『 荒野で神の言葉が臨む 』 6/3

Shin1

◆預言者、伝動者にとって、何よりも大事なことは、神の言葉を聞く、神の言葉が与えられる(臨む)ことです。頭がよいとか、手腕があるとか、どれほど指導力があるかということは問題ではないのです。

◆たとえばアブラハムに「神の言葉が臨んだ」エリヤに「主の言葉が臨んだ」と創世記、列王記上の記者は記している。アブラハムにとってもエリヤにとっても決定的なことは彼が神の言葉を聞いたことです。神の言葉が臨むことは、私たち信仰者にとっても大事なことであり、よりどころです。ですから私たちは神の言葉を聞くことに、懸命にならねばならないのです。

◆クリスチャン生活とは、かくあるべきと考えるのもけっして悪いことではありませんが、クリスチャンの根源である神の言葉を聞くことに、私たちの霊的な命があることを忘れてはならないのです。

◆預言者ヨハネは「神の言葉が荒野で」(ルカ3:2)とことさらに荒野と言っています。キリスト教は荒野の宗教です。荒野に自分をおいていくことは不安ですが、「荒野で恵みを受ける」(エレミヤ31:2)とあるように、不安の中でだれにも依り頼めないようなところに、自分をおいていくことは、キリスト教信仰には、大事なことなのです。

◆荒野は人生に不必要なものではなく、私たちを苦しめるだけの所でもありません。荒野は神と出会うところ、神の静かなみ言葉が望み、聞こえる所です。あなたは苦難(荒野)の中で神の御声を聞いたことがありますか。

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