〜オリーブの香り〜No193『「共に生きること」、「祈り」について』

Shin1

「共に生きる」、或いは「寄り添う」とは、何と難しいことだろう。
善いサマリア人は、傷ついた人を見て「憐れに思い」介抱するのであるが、この「憐れ」の原語は「自分のはらわたがちぎれるくらい痛みを共にし」という意味だと、ある牧師が教えてくれた。私は、社会福祉事業に従事するものだが、「ケア」という言葉の原語も「悲しみを共にする」という意味だと学んだ。

しかし、同じように痛みを感じながら、傍らに寄り添うというのは中々できることではない。昔、私はある障がい者の方から「お前は健常者だから、差別者だ」と言われたことがある。当時私は、「ハンディキャップのある人たちと共に」ということを自分の信条とし、様々なボランティア活動をしていた時期だけにその言葉はかなり重く響き、ショックを受けた。
よく考えてみれば、私はその人になれないし、本当の意味でその痛さや辛さをわかっていないのだ。甘っちょろい、うすっぺらな同情や慈善といったものだとしたら、それこそ自己満足であり、差別だと言われたのだと思う。

私にとって、それは大きな学びであったけれども、人との関係や支援するということに対して臆病になったのも事実である。それ以来、どうしたら寄り添えるのか、共に歩めるのかと随分悩んできた。確かに、善いサマリア人のように「自分のはらわたがちぎれるくらい痛みを共にし」なんてことはとても難しい。我々だって良く「私の気持ちをわかってくれない」と言うではないか。

だけども、私たちは「祈り」を通して、その人の傍らに寄り添うことができる。教会員の方々を見ていてそう確信する。
神に祈ることで、神と私、神とその人の関係の中で、神様の癒しが生まれる。その人について励ましと癒しがありますようにと祈ることで、神様の癒しがその人にあるとすれば、それはとりも直さず自分への癒しもまたそこに生まれている。その大きな神の働きを通じて、共に神に癒され、励まされたもの同士として、私はその人の傍らに寄り添うことが許される。それは共に生きるものとして相手にも認められるということなのだろう。

「祈れ、祈るは力なり」。この言葉の意味をかみしめている。

by とうちゃん

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