〜オリーブの香り〜No 200 『山々を仰ぐ...復活編』

Shin1

ハレルヤ!

イエスは死んで3日目に蘇る、このみことばの重要な箇所を、深く捉えることが出来ないまま、6年前のイースターの日にバプテスマを受けました。
奇跡を起こす力を持ったイエスを読み取るのではなく、この奇跡のたとえが、我が身に起こり、その深い意味を知るところまで運んでくださるのがイエスの愛の業と知った6年だった。

高い険しい山に登ると言うことは、孤独と恐怖を受け入れることが引き換えになる。
山に登るようになってから、自然は美しいものでもあるが、息が止まるほどの恐ろしさも与えられることを体感した。

リュックに背負える持ち物と体力だけが我が身を守る。

穂高、槍ヶ岳、蝶ヶ岳、常念岳といった上高地周辺の山々では、分厚い雲がいきなり頭上を覆い、雹や雷を引き連れ山肌を叩き付ける場面に遭遇した。地上で見る稲妻ではなく、土の上をスパークする光りが走るのだ。那須山や桜島では靴底から熱を感じ取りながらの歩行であったり、由布岳や別府の山々は今この瞬間に大爆発を起こしてもおかしくない中、接近した。
火口に近づけなかった阿蘇山は、ヘリコプターに乗って、沸き立つ湖からの噴煙を見降ろした。
標高2500メートルあたりから、森林限界が現れて、植物がなくなれば、宿る生物も見当たらなくなり、地球と宇宙のかすかな摩擦音が鼓膜を支配する。
マウナケア山頂に到着した時には、二酸化炭素が吐き出せなくなった。笑ったり喋ることが苦しくなった。

しかし、これら激高に近い叱りを受けた後に来る、宥めの美しさ、温かさ、寛大なものは、全身全霊で主に身を委ねることをせずには訪れないものだろうか...

私は、2010年4月4日のイースターにバプテスマを受けて以来、家族、友人、仕事、あらゆる場面で山の頂に向かう途中の、自然の脅威に似た遭遇をしてきた。そして、その出来事ひとつ一つに無になっていく自分を見た。

3日目に蘇ることは出来ず...未だ仮死状態として呼吸が続いているような気がする。

終わってもいないし、主の宥めも頂けてはいない。祈りを深く持つために私に与えられた境遇なのだ。
私自身の復活への歩みは、経験した登山のどの山よりも高い...。

by MxM

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