまでの士師たちは、それぞれの特徴がありました。オトニエルには、主の霊が臨み力強い戦いをしました。(3:10)エフドは、左利きであることが強調され、その点を有効に用いました。(3:15)シャムガルは、牛を追う棒でペリシテ人600人を打ちました。(3:31)牛追う棒は、農作業で使う道具ですから、彼は普段から農作業をしていたのでしょう。そして、デボラは女預言者でした。このように、神様が選ばれた士師は性別も職業も、おそらく年齢も異なる人々でした。神様は、その時代、その場所に必要な人を用いようとされるのです。

◆適材適所という言葉があります。一般社会の中でもこのことは意識されているでしょう。しかし、残念ながら、人間が行うには不確実な物です。けれども、神様の行われることに間違いはありません。ですから、私たちが置かれている環境や状況は、主が"わたし"を召してその場に置いてくださっているのです。

◆士師達は、主の召しを受けて立ちました。彼らがしたことは、主の声に聞き従いました。これは、士師達だけでなく、聖書に出てくる人物が行っていることです。ですから、時代も環境も違っていても、主の言葉に従い続けた信仰者たちのように、私たちも主の声に聞き従い続けていく者でありましょう。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)

坂西恵悟

◆二人目の士師は、エフドです。エフドは、ベニヤミン族の出身で、「私は賛美する」という意味の名前です。エフドの曾祖父が、ベニヤミンです。

◆イスラエルの民は、"またも"主の目に悪とされることを行いました。その結果、神様は、モアブの王エグロンを強くされ、なつめやしの町(エリコ)を占領したのです。エグロンは、18年間イスラエルを支配したのです。このイスラエルの民は、オトニエルの時代と同じでした。主への背信、主からのさばき、民の悩み、叫び、士師の登場。同じ様式でエフドは選ばれ、立てられたのです。

◆神様は、エフドを救助者として立てられました。エフドは、エグロンのもとへ行き、エグロンを討ったのです。その後、モアブはイスラエルの手によって陥落しました。イスラエルは、80年の平穏を得たのです。エフドの後には、シャムガルが立てられました。1節のみの取り扱いですが、確かにイスラエルの民を救ったのです。

◆士師によって平穏が何十年続いたとしても、イスラエルは同じことを繰り返しています。士師記は、このことを繰り返し伝えています。人間の弱さをはっきりとみることのできる書物かも知れません。私たちも同じ失敗を何度も繰り返してしまうことがあります。その失敗により主に悔い改めることを何度もしているでしょう。失敗をし続ける私たちを、主なる神様は見捨てることをなさらず、むしろイエスキリストによって、平穏を与えてくださるのです。士師記の時代は、限られた時間だけの平穏でした。けれども、今の私たちは、イエスキリストが私たちを治めてくださり、今も生きておられる主が私たちと共にいてくださるのです。その主のもとに、私たちは平穏をいただくことができるのです。

坂西恵悟

◆イスラエルの人々は、主の前に悪とされることを行いました。また、彼らは主ではなく、他の神々に仕えていたのです。その民に対して、主は怒りを覚え、クシャン・リシュアタイムの手に渡されたのです。外国の圧政によって苦しんだイスラエルは主に助けを叫び求めました。その求めに主は応じてくださり、救助者を立ててくださったのです。

◆この士師の時代のイスラエルは、主に対する背信→主の怒りとさばき→民の叫び→士師による救助。この形が何回も繰り返し行われています。人間的に見るならば、「いい加減にしてくれ」と思ってしまうところですが、主なる神は忍耐を持ってくださり、イスラエルの民の叫び、悔い改めに応えてくださるのです。

◆イスラエルの救助者として立てられたオトニエルは、カレブの甥っ子でした。オトニエルは始め「救助者」として立てられました。イスラエルを助ける者として立てられたのです。主の霊が臨んだオトニエルは、士師としてイスラエルを治めました。主の手によって、オトニエルはクシャン・リシュアタイムを抑えて40年に渡って国が平穏になりました。士師は、罪と苦難の時代に召し出され、イスラエルをさばき、治め、救助者として立たされました。士師は継承されるものではなく、時代、場所は、それぞれです。しかし、主の確かな守りと憐みが、士師を通して臨むのです。

◆士師記を見て行くと、人間の罪を繰り返す弱さを見ることができる一方で、主なる神様の忍耐と憐みを繰り返し見ることができます。主なる神は同じように、私たちに対しても忍耐してくださり、イエスキリストを救い主として送ってくださったのです。

坂西恵悟

◆2016年のリオオリンピックで、男子400mリレーが銀メダルを獲得しました。「日本人は、短距離では勝てない」という言葉が言われ続けていた中での快挙でした。その快挙のきっかけとなったのが、「バトンパス」でした。バトンの受け渡しを突き詰めたことで銀メダルを獲得できたのです。

◆クリスチャンも「つなぐ」ことがあります。「信仰継承」と呼ばれるものです。この「信仰継承」はいつの時代も考えられたものでしょう。私自身も一人の親として考えるものの一つです。成功談、失敗談は数多くあります。それは、聖書の中にもあります。エジプトを脱出し、荒野の40年を過ごし、約束の地へと入ったイスラエル。モーセ、ヨシュアがリーダーとして召しだされました。彼らと共に過ごした人々は主に信頼し、従う歩みをしていました。ヨシュアの死後も、ヨシュアと共に生きた長老たちの存命中は続いていました。

◆しかし、時間が流れ、新しい世代になった時、イスラエルの民は主に従うことをやめてしまったのです。彼らが選んだのは主ではなく、バアルなどの他の神々に従ったのです。このような民に、主は「士師」を立たせてくださいました。士師は、「さばく」や「治める」という意味があり、別の訳では「さばきつかさ」とも訳されています。士師は、イスラエルの民を「治め」、「正しくさばく」働きをしていたのです。この士師の元でイスラエルの民は、主を見続けることを選ぶのです。

◆私たちは、日々の生活の中で主以外のものに心を向けてしまうことがあります。また、主の前に罪を犯します。しかし、イエスキリストによって、私たちは主の前に正しく歩むことができるのです。私たちがつなげていくことは、イエスキリストによる福音です。この福音によって、私たちは主に従うことができ、主の豊かな祝福の中を歩むことができるのです。

坂西恵悟

◆110歳でその生涯を終えたヨシュア。彼が、イスラエルの民に最後に伝えたこと、語ったことは、主である神がイスラエルに何をしてくださったのか(23:14)、イスラエルは主に対して何をすべきなのか、主はイスラエルに何を警告しているのか、主の命令を破るとどうなるのかを23章で語りました。この24章では、主をおそれ、誠実と真実をもって主に仕えるようにと語ったのです。また、この24章は民との対話になっています。ヨシュアの問いかけに対し、民が応答する。この民の応答は、私たちの応答のモデルです。イスラエルの民のように、私たちも応答していくことが大切です。

◆ヨシュアは、イスラエルの民に真の神に仕えるのか、他の神々に仕えるのかをはっきり選ぶように勧めました。どっちつかずではありません。その問いかけに対し、イスラエルの民は、はっきりと真の神に仕えることを告白したのです。
民はヨシュアに答えた。『わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。』」(24:24)

◆民は主に仕えること(24:24)、主を礼拝すること(24:21)を選びました。主への信仰をはっきりと告白したのです。

◆私たちは、どうでしょうか。はっきりと選び取っているでしょうか。どっちつかずになっていないでしょうか。イスラエルの民が体験した主の御業は、大きな恵みでした。その主が、同じように私たちに御業をなしてくださるのです。その御業は、イエス様の贖いです。私たちは、この主に仕え、その声に聞き従うものでありましょう。

坂西恵悟

◆「聖書の登場人物で誰が一番好きですか?」という質問に対して,私は毎度悩みます。それは、自分の名前がまず浮かんでしまうからです。少しマイナーな人を挙げようとしてもやはり、授かった名前からは逃げられないようです。         

◆しかし、いまでも聖書に書かれている彼の歩みから学ばされます。モーセの生きている時代、ヨシュアはアマレク人との戦いや、カナン偵察などに登場しています。後にモーセの後任者としてエリコを打ち―約束の地カナンへイスラエルの民を導きます。

◆彼の好きなところは、彼は一貫して主の前に忠実な戦士であったことです。初めてヨシュアを知ったのは、エリコ侵略(聖書アニメ)ですが、ヨシュアはヒーローでスーパーマンだと思っていました。確かに素晴らしい戦士ですが、ヨシュアは民の指導者である以前に、主のしもべであったということを後に知りました。主のしもべであったこと、また主の約束(カナンの地)があること。それ故に○○の中でも固く主を信頼し続け、ヒーローのような素晴らしい御業を体験できたのだと思います。     

◆ヨシュアと比べると、私は不安に弱いです。勉学や、これから始まる仕事、コロナ禍など、気づけば目先の不安に捕らわれ、自分の主が神様でなくなってしまうときがしばしばです。また、気づけば問題も問題とすら認識せずに大切なことを忘れてしまうときもあります。しかし、次のような御言葉に助けられたいと思います。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネ16:33)
強く、また雄々しくあれ。...わたしはいつもあなたと共にいる。(申命記 31:23)

そして、ヨシュア記の最後に書かれている言葉にも応答するものでありたいと思います。
あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。(ヨシュア記 24:22)

澤田芳矢

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