◆ヘブライの手紙、ヤコブの手紙だけでなく、マタイの系図にも名が連ねられているラハブ。彼女の信仰は新約聖書の時代にも語り継がれています。

◆イスラエルの民全員がヨルダン川を渡る前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川すぐ近くのエリコへと送りました。イスラエル人がエリコに入ったことを知ったエリコの王は、使いをラハブの元へと送りました。しかし、ラハブは二人を屋上に匿い、王の使いに虚偽の報告をし二人を助けました。ラハブはイスラエル人に起きたこれまでの出来事を知っていたのです。(2:9-11)そして、イスラエルの神こそが唯一の神であると告白しました。ヘブライ11:31、ヤコブ2:25にもあるようにラハブは、イスラエルの神、すなわちこの世界を創造され、ご支配されている唯一の父なる神を信じていたのです。結果、彼女はイスラエルの信仰者の一人として語り継げられているのです。彼女は知っていました。滅びゆく町から救われる唯一の道を。

◆私たちもその救いの道を知り、その道を選んでいます。罪によって、神様に背き、隣人を傷つけ、自分自身も傷つけながら、怒りや憎しみにより、人を裁く歩みをしていた私たち。滅びの道を歩んでいた私たちをイエスキリストの十字架によって、罪赦され、永遠のいのちを与えられました。私たちもラハブのように信仰を告白して歩んでいく者でありたいのです。
「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(2:11)

坂西恵悟

◆ヨシュア記は、後継者となったヨシュアが主の助けと導きによって、イスラエルの民と共に、約束の地カナンへと入っていき、相続地として割り当てた45年の歴史が書かれています。前半は、カナンの地での戦いが中心になり、後半は土地の分割について書かれています。

◆イスラエルの民を導いたモーセは、主の命令に従いモアブの地で死にました。(申命記34:5)モーセに代わり、約束の地へと導くリーダーとしてヨシュアが選ばれたのです。主はヨシュアに語られました。
「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」(ヨシュア1:3)

◆神様は、これからヨシュアたちが足を踏み入れる地をすでに「与える」と約束されているのです。新改訳聖書では「与えている」となっています。これから起こる、未来の出来事のことですが、神様にとっては完了している出来事なのです。ですから、この約束はすでに実現しているも同然のことなのです。神様がすでに与えると約束してくださっているからこそ、「強く、雄々しくあれ。」と語ってくださるのです。

◆私たちは、時に主が約束してくださっているにも関わらず、疑い、迷う時があります。けれども、主がはっきりと「足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」とヨシュアに約束してくださったように、私たちにも主の救いと恵みが約束されているのですから、主にあって「強く、雄々しく」ありたいのです。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:9)

坂西恵悟

◆モーセは、12部族の民に祝福の言葉を語りました。この言葉の最後に、モーセはイスラエルの民がいかに幸いな民であるかを語ったのです。主が、民の嘆きを聞き入れ、エジプトから救われ、荒野での旅路を守り、約束された祝福を与えられたのです。イスラエルの救いは、イエスキリストによって与えられている私たちの救いの雛形とも言えるのではないでしょうか。私たちもイスラエルの民のように「うなじのこわい」民です。神様の前にかたくなになり、時に神様の方を向かず、自己中心的に行動し、神様の前に不義を行ってしまいます。けれども、神様はそんな私たちを愛してくださり、イエスキリストの十字架によって救いを与えてくださいました。

◆私たちの幸いは、イエスキリストによる救いです。永遠のいのちの約束です。主は、わたしを助ける盾となり、わたしの力となります。『私たち不義なる人間を神の義が赦すために、十字架にかかってその義を全うして下さった。 (中略) もし破れ去ったとしても、あるいは律法を守る事が出来ずにそこで傷ついたとしても、神への誠実がその律法を全うさせるのである。』(松村秀一師) イエスキリストの十字架は、私たちが何度罪を犯したとしても変わることない救いへの道です。主の前に何度も悔い改めて、主のもとへと立ち返っていきましょう。主を愛し続ける誠実さを持ちましょう。私たちの一番の祝福は、イエスキリストによる救いです。この祝福を日々感謝して歩んでいきましょう。
「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。」

坂西恵悟

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