◆イサクからの祝福を受けたヤコブは、兄エサウの怒りをかいました。その結果、彼は自分の家から出て、母リベカの家族の元へと向かったのです。ヤコブは祖父アブラハムのように、住み慣れた環境、立場、財産などを置いて旅に出ました。誰一人、自分のことを知らない状況の中旅だったヤコブの心には不安もあったことでしょう。そんな中、神様は夢を通してヤコブに語られたのです。神様はヤコブに約束を与えられます。この約束には、7つのことが約束されています。そして、この約束はアブラハム、イサクと続いた約束であり、ヤコブに対してはっきりと約束してくださった約束なのです。(創世記28:13-15)ヤコブは、神様の約束を信じました。目覚めた時、主が共にいてくださったことを確信したのです。父たちの地を離れ、主も共にいてくださらないと思っていたことでしょう。神様はヤコブを見捨てず共にいてくださったのです。

◆ヤコブは主の臨在の体験を覚えて、枕にした石を取り、記念碑としました。(28:18,19)そして誓願を立てたのです。この誓願は、彼の信仰告白でした。主が共にいてくださること、主が自分自身の神にとなられること、この旅路は主によって守られることを信じたのです。それだけでなく、ヤコブは主に献げものを献げることも誓ったのです。

◆このヤコブの姿は私たち礼拝者の姿でしょう。私たちは、主が共にいてくださり、すべてのことを守ってくださり、主が神となられていることを感謝し礼拝を献げています。荒野で一人でいるような状況の中にも主が共におられる、これほど心強いことはありません。そして、私の神となってくださることはとても嬉しいことです。「主は見放さず、見捨てない。」この約束が今の私たちにも与えられているのはとても素晴らしいことです。この信仰を持って歩みましょう。

坂西恵悟

◆エサウはヤコブが父から祝福を受けたことでヤコブを憎みました。彼は、
自分の行いを悔いるのではなく、ヤコブが諸悪の根源と考えました。そして、カインがアベルを殺したように、エサウも妬みからヤコブを殺そうと考えたのです。(創世記27:41)

◆神様の祝福は悔い改めた者に近づきます。エサウのように心がかたくなになると、神様の祝福が受けられないようになってくるのです。「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15)とあるとおりです。エサウの思いを聞いたリベカはヤコブを守る行動を起こしました。ヤコブは、自分の家を離れ、リベカの故郷へと向かったのです。

◆イサクから祝福を受けたヤコブは、妻を迎えるためにリベカの兄ラバンの所へと向かいました。一方エサウは、ヤコブがパダン・アラムの地で妻をめとるよう命じられたこと、それに従順に従ったことを知りました。エサウの妻がイサクに気に入られていないことに気づきました。今までイサクからの人間的な愛(25:28)に頼っていたエサウ。このイサクとヤコブのやり取りによって、彼はイサクに対しての絆が断たれたように感じたかもしれません。ここで、エサウが改めて父イサクと同じ信仰に立っていたのであれば、結果は変わっていたのかもしれません。

◆エサウは父の家を離れ、イシュマエルの元へと行きました。イシュマエルはアブラハムの子でありながら、その契約から離れていました。エサウは神様からの祝福よりどんどん遠ざかっていったのです。自分自身の居場所を神ではなく、人の中に求めていったのです。私たちはどのような場合においても、神の中に居場所を求めるものでありたいと思います。

坂西恵悟

◆イサクが60歳の時にエサウとヤコブが生まれました。エサウは、「巧みな狩人で野の人」でした。一方ヤコブは、「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」人物になりました。二人は、それぞれの性格にふさわしい職業につき、その役割を果たしていました。しかし、イサクとリベカは彼らを平等に愛することをせず偏愛していたのです。イサクは、エサウの獲物が好物でした。その結果、エサウを愛したのです。リベカは、エサウではなくヤコブを愛しました。この偏愛が結果として彼らの関係性を壊していくのです。

◆ある日、ヤコブは長子の権利をエサウに求めました。長子の権利には
①二倍の相続の特権、
②家族のリーダーとなる特権、
③神様の特別な祝福を意味していました。(申命記21:17)
確かに、彼らが生まれる時、「兄が弟に仕えるようになる」と言われていたが、ヤコブは狡い方法で長子の権利を手に入れたのです。このことが種となり、後にヤコブは家族の元を離れました。

◆エサウはヤコブとは反対に長子の権利を軽んじていました。祖父アブラハム、父イサクから与えられるはずだった祝福を彼は、自分の欲望のために簡単に手放してしまったのです。「まただれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」(ヘブライ12:16)
エサウにもヤコブにも人間的な弱さがありました。

◆クリスチャンは問題や弱さを持っていない人間ではありません。弱さも問題も同じように持っている人間です。むしろ、弱さを多く持っている人間かもしれません。しかし、この弱さを知っているからこそ、主にを求め、主に依り頼む人になるのです。神様は自分自身に満足して自分を正しいとする人をではなく、主に救いを求める人を受け入れてくださるのです。

坂西恵悟

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