今週の一面『 ~受難の道を歩まれるキリスト~ 』3/15

Shin1

私は、2005年の12月にイスラエル旅行に行きました。その際、今日の聖書の個所に出てくるゲッセマネの園にも行きました。そこには大きな教会が建てられており、中に入ると壁に苦しみもだえながら祈るイエス様の姿とそれを励ます天の使いの姿が描かれたモザイクの絵がありました。その時のチャプレンの方の説明によれば、イエス様が祈られた「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という言葉に出てくる「杯」とは、私たちの汚れた罪が入っている杯だというのです。何とも説明できない、表現できないような、汚くて、気味が悪くて、臭くて、苦くて、とても口にすることのできないようなものがその杯に入っていたとしたら、私たちはそれを飲むことができるでしょうか。私たちはそれぞれその杯の中身を何と想像するでしょうか。私はその時、腐った肉に群がるウジ虫のようなものや無数のゴキブリの死骸などを連想してしまいました。気持ちが悪すぎて手に持つことも触れることも出来ないような杯を自分に飲み干すことができるかと考えたら、それはとてもとても無理でした。しかし、イエス様は更にもっと汚くて、気持ち悪くて、臭くて、苦くて、言葉にならないようなものである私たち一人一人の罪を、すべて一滴残らず、苦しみもだえながら飲み干してくださったのです。それは、神の意志に従い、受難の道を歩まれるキリストの姿です。  

松﨑 準

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