◆榎本保郎先生の著書「祈りと瞑想への道」に次のような文章がある。  
私は次のような証しを読んで、自分の信仰の姿勢について深く反省させられた。それは一人の英国の婦人の話しである。彼女の境遇は、大変お気の毒なものであったが、その表情は輝いており、神と共に歩むその香りは、さながら花のようであったという。英国はその女性がいたことで、どれほど恩恵を受けたことであろう。その放つ「芳香はかぐわしく、神聖で、天的であった」と記されている。それほど輝いた生涯にはいる前に、彼女は一つの祈りを捧げたという。それは、「神よ、私に三つの傷を与えたまえ。悔いくずおれる傷と、あわれみを感じさせる傷、そして神を慕い求めてやまない傷を与えたまえ。父よ、それを得るためなら、私は、いかなる条件もつけません。わが願いを聞き届けてください。その"請求書"をあなたの御心通りに書いてお送りください。その額がいかほどのものであれ、それは私にとってふさわしいものです。」という祈りです。  

◆私たちは、いつのまにか熱心に求めても「捨てる」ことをしないあの富める青年と同じ状態になっている危険を思わされた。傷ほど我々の中にある自信やプライドを取り去ってしまうものはない。傷ほど助け手を求める心を与えるものはない。たとえどのような請求書が神からこようとも、その請求書通りに支払う者でありたい。       

石田政美

今週の風景 No.544  

管理人
今日は坂西恵悟先生によるメッセージでした。
まだ31歳ととてもお若いのですが、語る言葉や祈りの言葉ひとつひとつが強く、信念と言うか使命感と言うかブレない強い信仰を持っていらっしゃると感じました。
メッセージの聖書箇所は、石田牧師のここのところの公開説教箇所となっているヨセフ物語からでした。
ヨセフ物語を通して私たちに「信徒として何をするのですか?」と問いかけられました。

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◆1月も半ばが過ぎようとしています。私の実家では1月7日は毎年七草粥を食べる習慣がありました。諸説あるようですが日本では平安時代からその記載がある伝統文化の様です。お正月気分も終わり、冬休みの宿題の残りに切迫感が出てくる時期の美味しくないお粥。楽しいお休みを終えて現実に戻っていく象徴のような、小さいころの私には印象深い食べ物でした。

◆一方、カトリック教会や英国国教会等の影響が強い地域では1月6日は「主の公現」を祝う祭日として覚えられていて、クリスマス期間(教会暦で降誕節12/24~1/6)の終了とも認識されています。「公現」とか「顕現」と訳された聞きなれない言葉はἐπιφάνεια、エピファネイアというギリシャ語から来ていて「礼拝者へ神様が現れる」という時に使われる言葉。東方の博士達が礼拝しに訪れた事を記念する日として覚えられています。

◆約束された母国での学者としての地位を捨て、人生を賭けて礼拝者としての旅に踏み出していった博士達。当時の旅の厳しさを考えれば、命の保証もなく財産の大半を費やしての旅だったと想像される、そんな旅だったのでしょう。礼拝者として踏み出した時、彼らにはイエス様と出会うという本当に嬉しい出来事が与えられました。

◆七草粥を食べて現実へ戻っていくのか、主の公現を信じて礼拝者として踏み出していくのか。主イエス様に出会う方へ一歩踏み出す私でありたいと祈っています。

武林 慧

今週の風景 No.543  

管理人
今日は伊東兄によるメッセージでした。
風邪やインフルエンザでお休みの人も多かったです。

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今週の一面 『どちらを選ぶか』1/7  

Shin1

◆人が生きていく上で,常に『どちらを選ぶか』という行為が付きまといます。何を食べるか,何を飲もうか,何を着ようかといった軽微なものから,人生の岐路に立ってどちらを選ぶべきか大いに悩む事もあります。一日の中でどのくらいどちらにするかを選んだかを一つ一つデーターとして記録したら,何万回にも及ぶ行為をしていることに気付くことでしょう。

◆イエス様は,「何を食べようか,何を飲もうか,何を着ようかと言って思い悩むな。」と言って下さいます。(マタイ6:31)そして「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。そうすれば,これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と続けてくれています。

◆何気なく今までやってきた,習慣として選んでいることも多いはずです。例えば,毎日車を運転して走る道,一日の生活の始まりから就寝までのパターンなど。思い悩むことなく選べるのであれば,それはそれで感謝です。主が共にいて下さり,一日無事に過ごせた感謝を祈りとして主に献げましょう。

◆人生の行く先を思い悩んだら。どちらを選んだらよいか迷ったなら。「何よりもまず,神の国と神の義を求めなさい。」の御言葉の通り,イエス様であればどのように思われるかを祈り求めるべきです。そしてその結果として,「これらのものはみな加えて与えられる。」の通りになるのです。  

伊東昌彦

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