◆ある時、ひとりの病める女が、大勢の群衆にまぎれ込み、主イエスの後ろから、み衣に触ったことがあった。彼女はせめて、み衣に触れれば治していただける、と信じて、そっと触ったのです。ところが、その時、主は自分の内から力が出て行ったことに気がつかれ、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
◆主は触った者を見つけようと見まわされた(マルコ5:25以下)。主が見つけようとされた人は、主と握手した人でもなかった。主にひっついて離れない人でもなかった。主が言われる「触った人」とは、主の力が注がれた人、主の命に生かされた人なのでした。
◆「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:4)。この「つながる」ということばは、枝が幹につながっているように、そこには命がつながれているのです。わたしたちは主にただ「触ったり」「くっついたり」している間柄であってはならない。どんなに聖書に通じ、キリスト教信仰について知っていても、それでキリスト者とは言えない。キリスト者とは、キリストの命に生きる者、いま、生かされている者、キリストの霊の注ぎを受ける者である。
◆ペンテコステは聖霊降臨日であり、教会の誕生の日、教会は聖霊を受けて生まれたのです。12年長血をわずらった女が信仰をもって、主に求めていった時、主イエスの命に預かることができたように、わたしたちもキリストの霊に満たされるとき、わたしたちの教会は新たにされるのです。ペンテコステはわたしたちの信仰の充満の時、わたしたちの教会の更新の日なのです。