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今週の風景 No.558  

管理人
スッキリ晴れた日曜日でした。
「はじめの一歩」は、神様の働きによって助けられることを信じてまず祈ること。
気分もスッキリしました。

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「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)

◆教会の目的③は、大宣教命令です。
新約聖書の四福音書すべてに共通して、書かれている弟子たちを派遣するシーンです。この派遣ののち、弟子たちは各地で宣教を行いました。(マルコ16:19)福音書ごとに表現は違っていますが、「福音を宣べ伝えること」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「証人になること」が書かれています。この大宣教命令から2000年ほど経ち、今の私たちまでつながっているのです。「伝道」「宣教」と聞くとなかなか一歩踏み出すのが難しいです。日本においては「外国の宗教」であるからこそ、難しさを覚えるでしょう。このような中、私たちはどのように伝えれば良いのでしょうか。

◆1.救われた喜びの中で生きる。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

(ルカ1:46,47)

救われた時の喜び覚えてますか?その喜びの中で今生きていますか?私たちがその喜びの中で生きる時、そこに主は確かに働かれます。生き生きしている人と、生き生きしていない人どちらに惹きつけられますか?生き生きしている人だと思います。24時間365日生き生きすることは難しいです。でも、何かあったとき、何気ないときに救われた喜びの中で生きることにより、周りの人への良い影響を与えるでしょう。そこからキリストを伝えるチャンスがあるのではないかと思うのです。

◆2.クリスチャンであることを"自然"に知ってもらう。
私たちがどんなに生き生きして、魅力的な生き方をしていても、その理由を知ることができなければ他の人には伝わりません。ぜひ、会社で学校で友人関係の中でクリスチャンであることを知ってもらってください。そこから伝道は始まります。

大宣教命令②に続く

坂西恵悟

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)

◆教会の目的②は、一つの所に集まることです。新約聖書において教会は「エクレシア」と訳されています。元々は、「呼び出された者の集まり」という意味があります。しかし、当時のユダヤ社会において、この「エクレシア」はキリスト教の集まりというより、ギリシャの議会などに使用されていた言葉でした。この「エクレシア」は招集によって市民を集め、神々への祈りと犠牲をささげることをもって始められたそうです。新約聖書において初めて「エクレシア」が「教会」として使用されたのは、マタイ16:18です。私たちが集まる所の土台、それが「この岩」です。「この岩」は新約聖書の時代においても、今の時代のおいても変わりません。では、「この岩」とは何でしょうか。それは、直前のペテロの告白(マタイ16:16)です。御子を正しく知り、それを言い表すことを基礎として、イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言いました。

◆教会は、私たちが集まりたいから集まったものではなく、神様によって集められているということを私たちは確認しなければなりません。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20:28)とあるように、イエスキリストの十字架によって一つに集められています。その中で、信じている者もそうでない者も集まり神様の前に近づく集まりなのです。

◆神様によって集められ者が神様を礼拝する集まり、それが教会の目的の一つです。神様によって集められた教会のかしらはイエスキリストです。エフェソ1:23にあるように私たちはキリストのからだです。神様によって集められた者はかしらであるキリストに従って歩んでいくのです。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

坂西恵悟

今週の風景 No.557  

管理人
今日は内藤淳一郎先生によるメッセージでした。
午後からの「按手の学び」の講師としても奉仕いただきました。

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「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)

◆教会は何の為にあるのでしょうか。福音を伝える為?隣人を愛する為?神様を礼拝する為?答えは様々だと思います。「これが答え!」という教会論を言いたい訳ではありません。多様性が求められる今日において、教会の目的や役割は多岐に渡るでしょう。しかし、様々な目的や役割が教会にある一方、変わらないこともあります。それは、イエスキリストの十字架と復活です。では、なぜイエスキリストは来られたのでしょうか。前述した聖書箇所を通して確認致しましょう

◆ルカによる福音書19章は徴税人ザアカイのストーリーから始まっています。このザアカイのストーリーの後、10節の御言葉があります。ローマ帝国統治時代、徴税人はローマ帝国の公務員でした。イスラエルの民からしてみると帝国の犬だったわけです。ただ税金を集めるだけならまだよかったかもしれません。徴税人は税金を民衆から多く取り立てて、私服を肥やしている人が多くいたことでしょう。そのようなことから、民衆に嫌われる存在でもありました。19章に出てくる人物ザアカイも同様でした。彼は、徴税人の頭で金持ちでした。(2節) また、ザアカイは民衆から罪人の烙印を押されていました。(7節) そんなザアカイの元にイエス様は食事を共にし、家に泊まることにしたのです。その結果、ザアカイは悔い改め、救いを受け取ることができたのです。

◆イエスキリストは、救いをもたらす為に来ました。それは、神様の前に罪ある者とされた私たちが、神様との関係を回復する為に、イエスキリストは来られたのです。教会の目的、それはイエスキリストがなぜ来られたのかを伝えることです。このことから教会は始まるのです。それを忘れてしまうと教会の働きとは言えないでしょう。「伝道しましょう!」と意気込むことは時に必要です。しかし、普段の生活の中でその意気込みのまま過ごすのは難しいと思います。だからこそ、日々の御言葉をしっかりと私たちのうちにとどめ、その御言葉からくる行動や発言を通して伝えていくことが必要なのではないでしょうか。御言葉にしっかり立って生きる時、私たちの「生き方」を通して、伝えることができると思うのです。

「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4:5a)

坂西恵悟

◆人には寿命があるが、教会にも寿命があるのかもしれない。先日ある教会に行った。かつては幼稚園もあり、にぎやかな教会だったようだが、今ではお年寄りばかりだという。これは少子高齢化以上に難しい状況だ。次を担う若い人がその教会に来てつながるとは考えにくく、何かしら大変革が起きない限りは、教会の寿命も尽きてしまうかもしれない。日本の多くの教会で、このようなことが起こっているのではないか。

◆人は本来保守的な生きものだろう。現状に満足して落ち着いてしまうと、それを神さまに与えられたものとして、何とか守っていこうとするのは理解できる。しかし行き過ぎると、知らぬ間に人の思いに固着して、何か新しいことをやろうにも強烈な抵抗力が働くようになる。まさに人の満足が神さまの自由な働きを妨げるのだ。こうなると、教会は硬直化し、収縮スパイラルに陥って寿命がつきることにもなりかねない。

◆果たしてJOYはどうだろうか? 少し前までは、幼いこどもたちがいないとか、中堅の30代がいないなどと、ちょっと不安に思うこともあったが、気が付けば、それらを埋めるような方々が、わさわさと集結している。また、大胆にも隣の土地も買ってしまったし、かなり若い牧師先生にも来ていただいたし、まさに神さまの自由な働きにより、春になってどんどん新しい芽が出てきて、これから大きく育っていくかのようだ。

◆教会では、私たち自身が神さまから様々な祝福をいただきたいと当然思う。しかしそれ以上に、私たちがまだ知らない次に来る方々に対して、神さまの恵みと喜びが与えられるようにすることが、教会に求められていることだろう。それによって教会もどんどん育っていくのだ。私たちが自己満足にとらわれることなく、いつまでも、神さまが自由に働かれることを喜びとする教会であるよう祈っていきたい。  

宮崎英剛

今週の風景 No.556  

管理人
GW最終日が日曜日。
礼拝に出ればGWは関係なくいつもの日曜日。
整えられて明日からのお仕事にも普通に復帰出来る・・・はず・・・。
メッセージでは兄弟姉妹隣人のために祈ることを教えられました。

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今週の風景 No.555  

管理人
本日は濱田兄による信徒メッセージでした。
原稿を自宅に忘れたことに気づき取りに戻られましたがメッセージの時間に間に合って良かったです。
礼拝後のスモールグループで、とっても良い話が聞けて元気貰った感じです!

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◆ペテロは、自分自身の弱さを持って、主の御前にありのままの姿で進み出ました。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味します。イエスさまがペテロを高く評価されたのは、自分の弱さを告白するその正直さのゆえでした。

◆「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意思が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけの者です」

◆多くの人は、自分の弱点を自分でみることができません。しかし、ペテロは自分の弱さをよく知っていました。その分回復も早かったのです。ペテロは自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出しました。そうして主はペテロの弱さを一つずつ癒し、取り扱われたのです。

◆ペテロは失敗ばかりして砕かれ、傷ついた経験をしたために、弱い人々を非難せず、愛をもって励ますことができたのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」(I.ペテロの手紙 4章8節)

◆ペテロは、あまり祈れない人を見ても、きっとこのように励ましたのでしょうか。「私はイエス様の後をついて行きながらも、祈りながら寝込んでしまった。それなのに、イエス様のお顔を見たこともないあなたが祈ろうとしているのだから、それだけでも素晴らしいことです」と。  

石田政美

今週の風景 No.554  

管理人
今日は暑かったですね!
石田牧師によるメッセージでした。
「岩の上に教会を建てる」箇所からのメッセージでした。
そういえば管理人が幼少期に広島に住んでいた場所は「岩の上」と言う地名でした。
そこで父が「岩の上キリスト教会」と言う看板を家の前に掲げて毎週土曜日に自宅で教会学校をやっていたのを思い出しました。

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