◆聖書に登場する人物は実に多様です。粗削りで、くせがあり、欠けがあり、失敗をする者ですが、時代や状況、それに個々の性格、気質などの違いを越えて、神に大きく用いられて行く道程には、一定の道筋というか、原則があるように思えてなりません。
◆その一つは、「砕かれる」という経験です。人は本当に自分自身に泣き、砕かれるという経験を通して後、はじめて真に主に用いられる器となっていくようです。
◆ダビデは、自分自身の醜さに、徹底的に自分を嫌悪し、自分に泣きました。それは一信仰者として神の前に立った時に、自分の罪深さに、魂が打ち砕かれたという厳しい告白に導かれて次のように歌いました。
「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。
わたしが愚かな行いをしたからです。」 (詩篇38:6)
「もう立てないほど打ち砕かれ
心は呻き、うなり声をあげるだけです。」 (詩篇38:9)
◆そして、私たち信仰者もまた、様々な状況下で同じように自分の姿をとことん思い知らされては砕かれる、痛くて苦しい経験を通してキリスト者としての真の成長を遂げ、豊かに主に答える者となるのではないでしょうか。
「神様が求められるいけにえは、砕かれた魂です。
砕かれ、悔い改めた心を
神は決していいかげんにはなされません。」 (詩篇51:17現代訳)