礼拝の喜び(2)

管理人

◆JOYチャペルは、「礼拝の喜び」の教会です。9年前、礼拝を捧げることができた時の
感激が今日も続いています。この9年間で「神の家族」として集められたメンバーはみ
んな、失われかけていた礼拝の場所がこのJOYチャペルで与えられて、そこに喜びを共
有しているのです。

◆イスラエルの民がバビロン捕囚から故郷に戻って来て、ゼロの状態からもう一度出発
しようとした時、最初に手がけたのが礼拝の場所(神殿)を築くことでした。「神の民
は、礼拝によってであればどんな廃墟からでも立ち治ることができることを信じてい
たのです。」(8/24巻頭言参照)。

◆パウロは、「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」(II.コリント6:10)と語っ
ています。「悲しんでいるようである」状態は、この世界の中にさらに続行するでしょ
う。悪や罪の現実、試練と人間の無力、過酷な現実はあり続けるのです。

◆そうしたなかで唯一の希望は、キリストの犠牲による神の救い、神との和解にありま
す。キリストの御生涯と特にその十字架の死による私たちの救いの中に、神の愛がし
めされています。キリストのゆえに、神の赦しを受け、和解を受け、神を喜ぶ生活に
入れられたのです。それこそキリスト教的「礼拝」の生活なのです。

◆礼拝は、キリストの激烈な「執り成し」の行為によって回復された神の和解の中に、
私たちが無条件で入れられていることの表現なのです。それは、神の激烈な救済活動
とそれに答える私たちの応答の表現なのです。

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