教える教会

Shin1

◆使徒行伝の初めのペ-ジには、心を動かすペンテコステの出来事が書かれている。教育が祈りや、説教と同様に初代キリスト者共同体の鼓動に近いものであったことである。教育は若い教会が霊的な生命をそこから引き出す重要な働きであった。

◆イエスは、教育をご自身の宣教の重要な方策とされていたが故に、初代キリスト者たちは教えた。更に重要なことは、イエスはあらゆる世代へのイエスの前進命令である大宣教命令(マタイ28:19~20)において、自分の弟子たちに、教えよと特別に命じておられることである。主イエス・キリストの弟子は,師から学ぶものによって自分の人生を喜んで変えていただく人である。大宣教命令の文脈中の「弟子とする」の意味は、一人ひとりに悔い改めと信仰において、イエス・キリストが主であることを認めさせ、自分の人生を根本的に変える連続した教えに自らを服従させることである。... 行って、バプテスマを施し、教えよ ... の三つの分詞を含み、そのすべては文法的に同列であり、その働きの重要性においてもすべてが同列である。

◆教育は、初代の使徒たちの伝道活動における主要な伝道方策であった。彼らは神殿の境内に入り、「民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えた」(使徒4:2)。使徒たちの教えは、福音の宣教という特徴を示している。また、彼らの宣教は、明らかに教育的な性格を持っている。使徒行伝の説教は、旧約聖書の聖句の解説の典型であり、ユダヤ教の諸会堂で毎週聞かれていたものと同じである。

◆初めのうちは、使徒たち自身がキリスト者共同体の教師であった。使徒たちは主と共にいたのだから、教師の働きをするのはごく自然なことであった。しかし間もなく教える任務を他の人々と分け合うようになることは避けられなかった。というのは、やがて使徒たちは、膨大な論理学的挑戦に直面せねばならなかったからである。「なぜ教会は教えるのか」(ルシアン・コールマン著)より             神山 武

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