伝道の源泉としての神の愛

管理人

◆聖書の宗教、キリスト教はどのような宗教かと問われれば、それは《愛の宗教》だと
いうことができましょう。新約聖書の中でヨハネの手紙という小さな手紙があります。
その中で著者は、次のように語っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしに
なりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ4:10)。神はもっとも愛する独り子を、私た
ち人間の世界にお遣わしになって、その借金を全部肩代わりしてくださった、そこに
愛があると言っているのです。神からの一方的な愛の宗教、恵みの宗教なのです。

◆わたしたちが何かをしてはじめて開かれる世界ではなくて、神からすべてが始まる世
界だということは、すべてが《神の先手》から始まるということにほかなりません。
愛は、神から始まっているというその《先手》が歴史の中で結晶したのが《イエス・
キリストの十字架》の出来事なのです。このようにいつも先手をとる神の愛のことを、
宗教改革者のルタ-は《泉のような愛》といっています。つまり、汲んでも汲んでも次
から次へと出てくる愛という意味です。伝道は、泉のようにこんこんと湧き出る神の
愛を汲んで、それを隣人に伝えていくことです。その源泉は、その独り子であるイエ
ス・キリストの十字架において具体的に示された、神の無償の愛、何らの見返りを期
待しない一方的な愛なのです。汲んでも汲んでも、次から次に出てくるあの泉のよう
な愛が、わたしたち自身を生き生きとさせ、その生き生きが口を通して隣人にまで及
んでいくことに、わたしたちが用いていただくのです。つまり、それはわたしたち人
間を用いてなされる、神ご自身の働きなのです。

神山 武

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