『 苦難の意味(1) 』

Shin1

◆人生には悩み苦しみがつきものです。信仰者の生涯といえどもその道程にも、実に様々な苦難が幾度も幾度も押し寄せてきます。きれいごとではすまされない、現実の世界なのです。私たちのもっている信仰、それは、苦しみや困難や災いに合わないための、お守りでは決してありません。

◆それどころか、信仰者はその生涯の中で、自らがボロボロになってしまうほどの厳しい試練にしばしば遭遇します。限界を越えて崩壊してしまう寸前の極限状態に達するような苦難です。

◆けれども、信仰者の遭遇する苦難で、ほかと際立って違う点があります。それは、信仰者にとって信仰をもって遭遇する苦難には、意味の無い苦難や試練はないということなのです。

◆第一に、それは私たちを練り、きよめるためだと御言葉は語ります。「見よ、わたしは火をもってお前を練るが銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる」(イザヤ40:10)。信仰者の困難は、その人を練りきよめる試みの炉なのです。その中であなたが神様の御手を信じて、手放すべきものをきっぱりと手放すとき、その人は神の恵みの高みへと躍進するのです。

◆井戸の底からは昼間でも星が見えるように、人生の苦難の中から神様を見上げよう。神は「わが子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。......訓練として忍耐しなさい」(ヘブル12:5〜7)と語られる。苦しみは主からの貴重な訓練の機会と語られる。また、新たな信仰の世界へ躍進していく素晴らしい主からのチャンスとして、前向き肯定的に受け止め忍耐しよう。そして、一回り大きな度量をもつ信仰者となろう。

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