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今週の一面『心をひとつに』 11/17  

Shin1

◆11/13~15に連盟定期総会が行われました。様々なことが協議され、これからの歩みについて決議されていきました。この総会の前に行われた日本バプテスト祈祷聖会では、1泊2日の短い期間でありながらも、内容の濃い1泊2日でした。何か特別なことを行ったのではなく、礼拝と祈りと証しの時間だけです。参加されたお一人お一人の証しを聞き、御言葉と祈りと賛美によって霊的な養いをいただくことができました。

◆この祈祷聖会は、昨年からスタートしましたが、きっかけ定期総会時に行われた早天祈祷会です。「聖書信仰に立ち、聖霊を求め、日本のリバイバルを求めて祈る。バプテスト本来の信仰の源流に立ち還る。日本バプテスト連盟加盟諸教会の祝福をとりなし祈る。イエス・キリストを証しし、宣べ伝える。」という目的でスタートした祈り会です。

◆昨年初めて定期総会に出席した時、全国の教会の牧師、信徒の方が集まっているのに、教会での恵みの分かち合いや祈り合いがないことに残念な気持ちになっていました。もちろん、大切なことを話し合っていますが、せっかくの機会がもったいないなと思わされたのです。そのような中、早朝に集まり祈るこの会は、憩いの場所となりました。

◆志を同じくする牧師や信徒の方々と、心を合わせて祈る。教会内で行われていることが教会を超えた交わりの中で行われていることに非常に励まされました。是非、この祈りの輪に加わっていただきたいと願います。
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」ガラテヤ6:14

坂西恵悟

◆イスラエルの民に再度、十戒を語ったモーセ。モーセは続けて、"主"がどのような方なのかを語りました。イスラエルはいつも異教の神に囲まれていました。アブラハムは月神信仰の地で育ち、エジプトでは様々な神がおり、約束の地には異教を信じている人々が住んでいる。このような状況を目の前に、モーセは再度 "主"がどのような方なのかを語ったのです。

◆モーセが語った"主"、それは「唯一の神」です。「ただ一人の神」です。このことが何よりもイスラエルの民の中ではっきりと知らせるべきことでした。またこのことは、申命記全体を通しても一貫して語られていることでもあります。

◆神様から大切な啓示を受けたイスラエルの民に、唯一の神を愛することが教えられています。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
(申命記6:5)
この言葉はイエス様も大切にされた第一の戒めです。神を愛することが、神様への応答となるのです。この4,5節の言葉が土台となり、6節以降では、信仰継承の広がりが語られています。「神を愛し、隣人を愛する」ことは、親から子、子から孫へと世代を超えて継承されていくのです。

◆私たちもこのことを大切にしていくことが必要です。何よりも、まず主が「唯一の神」であることを認め、その主を愛す。この神様への応答を私たちが行っていくことが大事です。普段の生活の中で、どれほど神を神とし、愛することができるのかを確認しているでしょうか。神を愛することを次世代に伝えていくことができているでしょうか。私たちは気づくと人中心になってしまいます。もちろん大切なことですが、イエス様も教えてくださっているように、モーセの時代から大切にされているように、まず唯一の神を愛していきましょう。

坂西恵悟

◆申命記4章は、申命記全体を要約している箇所とも言えます。モーセは1節において「今」にフォーカスを当てています。
「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」(4:1)

◆3章までの荒野の旅が、ただ過去のもので終わるのではなく、目の前に広がっている約束の地がただの将来ではない。過去と今、今と将来はつながっているものなのです。モーセはこれまでの歩みを踏まえ、そしてこれからの歩みを踏まえて、「今」何が大切なのかを教えてくれているのです。それは、神様のことばを聞き、従うことです。神様のことばを聞くことによって与えられる喜びに満たされることです。このことは、イスラエルの民はもちろんのこと、今を生きる私たちにも必要なことです。

◆旧約聖書の人物エリヤは、神の山ホレブの洞穴で夜を過ごした時、神様が通り過ぎて行かれました。その時には、激しい風や山を裂き、岩が砕かれ、地震が起こり、火がおきました。その後、静かにささやく神様の声が聞こえたのです。(列王記上19:11-12)私たちの周りは様々な声があります。その中で「静かにささやく」神様の声に聞き従っていきましょう。「今」語られる、主の言葉に従っていきましょう。

◆聖書は私たちに「主こそ神であり、ほかに神はいない」ということを過去を通して示してくださっています。その過去を踏まえ、「今」を歩んでいきましょう。将来にある希望と祝福を期待していきましょう。

坂西恵悟

◆イスラエルの民は、カデシュ・バルネアを出発し、ゼレド川を渡るのに38年をかかりました。(申命記2:14)神様の約束通り、前の世代はいなくなったのです。その後、ヘシュボンの王シホン、バシャンの王オグとの戦いを終え、ヨルダン川の東側をイスラエルの民で割り当てました。

◆モーセは神様にヨルダン川の向こうの土地に行くことを求めました。しかし、神様の答えはNOでした。神様はモーセの願いを退け、ピスガの頂上から見渡すように言われたのです。モーセは、ヨシュアを励ますようにと使命を与えられたのです。

◆モーセの祈りは、ただ自分自身の願いを言い表すものではありませんでした。彼の祈りは、神様の御心を聞く祈りでした。祈りを通して、してはならないこと、しなくてはならないことを神様に聞いていたのです。

◆私たちは、計画通りに実行することが普通です。旅行にしても、1日の動きにしても、仕事にしても。学校で時間割が定められているように、様々な行事が年間行事として計画されているように、多くの計画を私たちは立てます。モーセもモーセ自身が約束の地へ入ることを願いました。神様によって召された時は、その約束の地を夢見ていたことでしょうし、自分もその恵みに預かることができると期待していたことでしょう。けれども、kそれはかなわなかった。私たちは、自分の計画通りに行かない時、落胆します。だから、計画通りに進めようとします。そこには、私たちの願いが、時にエゴが多く入っているでしょう。モーセは神様の言葉に従い続けました。自分の願いではなく、神様の御心を求めていたのです。私たちも、このモーセに習うものでありたいのです。

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:22)

坂西恵悟

◆私たちは同じ失敗を繰り返すことを良しとしません。会社の中でも、家庭の中でもたとえ失敗したとしても同じ失敗を繰り返さないように意識していくでしょう。イスラエルの民は同じ失敗を繰り返してきていました。
それは、神様の言葉を素直に信じ、信頼し、従うということができていなかったのです。このイスラエルの民の姿を見る時、私自身も同じことをしていると反省します。

◆モーセはイスラエルの民に対し「恐れるな、おののくな、うろたえてはならない」と神様が共におられること、神様の約束があることを伝え続けました。そして、その主の言葉に従い続けるよう伝えていたのです。しかし、イスラエルの民は目の前の状況にいっぱいいっぱいになり、神様の言葉に従うことができなくなってしまったのです。そんなイスラエルにモーセは、過去に神様が民に対してどのようなことをなさったのかを伝えていきました。それでも、民たちは主を信じることはなかったのです。

◆このイスラエルの民のような状況に私たちは置かれる時があります。その頻度はそれぞれですが、私たちはこの姿から学んでいくことが大切です。日々の生活の中で、神様に従うことを忘れてしまった時、主が私になさった御業や聖書やそれぞれに行われた御業を思い出していきましょう。
「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」(1:31)

◆主が私たちと共にいてくださる。主が私を背負ってくださっている。その平安の中を、導きの中を歩む者でありたいのです。

坂西恵悟

◆モーセは旧約聖書の時代に、神様に選ばれた代弁者でした。神様がモーセに語り、モーセがイスラエルの民に語る。この伝達された御言葉が申命記に要約されています。イエス様が命じられた重要な掟もこの申命記から引用されています。またユダヤ教徒が毎日唱えている「シェマー」もこの申命記に書かれていることです。(申命記6:4~9) ですから、この申命記は旧約聖書の人々にとっても、新約聖書の人々にとっても、今を生きる人々にとっても大切なことが語られている書物でもあります。

◆モーセは荒野の旅が終わる時、再びイスラエルの民に神様の御言葉を語りました。それは、神様の御業や恵みを覚えると共に、自分たちの失敗を学ぶためだったのでしょう。1:7で「向きを変えて出発し、・・・行きなさい。」と、命じられました。主がイスラエルの民の先祖の時から約束してくださった地に、主の御声に従って行くことを命じられたのです。

◆私たちは、「向きを変えて出発する」ことは極力したくないことが多いと思います。なぜなら、変化することを敬遠することがあるからです。できることならこのままでいたい、変わらずにいたいという思いが私たちの内にあるでしょう。しかし、主が語られたのなら私たちは、自分自身の計画や考えとは違ったとしても、それに従っていくことが大切だと思うのです。主が語られた先には、豊かな恵みが私たちを待っています。イスラエルの民にとって、乳と蜜の流れる地、カナンの地がまさにそれです。

◆私たちは信仰を持って、主の言葉に聞き従うものでありたいのです。主の言葉に聞き従ったとき、神様は私たちに素晴らしい御業を表してくださるのです。
坂西恵悟

◆イスラエルの民が犯した罪のために、再度神様へのとりなしを行なったモーセ。共におられることをやめる決断をされた神様に、再度共におられることを求めました。モーセのとりなしにより、神様が再び共にいてくださる約束をしてくださいました。(33:12-17)

◆モーセはその祈りだけでなく、「神の栄光を私に見せてください」(新改訳)と迫ったのです。聖書において、「神の栄光を見る」とは、"雲や火の中に神の栄光を見る"、"神の御業の中に神の栄光を見る"、"幻の中において神の栄光を見る"、"神を礼拝し、黙想している中で、神の栄光を見る"、"神の直接的な臨在を見る"が挙げられるでしょう。このように、モーセが神様のご臨在を求めるように、私たちも神様の臨在を求めることが大切だと思うのです。

◆イエス様はラザロを生き返らせる時、マルタにこのように言いました。「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」(ヨハネ11:40)

◆モーセがアブラハム、イサク、ヤコブに対して約束されたことを、守られる神様であると信じたように、私たちも聖書を通して主が約束されていることを信じる者でありたいのです。主は、私たちを見放したり、見捨てる方ではありません。今も生きて、私たちを愛し、共にいてくださるお方です。その主に信頼していきましょう。

◆モーセはその後、石の板を持って神様のもとへと進みました。その場所は、静寂な場所でもあったことでしょう。神様の造られた自然の中に静かに主を待っていたことでしょう。私たちも時に、主の造られた自然の中で静まり、主との交わりを持ち、神の栄光を待ち望みましょう。

坂西恵悟

◆イスラエルの民の罪により、神様はイスラエルの民の間におられることをやめる決意をされました。これまで、民の間におられ導いた主がいなくなることは、民にとって非常に悪い知らせでした。民は嘆き悲しみました。(33:1-6)

◆モーセは、宿営の外に「臨在の幕屋」(会見の天幕)を設営しました。主にお伺いを立てる者はだれでも、この幕屋に行きました。この幕屋は、本来ならば、宿営の真ん中にあるべきものでした。宿営の真ん中にあって共に歩むことは、神がいつも真ん中におられることの約束だったからです。その後、この幕屋はエルサレムの神殿となっていくのです。イエス様の十字架と復活の後は、イエス様ご自身が私たちの真ん中におられ、私たちが神の神殿として生きるようになるのです。

◆11節において「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」とあります。神様は、モーセと共にこの幕屋で交わりを持たれました。私たちにこの幕屋があるでしょうか。神様と顔と顔を合わせて交わりをする場を持つことができているでしょうか。ある人にとっては個室が、ある人にとっては、共同スペースの一部がその場所になっているかもしれません。臨在の幕屋になる場所を私たちは持つことが大切です。そこで、毎日何分かでも顔と顔を合わせて神と交わることが大切なのです。

◆JOYチャペルの20年の歩みは、JOYチャペルに関わられたお一人お一人がこのように主との交わりを大切にされてきたからこそ、立てあげられているのです。これまでだけでなく、これからも私たちは主との交わりを大切に、第一にしていこうではありませんか。時にモーセのように悔い改めととりなしの祈りをささげ、時に感謝をあらわす。そのような場所を私たちは持っていくことが必要でしょう。それぞれに臨在の幕屋が設けられているように、このJOYチャペルも臨在の幕屋でありたいのです。主との交わりがますます祝福されますように。

坂西恵悟

◆私は4歳のときからサッカーを習い始め、11歳まで続けました。所属するサッカークラブはサッカーチームを結成し、私もそのメンバーとして過ごしていました。監督もチームに熱が入り、練習・試合日は日曜日と重なることが増え、その度、私は選び取らされていくのでした。「次の日曜どうするの?自分で監督に言いに行きなさい。」と心に突き刺さる母の言葉に震えながら、私は監督に試合を断ることもしばしばでした。(今では母を通し、主に語られたように思える。)ある日、監督へ試合を断りに行ったとき、「次の試合を休んだらレギュラーから外す」と言われたのです。嫌な予感はしていたものの、監督の言葉は一生懸命努力していた自分を振り落とすような言葉でした。板挟みのような状態で、天秤にかけることもできずに葛藤し、悩み、祈っていました。幾日か経ち、主に後押しされ、吹っ切れたかのように心が軽くなった私は、礼拝を選び取りチームをやめました。

◆サッカーをやめた私に、主は賛美の賜物をくださいました。濱田さん、桐本さんからギターを習い、何もできない状態で私は礼拝の前に立たされたのも覚えています。そこから私は、楽器奉仕のメンバーに支えられ(ときには鍛えられ)ながら、賛美の内で主と交わることを学びました。私にとってギターを持ち、楽器によって主に賛美を捧げる瞬間は、どんな音楽をするときにも勝る喜びがあります。

◆その思いから導かれ、今はLIMSという賛美グループで活動しています。詩編22:3にあるように賛美の内に住まわれる主を喜びとする空間に、自分も存在する瞬間がとても居心地が良いのです。また、それぞれの教会で捧げられる賛美に携わる人たちと共に分かち合うことができ、励まされています。

◆あらゆる場面で、主から選び取るときが与えられます。選び取るとき、その選んだ先にある祝福を求めて歩みたいと願っています。

「信仰の道をわたしは選び取りました。」(詩編119:30)

澤田芳矢

〜 出エジプト32:7-14 〜

◆モーセがシナイ山で神様に出会っている時、イスラエルの民はアロンに神を造るよう訴えました。そして、彼らは金で子牛の偶像を造り、それを拝み、像の周りで飲み食いし、立って戯れたのです。(32:1-6)この様子を神様はご存知でした。イスラエルの民の愚かさに怒りを覚えられた神様は、彼らを滅ぼすことを考えたのです。

◆私たち人間は、神様からの恵みをいただいた時、その瞬間は喜びと感謝であふれますが、すぐにその恵みを忘れてしまうものです。イスラエルの長老たちは、神様の声を聞き、共に食事をしていた(24:11)にも関わらず、神様の前で、彼らは偶像を造り、そこで飲み食いをしていたのです。神様はイスラエルの民を「かたくなな民」と言いました。「かたくなな民」という言葉は、もともと、手綱に逆らおうとする牛や馬に用いられていた言葉です。神様という飼い主が引っ張っているにも関わらず、それに逆らってしまっているのがイスラエルの民なのです。

◆この姿は、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。神様が私たちの歩みを導いてくださっているのに、自分たちの思うように動き、イスラエルの民のように手綱に逆らってしまうことはないでしょうか。

◆神様の怒りに対し、モーセはイスラエルの民のためにとりなしました。モーセが必死にとりなした時、神様はその怒りをおさめられました。モーセのとりなしは、神様の御心にかなうものだったのです。モーセの必死のとりなしがイスラエルの民を救ったのです。私たちもモーセのように、とりなしていくことが大切です。家族のため、友人のため、地域のため、日本のため、世界のためと神様に対し、「かたくなな民」のためにとりなしの祈りをささげていきましょう。

坂西恵悟

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