今週の一面「パウロの旅路」1/17  

Shin1

◆元旦の朝、年賀状と共に贈り物が届きました。小包を開けてみると「パウロの旅と七つの教会」と題されたスケッチ集が梱包されていて、「お世話になっている友人が、コロナ禍のステイホーム中に朝晩の祈りを持って、神様の力で出版することが出来た素敵なスケッチ集をどうぞ」という友からのメッセージも添えられていました。

◆新しい一年の最初の朝、主の贈り物に感謝を覚えページを開いていくと、3回に渡るパウロの伝道旅行で訪れた町々の風景や遺跡が水彩画で描かれていて、聖書の世界がソフトタッチな3次元になって、パウロの伝道熱が伝わるものでした。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、 裸か、危難か、剣か。」ローマ8章35節

◆2021年を迎えても尚、感染拡大を続けるコロナ禍にあって、2度目の緊急事態宣言も発令され、再び礼拝に集うことが難しい状況となりましたが、むしろその社会的制約が、何者にも奪われることのないキリストの愛を際立たせていることに気づきます。
「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」ローマ8章39節

◆神様が与えてくださった安らかなひとりの時間に、必要のないものを手放す勇気と、夕べがあり、朝があった順路を思い返すことができました。新しく変わっていく世界に変わらぬ主の愛とともに光を持って歩めますよう祈り続けます。

守屋まゆ美

◆2019年に80歳になり、これからどのように生きていったら良いかと思案していた時、すてきな本に出会いました。タイトルは「わたしはよろこんで歳をとりたい」(2019年度キリスト教書店大賞受賞)。

◆よろこんで歳をとる、などといえるのは、よほど恵まれた人だろうと思っていましたが、この本に出合って、とっても納得し、2020年新年に、第四の人生はこのように歩みを進めていこうと心に決めてスタートしました。

◆ところが、コロナ問題で、様々な制限が強いられる中、我家の二台のクーラーが故障し、新たなクーラーが取り付けられる8月末までの猛暑の3週間、大変厳しい日々でした。

◆クーラーが付き、ホッとした矢先、9月4日に「化膿性脊髄炎」で緊急手術、80日間の入院生活ですっかり心が萎えてしまいました。

◆「わたしはよろこんで歳をとりたい」と心に決めて歩み出しましたが、様々な出来事に翻弄された一年でした。

◆しかし、そのような辛い状態の中にあっても、主に目を注ぎ、こんな私をもなお神は愛していてくださっているのだということを強く知らされる時でもありました。

◆入院中、ヨブ記を読みました。神はどん底にいたヨブに「わたしは荒野をその家として与え、荒地をそのすみかとして与えた」(ヨブ39:6)と言われました。

◆ここが神の家、ここが天の門であることに気づかされ、よろこびの声をあげることができた2020年でもありました。

石田政美

◆新年明けましておめでとうございます。新しい1年、お一人お一人の上に主の祝福と守りが豊かにあるようお祈りいたします。新しい年を迎え、1年の歩みをスタートしている私たちですが、主の導きに感謝し、主に期待する1年にしていきましょう。

◆私たちには、価値があります。それは、キリストが私たちの身代わりとなって死んでくださるほどの価値です。その価値を持って私たちは生きています。それを私たちは普段どれほど受け取っているでしょうか。わたし、あなたという存在は尊くかけがえのない存在です。しかし、私たちは時に、すること、しようとすることにおいてキリストが命をかけるほどの価値であることを表すことができていないことがあります。生き方、立ち振る舞い、言動の自己中心、自己実現、自己満足、キリストの名を汚し、キリストの福音宣教の働きを妨げることをしてしまった時、私たちは自分自身の価値を落としてしまっているのではないでしょうか。キリストが犠牲になってくださり、私たちにいのちを与えてくださり、価値を明確にしてくださっているにも関わらず、キリストのために生きるのではなく、自分のために生きる。益を生み出すより多くの害を生み出し、人をつまずかせ、与えられている賜物を錆びつかせているのではないでしょうか。

◆パウロはフィリピの信徒に対して、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(フィリピ1:27)と勧めました。つまり神の国の生活にふさわしい歩みです。キリストによって与えられた霊によって一つとなって歩んでいく。シンプルに言うならば、「信じて生きる」ということでしょう。

◆キリストを信じて生きること。それは、キリストと共に生きることです。キリストと共に生きることは、キリストのように生きることです。キリストのように生きるとは、キリストのために生きることです。

◆私たちの存在は、イエスキリストの命という大きな犠牲を払うほどに尊い存在なのです。ですから、私たちは、そのキリストを表して生きていこうではありませんか。私たちを通して、誰かがキリストと出会い、信じることへと導かれるなら、これほど喜ばしいことはありません。そのために、私たちがまずキリストを「信じて生きる」という歩みをしていきたいのです。

坂西恵悟

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