◆ヨルダン川沿いのアダムという町で堰き止められた川の水。それにより、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることができました。ヨシュアは主が命じられた通り「部族ごとに一人ずつ、計十二人を選びだし」ました。ヨルダン川の真ん中から、それぞれ石を取り、ギルガルにその石を据えたのです。主がこれらを命じられたのは、イスラエルの民の子ども達に主がヨルダン川を渡る時に、水を堰き止め、民が乾いたところを渡ったことを伝えるためでした。そして、「地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うため」でした。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩編103:2 新改訳2017)

◆出エジプトしたイスラエルの民だけでなく、アブラハム、イサク、ヤコブも主との出会いの場所に石を据え、主を礼拝しました。イスラエルの民に対して、主が働いてくださったように、私たちにも生きて働いてくださいます。私たちは主の救いの御業を受け取りました。また、日々の歩みの中で主が生きて働いてくださる、その力強い御手を伸ばし働いてくださるところを見ています。主のなさった偉大なその御業を私たちは思い出したいのです。時に、それは"かたち"として残すことも必要かもしれません。ダビデがうたったように、私たちも「主が良くしてくださったことを何一つ忘れる」ことのないように、主をほめたたえましょう。

坂西恵悟

今週の一面 『受難節(レント)』 3/1  

管理人

◆2/26(水)は、キリスト教暦で「灰の水曜日」となります。「四旬節」とすることもありますし、「レント」と表現することもあります。どちらかと言えば「レント」という言葉の方が聴き慣れている方もいらっしゃるかもしれません。プロテスタント教会ではあまり取り上げられることが多くないのかなとも思います。これは、イースター前の6回の日曜日を除いた40日間になります。ですから、イースターの46日前の水曜日から「レント」が始まるのです。

◆「40」と聞くと何を思い起こすでしょうか。イエス様の荒野での誘惑や、ノアの洪水、モーセのシナイ山などが出てくるでしょう。聖書では「準備の期間」として40という数字を考えることもあります。カトリックでは、この「灰の水曜日」に行うものがあります。「灰」は悔い改めのシンボルとして考えられており、しゅろを燃やして作られた灰を額に十字のしるしをつけてもらう「灰の式」という式も行われます。一番の目的は、イースターに向けて悔い改めの期間を過ごすこと、つまりイエスキリストの十字架を覚え、死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備として行われるようになりました。また、この時期は求道者がバプテスマを受けるための準備としても用いられており、求道者だけでなくクリスチャンも伝統的に、祈り、断食、慈善が勧められていたようです。

◆今年は4月12日がイースターです。この日まで、私たちもイエスキリストの十字架を覚え、悔い改め、感謝する期間を過ごしていきましょう。そして、イエスキリストの復活を共に喜び祝う日を待ち望んでいきましょう。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:10)

坂西恵悟

◆エリコへ行った斥候の報告を受け、いよいよイスラエルの民はヨルダン川の岸へと到着しました。3日後、民に対して、契約の箱が先立って進むこと、その箱との間には約900mの距離を取ることを伝えました。これまで、民の中心にあった契約の箱が、民の前を進むことになります。まるで、出エジプト時の火の柱、雲の柱のように、主との契約の箱が民の先頭に立って進むのです。

◆主はヨシュアに対して、「大いなる者とし、共におられることをすべての者に知らせる」と約束され、「ヨルダン川の中に立ち止まる」ように命じられたのです。ヨシュアは主の言葉に従い、民に命じました。そして、主の言葉どおり、彼らが川に立ち止まると、川の水が堰き止められ、干上がった川床を渡ることができたのです。葦の海を渡った時と同じように、彼らはヨルダン川を渡っていきました。

◆神様の御業を見る時、そこには私たちの主への信仰が伴っています。川が干上がったのは、祭司たちが川の側に近づいた時ではありませんでした。神様の言葉どおり、足を踏み入れた時に奇跡が起きました。15節にあるように、この時期のヨルダン川は水量の非常に多い時期でした。水量が多いということは、流れも早くなっています。そのような川に足を踏み入れることは勇気が伴います。けれども、彼らは神様の言葉に従いました。私たちが信仰を持って行動する時、主に信頼し、主の言葉に従い行う時に、主はそこに大きな御業をなしてくださるのです。

「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだも当然です。」(ヤコブ2:17)

坂西恵悟

◆ヘブライの手紙、ヤコブの手紙だけでなく、マタイの系図にも名が連ねられているラハブ。彼女の信仰は新約聖書の時代にも語り継がれています。

◆イスラエルの民全員がヨルダン川を渡る前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川すぐ近くのエリコへと送りました。イスラエル人がエリコに入ったことを知ったエリコの王は、使いをラハブの元へと送りました。しかし、ラハブは二人を屋上に匿い、王の使いに虚偽の報告をし二人を助けました。ラハブはイスラエル人に起きたこれまでの出来事を知っていたのです。(2:9-11)そして、イスラエルの神こそが唯一の神であると告白しました。ヘブライ11:31、ヤコブ2:25にもあるようにラハブは、イスラエルの神、すなわちこの世界を創造され、ご支配されている唯一の父なる神を信じていたのです。結果、彼女はイスラエルの信仰者の一人として語り継げられているのです。彼女は知っていました。滅びゆく町から救われる唯一の道を。

◆私たちもその救いの道を知り、その道を選んでいます。罪によって、神様に背き、隣人を傷つけ、自分自身も傷つけながら、怒りや憎しみにより、人を裁く歩みをしていた私たち。滅びの道を歩んでいた私たちをイエスキリストの十字架によって、罪赦され、永遠のいのちを与えられました。私たちもラハブのように信仰を告白して歩んでいく者でありたいのです。
「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(2:11)

坂西恵悟

◆ヨシュア記は、後継者となったヨシュアが主の助けと導きによって、イスラエルの民と共に、約束の地カナンへと入っていき、相続地として割り当てた45年の歴史が書かれています。前半は、カナンの地での戦いが中心になり、後半は土地の分割について書かれています。

◆イスラエルの民を導いたモーセは、主の命令に従いモアブの地で死にました。(申命記34:5)モーセに代わり、約束の地へと導くリーダーとしてヨシュアが選ばれたのです。主はヨシュアに語られました。
「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」(ヨシュア1:3)

◆神様は、これからヨシュアたちが足を踏み入れる地をすでに「与える」と約束されているのです。新改訳聖書では「与えている」となっています。これから起こる、未来の出来事のことですが、神様にとっては完了している出来事なのです。ですから、この約束はすでに実現しているも同然のことなのです。神様がすでに与えると約束してくださっているからこそ、「強く、雄々しくあれ。」と語ってくださるのです。

◆私たちは、時に主が約束してくださっているにも関わらず、疑い、迷う時があります。けれども、主がはっきりと「足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」とヨシュアに約束してくださったように、私たちにも主の救いと恵みが約束されているのですから、主にあって「強く、雄々しく」ありたいのです。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:9)

坂西恵悟

◆モーセは、12部族の民に祝福の言葉を語りました。この言葉の最後に、モーセはイスラエルの民がいかに幸いな民であるかを語ったのです。主が、民の嘆きを聞き入れ、エジプトから救われ、荒野での旅路を守り、約束された祝福を与えられたのです。イスラエルの救いは、イエスキリストによって与えられている私たちの救いの雛形とも言えるのではないでしょうか。私たちもイスラエルの民のように「うなじのこわい」民です。神様の前にかたくなになり、時に神様の方を向かず、自己中心的に行動し、神様の前に不義を行ってしまいます。けれども、神様はそんな私たちを愛してくださり、イエスキリストの十字架によって救いを与えてくださいました。

◆私たちの幸いは、イエスキリストによる救いです。永遠のいのちの約束です。主は、わたしを助ける盾となり、わたしの力となります。『私たち不義なる人間を神の義が赦すために、十字架にかかってその義を全うして下さった。 (中略) もし破れ去ったとしても、あるいは律法を守る事が出来ずにそこで傷ついたとしても、神への誠実がその律法を全うさせるのである。』(松村秀一師) イエスキリストの十字架は、私たちが何度罪を犯したとしても変わることない救いへの道です。主の前に何度も悔い改めて、主のもとへと立ち返っていきましょう。主を愛し続ける誠実さを持ちましょう。私たちの一番の祝福は、イエスキリストによる救いです。この祝福を日々感謝して歩んでいきましょう。
「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。」

坂西恵悟

◆神様から語られた言葉をイスラエルの民に全て語ったモーセ。そのすべてを語った後、最後の言葉を語りました。律法を守ること。子どもたちに命じること。そして、この言葉はむなしい言葉ではなく、命であること。民に対して語る最後のこの言葉は、私たちにとっても大切なものです。

◆クリスチャンとして生きていく中で、聖書の言葉は私たちの血であり肉です。土台です。様々な表現ができますが、御言葉がなくてはクリスチャンとして生きていくことはできません。なぜなら、御言葉が私たちを成長させていくからです。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)

◆御言葉によって、私たちの行く道を示され、御言葉によって養われていく。御言葉によって、イエス様と出会い、罪を突きつけられ、悔い改める。救いの喜びと確信が与えられる。

◆世の中の価値観は時代と共に変化します。しかし、神様の言葉は永遠に変わることのない真実です。この御言葉を命の言葉として受け取っているでしょうか。モーセはイスラエルの民に、御言葉によって約束された土地で長く生きることができると語りました。私たちの最終的な目的地は天の御国です。御国を待ち望みつつ、この地での歩みを進めていくために、私たちは命の言葉を受け取り続けていきましょう。
「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって 呼ばれている者です。」(エレミヤ15:16)

坂西恵悟

◆ヨシュアを新しいリーダーとして立てた、モーセとイスラエル。神様はモーセに対し、最後の言葉を伝えました。ヨシュアと共に臨在の幕屋に行き、ヨシュアに任務を授けられたのです。(14節)その臨在の幕屋で神様はモーセに対して語られました。そして、そのことは32章のモーセの歌として残されていったのです。臨在の幕屋でモーセに語られた言葉は、神様の赦しと愛が表されている言葉でした。

◆モーセが間も無く死に、イスラエルの民が約束の地へと入った後、彼らは神様との約束を破ってしまうこと。(16節)その行動により、神様が怒り、民に多くの災いや苦難が襲い掛かること。(17節)「この歌」をイスラエルの民に対しての証言として与えること(19節)を語られました。

◆神様は、イスラエルの民が約束の地に入ったあと、どのように行動するのかをご存知でした。彼らが神様に対して不義を行うことを。それでも、神様はイスラエルの民を完全に見放すことはなさいませんでした。そこに神様の愛が表れています。確かに、イスラエルの民は、災いと苦難を経験します。しかし、都度彼らは神様のもとへと戻ることのできる道が用意されているのです。悔い改めて、神様の前に義とされるように道を備えてくださっています。

◆失敗するとわかっていることをさせる人は基本的にいないでしょう。失敗するとわかっているのであれば、事前に声をかけ、アドバイスをすると思います。神様も「歌」を通して、イスラエルの民に教えてくださいました。それでも、彼らは不義を行ってしまった。そこに私たちの本質的な罪があるのです。ですから、神様の言葉を謙虚に受け取り従うことが大切です。神様の赦しは変わりません。私たちが神様の前に誠実であることが大切なのです。

坂西恵悟

◆モーセは最後に自らの後継者について民に語りました。モーセ自身が120歳であり、務めを果たすことができないこと、神様から約束の地に入ることができないと言われたこと、ヨシュアを新しいリーダーとして立てることをイスラエルの民に語りました。

◆リーダーが変わることは、そのグループに大きな影響を与えます。前任のリーダーの期間が長ければ長いほどその影響は大きくなっていくでしょう。私たちの生活には比較することが根付いています。モノとモノ、人と人などを比較します。それは今の私たちだけでなく、昔も同じだったでしょう。カインとアベルの間にもその比較があったからこそ、あの事件が起きてしまったのです。リーダーが変わるということはその比較が必ず行われます。ヨシュアにとって、とてつもないプレッシャーだったと思いますし、イスラエルの民の中に不安もあったことでしょう。けれどもモーセが語ったことは違っていました。イスラエルの民に対しても、ヨシュアに対しても同じことを語りました。
「強く、また雄々しくあれ。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」

◆モーセは、真のリーダーは人間ではなく神様であると語りました。「神様が共におられ、神様が導かれる。だから強く、雄々しくありなさい。恐れることもおののくこともない。」とモーセは語ったのです。この姿は、神様に対し、全幅の信頼を持って歩む信仰者の姿を見ることができます。

◆私たちの人生にも様々な変化があります。道半ば、志半ばで諦めなくてはならないこと、これから大きな一歩を踏み出そうとすることなど様々です。その歩みの中で、私たちと共にいてくださる主を信頼していくものでありたいのです。

坂西恵悟

◆新年明けましておめでとうございます。新しい1年、お一人お一人の上に主の祝福と守りが豊かにあるようお祈りいたします。新しい年を迎え、1年の歩みをスタートしている私たちですが、主の導きに感謝し、主に期待する1年にしていきましょう。

◆モーセは、申命記で何度も主の掟と法、戒めを守るように命じました。その内容は多岐に及んでいますが、その中でも大切にしていたことは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)でした。このことはイエス様も大切にされています。

1. 主が私たちの必要を備えてくださる。(申命記11:8b-11)
 神様はイスラエルの民に備えられた土地は、「天から降る雨で潤されている。」と約束してくださいました。私たちの歩みの中での必要も、主が確かに備えられています。その中で大切なことは、その恵みを受け取る準備も必要になると言うことです。雨が降れば作物が育つのではなく、土地を耕し、種を蒔くなどの働きが必要になります。そこに雨によって作物が育っていく。
私たちの働きも必要になってきます。その働きのための必要も主は備えてくださるのです。

2. 主はわたしに御心をかけてくださる。(申命記11:12)
 神様はイスラエルの民を約束の地へ導かれるだけでなく、その後も御心にかけ、目を注いでくださる約束をしてくださいました。イスラエルの苦役の叫びを聞き、御心に留められた主が、一人の少女であったマリアに目を留めてくださった主が、『わたし』に御心にかけ、目を留めてくださっているのです。

3.全身全霊で主を愛する。
 私たちの必要を備えてくださり、御心にかけてくださる神様に対して、私たちがすべきことは、全身全霊で神様を愛することです。モーセが何度も語り、イエス様も大切にされたこと。このことを私たちも行っていくものでありたいのです。

坂西恵悟

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