「  境 界 線  」

Shin1

◆8月に岩手県へ震災ボランティアに行った。被災地という全く非日常な場所へ行くのだと身構えていたが、行きの列車の窓から見えるのは、のどかな田園の風景ばかり。重たい荷物を抱えた自分の姿の方が、よほど日常から浮いた存在に見えた。ボランティア拠点の遠野から釜石方面へはバスで移動したが、やはり同じような平凡な田園の風景が続いた。

◆しかし、釜石市内に入り中心部の川を渡った途端、周囲の様相は一変する。立ち並ぶ建物の一階部分はことごとくボロボロの状態。さらに先に進むと、今度は灰色の泥に被われ草もないような大地が広がっていた。まばらに残る崩れた建物と無意味なように走る道路だけが、ここにはかつて町があったのさと寂しく主張しているかのようであった。まるで、日常空間の中に津波によって無情な境界線が引かれたようにも思えた。

◆よくよく考えると、自分の前にも、ある日突然境界線が引かれ、苦難の中に追いやられてしまうこともあるかもしれない。そんな時には、なぜこうなったのかと神を恨んでしまうかもしれない。いくら神の摂理だと言われても、心の中にはむなしく空虚に響くばかりであろう。

◆だが、たとえわけのわからぬまま苦難の中に陥ったとしても、そうであっても主は私を愛されており私という存在を喜ばれている、ということを思い出したい。闇の中にどんどん引きずり込まれた心が折れそうになったとしても、かすかな主の呼びかけに気づきたい。その声に気づいたとき、再び境界線を越えて、元いたところ、いや、それ以上に主に近いところに戻ることができるだろう。悲しみや苦しみが消え去ることは、決してないかもしれない。しかし、それらを抱えながらも、苦難を乗り越えられるだけの平安が与えられ、悲しくも喜びにあふれた気持ちとなる。これはクリスチャンだけに与えられた特権であろう。                (宮﨑英剛)

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