今週の一面 『中断される人生を生きる(2) 』6/16

Shin1

◆キリスト者というものは、「中断される人生」を特別な仕方でいま生きている人ではないでしょうか。日曜日ごとの生活において私たちは、日常生活の営みを断ち切り、いわば人生を中断して、礼拝の中へやってきます。

◆日曜日ごと人生の中断をもって、私たちは神こそわが人生の主だ、と言い切っているのです。ここに聖書の言う「高慢」でない人生の具体的な、そして真実の姿があるのではないでしょうか。

◆このことはまた、それがたといどんなにすばらしく、夢中にさせる仕事であり、生活であったとしても、日々延長するだけの人生、中断されない人生には、結局のところ真の慰め、究極の意味、完成や救いはない、ということだと思います。

◆たとえ、それがどんなに楽しい仕事、やりがいのある仕事だとしても、そこに最後究極の慰めはなく、むしろそれを中断して、断然神の御前にでてくる。ここにこそ、真の喜びがあります。それは、日曜日の独特の喜びです。人生は、この喜びに極まるのです。

◆人生を礼拝において中断させ、御自分のもとに私たちを召し給う神は、そのことによって私たちの人生を慰め、完成へともたらして下さいます。神による中断の中にこそ、私たちの人生の完成があり、神の栄光にあずかる希望があると言ってよいと思います。

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