今週の一面『力の祈り』3/26  

Shin1

3月14日(火)午後、私は、「相鉄線沿線なかよし牧師会」に出席しました。会場は、City Vision Glory Church(旭区上川井町)で、和食ファミリーレストランを買い取って改築した教会です。決して交通の便が良いとは言えない場所にあるにもかかわらず、礼拝出席人数が平均150名と聞き、驚きました。
 牧師会では、各教会の近況報告や証しを分かち合うとともに、一つのテーマに基づき学びをします。今回はCVGCの増田先生が「祈り」をテーマに発題されました。私は「祈りの実践」について神学校では学びませんでしたので、今回の学びは自分にとって大変重要な学びとなりましたので、以下、紹介します。

 「力の祈り」には、3ステップがある。
取り除く祈り
神様と私たちとの間を隔てている罪を先ず取り除く。
❶悔い改めの祈り...思い起こされる罪を告白し、悔い改める。
❷へりくだりの祈り...自分の弱さを認める。自分の心の王座を神様に明け渡す。
❸魂肉の障害要素を取り除く...心の傷、怒り、恐れ、疑い、心配、傲慢、自己中心、プライド等は、悔い改めるだけではなくならないので、神様の力(イエスの血潮、イエスの御名、聖霊の火)により外に出さなくてはならない。

聖霊に満たされる祈り
咎が取り除かれた心に聖霊をお招きする。黙想しながら、聖霊のご臨在を肉的に、霊的に、そして、心で感じるように集中して祈る。

聞かれる祈り
 言った通りになるとの信仰。自分の祈り(言葉)ではなく、聖霊が代わりに祈ってくださると感じながら祈る。「...なりますように」ではなく「...なれ!」と祈る。具体的、現実的なことを詳細に祈る。

※以上のようなステップで、一日20分以上祈ることが大切です。
 私は日々実践していますが、心がスッキリし、何よりも神様の前に素直になれるような気がします。心からすべての咎を取り除いていただき、聖霊で満たしていただき、聖霊によって祈る。こんな習慣が身につけば、私たちの信仰はより純粋なものになるでしょう。毎日できなくても祈りは積み重なりますから、諦めずに自分のペースでやってみてはいかがでしょうか。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1,2)

松﨑 準

今週の一面『複眼で見る』3/19  

Shin1

◆ある牧師が、大きな悩みをかかえた会員に牧会していました。牧師はこの一人の人に大変精力を注いでいるのを聞きJ牧師が次のように語られました。

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「牧会では、どうしても、一人へ傾く。時にそれが他の99匹にとって不公平と思えるほどの偏ることもある。これは『いと小さきものへの集中』なのです。」言われた牧師は、残念そうに『実は、今深刻に悩んでいるのは、自分が関わっている人ではなく、その人の配慮者の方なのです。』と。牧会者は全知全能ではない。どうしても一人に集中せざるをえない。でも、その集中が妥当なのか、吟味する複数の眼が必要なのです。
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◆万人祭司・共同牧会という事柄の一側面は、この「複眼で見る」という視座に立った教会形成を目指すということであると思います。

◆福音書は4つ私たちの手元に残されています。聖書自体が一つのイエス・キリストの出来事を4つに「複眼で見」ているのです。あるいは聖書は66巻あります。聖書自体が66通りの傾きで私たちに迫り、私たちを牧会し続けて下さっているのです。

◆聖書に立つ信仰に生きる私たちは、複眼で見て一つの事柄を判断し、一人づつが、一人づつに傾く。その時、多様性における一致、「キリストの体」が下から形成されるのではないでしょうか。(I.コリント12章参照)

石田政美

 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」
(Ⅰコリント12:12)とパウロが語っています。
「体」=「教会」、そして、「部分」=「私」です。体にとって一部分でも欠けたら困ります。
また、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)とあります。小指の先をちょっと怪我しただけでも体全体に力が入らなくなることがあります。でも、治れば体は元気になります。これが、本来あるべき教会の姿だとパウロは語っています。
 「教会を構成している『多様な一人ひとりの尊重』は、バプテストの教会形成における命でありエネルギーです。しかし、その多様な一人ひとりがキリストの福音を体現する『一つの体』を形作っていくために、どこで『一致』していくのか。牧師の強力なリーダーシップや戒めの遵守で『一致』をつくるのではなく、『多様な一人ひとり』が聖書を開きながら、『キリストを必要とし、他者なしに生きえない自分』を見出してゆく、祈りの深まりと成熟、試行錯誤のプロセス(途上)に教会の『一致』は与えられていくのです。」(『いま、バプテストを生きる』)
 イエス様が弟子たちの足を洗うことを通して(ヨハネ13章)、示されているように、私たちも互いに足を洗い合い、洗われ合う。すなわち、お互いの意見を聞き合い、赦し合い、仕え合い、そして、愛し合う。そのような謙遜が今、教会(私たち一人ひとり)に求められています。イエス様の教会には、私たち一人ひとりが無くてはならぬ大切な存在です。

松﨑 準

◆2月23日(木)~3月2日(木)の一週間、アメリカ・ノースカロライナ州ラーレーを訪問させていただきました。24日(金)家庭集会、25日(土)役員会・礼拝出席(南部バプテスト連盟サミット教会)、26日(日)主日礼拝・愛餐会、27日(月)ラーレー市内視察・教会員との面接、28日(火)ラーレーファーストバプテスト教会英語部スタッフとの面談・サテライト日本人集会(フェイアットビル)、以上のようなスケジュールでした。限られた時間の中で健康も守られ、非常に有意義な時を過ごすことができ感謝でした。

◆ラーレー日本語バプテスト教会(ダウンタウンのど真ん中)は、サテライトの働きとして、ラーレー周辺にある3つの教会に出掛けて行き、月に一度集会を持っています。最終日に、私はその内の一つであるフェイアットビル日本人集会を訪問しました。その町は、ラーレーの中心地から車で一時間半程南にあるフェイアットビルという軍人の町で、ノースカロライナ州の中で最も治安の悪い町の一つです。こんなところに日本人がいるのか?と思いましたが、教会に入ってみると、多くの年輩の日本人女性たちが集まっていました(35名参加)。彼女たちのほとんどが軍人の妻です。

◆一人一人と握手をしながら挨拶をしたのですが、それだけで涙を流す方もおられました。一曲でも多く日本語で讃美歌を歌いたい。日本語のメッセージを聞きたい。そんな彼女たちの気持ちが伝わり、胸にグッとくるものがありました。イエス様が私に先立ってこの集会の中におられる!だから自分もここに来るんだ!という思いになりました。ご高齢の方々に寄り添いつつ共に福音を分かち合うことがこの集会に必要な働きです。

◆この他、ラーレーから車で2時間半程北東にあるグリーンビル集会は、子ども連れの家族が多い集会です。また、ラーレーから車で2時間程東にあるゴールズボロ集会は、ほとんどが未信者です。そして、ラーレーから車で2時間半程南西にあるシャーロットの日本語教会は来年から無牧師になります。それぞれの場所で日本語での宣教の働きが求められています。自分が何をどれだけできるか分かりませんが、ただただ主に目を注ぎつつ、主の後に従いたいと思います。   

松﨑 準

◆Aさんはよく朝食を抜きます。忙しい時は、昼食を抜くことさえあります。なぜでしょうか。それは仕事や打ち合わせが、三度の食事よりも大切だと考えているからです。「人は、自分がもっとも大切だと思うことには時間を作ります」。

◆Bさんは毎朝、静思の時(ディボーション)を持って1日が始まります。なぜ続けることができるのでしょうか。「それなしに生きることはできない」と心から確信しているからです。

◆聖書に登場する偉大な人物に共通することがあります。それは彼らが、神と個人的に時間を過ごし、神と親しくなったということです。ダニエルは一国の大臣でしたが、「日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝して」(ダニエル6:10)いました。モーセは、祈りの人でした。友と時間を過ごすようにして神から知恵と力を得て、40年間200万人のユダヤ人を導いたのです。

◆イエス様は宣教活動を始めた頃、朝早くまだ暗いうちに起き、祈るために寂しいところによく行かれました。それはこの時間が、もう少し長く眠ったり、病人を癒したり、説教したりするより重要だからでした。

石田政美

◆イエス様当時の人々にとって、身近で最も大きな動物はらくだでした。そして、針の穴は最も小さいものでした。大きならくだが小さな針の穴を通りぬけることなど絶対に不可能です。不可能であることが「まだ易しい」と表現されるほどに、金持ちが神の国に入るのは難しいということをイエス様は強調して言われたのです。これは、私たちが金持ちかそうでないかを問うているのではありません。

◆神の国に入る門というのは、私たちがあれもこれも両手に抱えてその門を通り抜けようとしても、両手の荷物が引っ掛かって通れないような門です。どんなに大切な物であっても一旦その門の手前で手放さなければ、その門の向こう側で待っておられるイエス様のところに行くことはできません。また、一旦手放した荷物が気になって未練がましく後ろを振り返ってばかりいたら、イエス様と共に歩いていくことはできません。

◆イエスがこの金持ちの人に言いたかったことは、「永遠のいのちとは、行いによるのではなく、イエス自身を信じることにある」ということだったのです。しかし、「行い」と「所有」を握りしめていた彼の手は、自分の目の前に伸ばされたイエス様の手を掴むことができなかったのです。

◆私たちは今、両手にどれだけの荷物を抱えているでしょうか。イエス様に従おうとするときに、その沢山の荷物を手放すことはできるでしょうか。イエス様は、慈しみの目で私たちを見つめ、手を伸ばし、「わたしに従いなさい」と招いておられます。

松﨑 準

◆先日ある牧師のエッセイを読んで大切なことを教えられました。以下、引用します。

「牧師が専念しなければならない仕事は何かと言えば、『神様の御言葉を聴き、語ること。そして、祈る(礼拝)こと』(使徒6:4)と聖書にあります。そこで私は、普段は適当な人間なのですが、神様の御言葉と礼拝については、ついつい完璧主義に陥りがちになります。しかし、実際には完璧なメッセージを語ることや完璧な礼拝をお献げすることができたことはありません。
 そんな私にとって、先日目から鱗が落ちるような言葉に出あいました。
『許すのは大切なことだが、何を許すのか。それは、自分や他の人が神(完璧な存在)ではないことを許すのです。』
 『できる限りのことをしたい。できるだけ正しくありたい。』そう願うことはとても大切なことです。しかし、そう願う気持ちが強すぎると、私たちは自分に対しても、人に対しても、厳しい態度で接するようになってしまいます。そして、人に必要以上に厳しく接するとき、私たちは自分が神(世界の中心)になってしまうのです。よく『人の良いところを褒めて育てることが大切』と言われていますが、なぜそれが大切なのかというと『人は神ではない。しかし、神様が死ぬほど愛しておられる貴い存在』だからです。
 寒さで顔が引きつり易い季節ですが、笑顔になってほっこりしましょう。」(中原康貴牧師『風の便り』より)

◆今日は礼拝後に、臨時神の家族会が持たれます。お互いがお互いに完璧を求めるのではなく、自分も相手も完璧な存在ではないことをお互いにゆるし合いたいと思います。
「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:22)

松﨑 準

◆「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか...」(2節)という言葉は、イエス様が十字架につけられた時に、その苦しみの中で叫んだ言葉であると言われています。イエス様は十字架で神から見捨てられるという絶望を味わいました。

◆しかし、この詩編は、イエス様の十字架より千年も前に歌われたものです。ダビデは、神から見捨てられたかのような苦しみを味わいました。サウル王に命を狙われ、荒野をさまよった時もそうでした。また、息子アブサロムに王位を奪われた時もそうでした。このダビデの生涯というのは、王であったにもかかわらず、人々から裏切られ、見捨てられるという苦しみの連続だったのです。それはまるで、神の子であるはずのイエス・キリストが受けた苦しみと重なるように思われるのです。

◆例えば、17節~19節に、「犬どもがわたしを取り囲み...わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とありますが、この「犬」とは異邦人を意味します。イエス様を十字架につけたのはローマの兵士、つまり、異邦人でした。そして、彼らは実際にくじを引いてイエス様の衣を分け合ったのです。

◆ダビデは耐えがたい苦しみを受けましたが、その後、王として復帰し、イスラエルの繁栄を受けることが出来ました。それ故、この苦難の詩編の最後は、主への高らかな賛美で終わっています。つまり、たとえ神に見捨てられたかのような試練があっても、必ず回復の賛美で終わるということを、この詩編は教えているのです。ダビデも主によって苦しみから引き上げられ、回復され、主を賛美しました。イエス・キリストも十字架の苦しみの後に、復活の栄光をお受けになりました。苦しみの後には、復活の栄光がある。これは神の法則です。ダビデは「絶望から信頼」を体験したのです。そして、イエス様ご自身も体験されました。そして、今度は、私たちイエス様を信じる者が体験する時なのです。

松﨑 準

◆昨年11月、天城山荘において、小林洋一先生(西南学院大学名誉教授)の旧約学セミナーがあり参加しました。三日間の講話と分かち合いを通して、私は、魂が聖められる思いでした。
講話の中で先生は、詩編86編から、「神の本質について」語ってくださいました。
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。」(詩編86:15)

◆神は最初から最後まで、人との関わりが一貫して変わらない真実な方である。神は、人が道をそれることのないように、預言者たちに裁きの預言をさせているが、救うために本当に人と関わってくださる。

◆ヨセフ物語(創世記37~50章)の中で、ヨセフは数奇な運命を辿るが、神はどんな事も良きに変えてくださる方であることが聖書で証しされています。

◆私たちの人生には「どうして」、「なぜ」という出来事が次々と起こるが、最後には、神は天国へと導く道を備えてくださる方なのです。今日、世界各地で様々な動きがありますが、今後も主に希望をおいて主を賛美し、主を信じて従っていきましょう。

神山 武

◆詩編第1編は、詩編150編全体の序文として置かれています。つまり、詩編第2編から第150編までがこの詩編第1編にギュッと凝縮されているということが言えるのです。その証拠に1節の最初の「いかに幸いなことか」の「幸いなことか」という言葉はヘブライ語でアシュレーと言い、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字アーレフで始まります。そして、6節の最後の「滅びに至る」の「滅びる」という言葉はヘブライ語でトベードと言い、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字タウで始まります。これは、詩編の最初から終わりまでのすべてを要約的に一つにまとめることによって人間の人生全体を包括的に表しているということなのです。詩編第1編の著者は二つの道(義の道と悪の道)を比べて義の道を歩むように勧めています。

◆2節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とありますが、このような歩みこそ、義の道を歩むクリスチャンの理想的な人生と言えます。私たちの心には、イエス様を信じていると言っても、「悪い思い」や「罪の性質」は出てきます。主が私たちをご自身の栄光の姿と同じかたちに変えてくださるまでこの葛藤は続きます。しかし、二つの道のうち、「義の道」を選びとって歩むようにすることはできます。そのように歩む人は幸いだ、と聖書は告げるのです。

◆では、どうやってそのように歩むことができるでしょうか。それは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」ことです。「昼も夜も」とは一日中、という意味もありますが、昼のように人生が順調な時も、夜のような試練の中にある時も、という意味もあるでしょう。

◆「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2)とあるように、昼も夜も、時が良くても悪くても、御言葉を心に留める人は、やがて豊かな実りが与えられるのです。

松﨑 準

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