今週の一面『 礼拝という神様の食卓 』 1/31

Shin1

◆親元を離れてから13年、思い出の風景はいつも家族で囲む食卓。反抗期まっただ中でも、大きな家族喧嘩があっても、できるだけ毎朝毎晩、家族揃って食卓を囲んでいたことを温かく思い出します。

◆礼拝は神様から招かれた食卓に例えられます。私が家族4人で囲んでいた小さな食卓では無く、何家族も集い共に食事を分かち合う大きな食卓。それはまるで年末年始に親戚一同が集まる食卓のようです。そこでしか会わない人がいて、普段は食べないものを食べながら何となく皆がお祝いのような気分で幸せ、そんな食卓。

◆もちろん、楽しいだけの食卓ではないかもしれません。台所に立つ人々は大勢の食事の準備にうんざりし、青年達は昔話の連続にイライラしているかもしれません。子どもたちは早く飛び出して遊びたい気持ちでそわそわし、高齢のおばあちゃんは眠くなっている、そんな食卓かもしれません。全員が何かしらの居心地の悪さを感じつつ、それでもなお、共に食卓を嬉しく囲んでいる。

◆私の礼拝のイメージはそんな食卓です。神様から招かれた食卓につき、何の準備もできない人も、台所で一生懸命準備をしている人も、みな等しく共に神様からの嬉しい恵みを分かち合うことを促されています。少しの居心地の悪さを越えて、神様から招かれて食卓につく豊かな恵みを共に味わえることを喜びましょう。

◆今週も教会という私たちの家の、「礼拝」という神様から招かれた食卓に帰ってきました。ご一緒にその食卓を囲む喜びから一週間を歩んでいきたいと願っています。       

武林 慧

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