今週の風景 No.476  

管理人
夏本番!暑かったです!
今日は、5つのパンと2匹の魚の箇所からでした。

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5,000人と言う数字の力に注力してしまうと神様の存在を忘れてしまう。
しかし、神様に自分の差し出せるものを捧げることによって、絶望や悩みから解放される。
小さなものでも、思い切って神様に捧げようとするときに祝福を受け大きく用いられる。

ズンズンと響いてきたメッセージでした。

私がクリスチャンになりたての、まだ二十歳前後だったころ(随分昔ですが。。)、とても好きなクリスチャンミュージシャンがいました。ニューライフというバンドのリーダー、井沢豊さんです。「注がれた愛」や、「主に歌おう」、「喜び・祈り・感謝」など今も歌い継がれている日本のプレイズの原点ともいえる方です。あまりにも好きすぎて、どうしても会いたくて、留学の合間の一時帰国の際には、彼が奉仕する座間カルバリーチャペルの礼拝に出席し、お会いすることができました。私が将来、日本のキリスト教界で、音楽を通して神様のために働きたいという話をすると、自宅に招いてくださり、お昼をご馳走くださいました。いろいろな話をし、自宅の音楽スタジオも見せていただきました。30年も前のことですが、その時のことを今でも鮮明に覚えています。

十数年前、当時大和カルバリチャペルの副牧師だった井沢豊先生は、交通事故で天に召されました。ぜひまたお会いしたいと思いながらも、留学時代以降会えませんでした。しかし、いつの日かまた天国で再会することを楽しみにしています。
実は、私が1年ほど前に作詞作曲した「いつも喜び」という賛美は、井沢さんが作られた「喜び・祈り・感謝」と同じ聖書箇所(テサロニケの信徒への手紙I 5章16~18節)から作りたいという思いから作成したものです。
『いつも喜び』
 「主よ感謝します、今日も守られて
  主よ感謝します、今日も愛されて
    いつも喜び、絶えず祈り、
    すべてのことを感謝しよう
  主よ感謝します、今日も愛されて
  主よ感謝します、明日も導かれる 

井沢さんの作られた曲に「わが子よ...」から始まる歌があります。

 「わが子よ、いま人生を歩み始める君に、
  教えることは数えきれないほどある。
  物事の良し悪し、人を思いやる心、
  どんな人生の波も乗り越えてくる勇気と、
  人を愛し愛されること、弱い人の助けになること、そして
  絶えることのない微笑み
 
  でも一番知ってほしいこと、それは十字架の贖い
  神はひとり子をこの世に与え、十字架の愛は罪許すため、
  主よ、わが子を捉えて離さず、永遠の命を与えたまえ。」

子どもが生まれたときに作られたと聞いていますが、彼の、自分の子に対する思いがとてもよく表されています。私に子どもが与えられたときにもこの歌詞がよく心に浮かんできました。また、子どものことでどうしたらよいか悩むとき、この歌が自然に浮かんできます。この歌は、私の家族に残したい思いを代弁しているものであり、私の祈りです。

by しん1

◆7月7日(木)相鉄線沿線なかよし牧師会(大和カルバリーチャペル)に石田牧師と共に出席しました。年に数回、他教派の先生方と会って話をするのはとても有意義です。今回は「牧師から牧師への継承」というテーマを皆で学びました。私はその中で、テーマとは直接繋がることではありませんが、次のことが心に残りました。
「自分の教会だけに溜め込むことによって、教会の自己目的化になってはならない。ガリラヤ湖は、受けた恵みを外に分かつことを通して、生き生きとする。しかし、死海は溜め込むだけなので死んでゆく。外に向かって、受けた祝福を分かつことによって、生き生きと継続する。」これは、自分さえ良ければ、という思いにグサッと突き刺さることばです。

◆次に、米国エバグリーン・バプテスト教会の良い事例がありました。「教会が自己中心から、忠実な人を派遣する教会となることへと移行した。アンティオキア教会は、バルナバとパウロを派遣した。会衆の中から牧師を育てて派遣する。育てた人材を教会だけに留めたら、ぶくぶくの教会になってしまう。他に与えるほど豊かになる。現在100名を育てて派遣している。しかも最高のリーダーを派遣するようにしている。父なる神は、最高の御子を、この世に送られた。ならば私たちはどうか。皆さんは最高の人材を抱え込んでいないか。内側に抱え込もうとすることは罪である。それは死んでいくことである。食べて何もしないなら不健康になる。」(米国エバグリーン・バプテスト教会 コリー・イシダ牧師)

◆以上の言葉から、自分が満たされていようといまいと、自分状況がどうであろうと、神様から与えられている恵みを自分が受けるだけでなく他へ分け与えることの大切さを教えられます。それは、国内の協力伝道や国外伝道、そして、個人伝道とも深く関係することです。自分が受けたことを忘れてしまったら、与えることはできません。受ける恵みと与える恵みの両方があることを今一度覚えたいと思います。 

松﨑 準

 「キリストを紹介せずにはおられない心、キリストのご命令に従うことの喜びから、伝道するのですが、キリストを紹介すれば、それで私たちの目標を達成したことにはなりません。オックスフォード・グループ・ムーブメントの人々が個人伝道を「生活の転換」と表現したそうですが、隣り人に「生活の転換」が起きるまで個人伝道すること、言いかえますと、その対象者が、キリストを紹介せずにはおられない心、キリストのご命令に喜んで従う心を持つ個人伝道者になるまで個人伝道をすること、これが個人伝道の目標です。」(北原末男牧師) 

対象者がイエス様を信じてクリスチャンになった!ところで伝道が完結するのではなく、その人が更に、自分が受けた恵みを誰かに分かち合わずにはいられないという思いになるまで伝道は続く。確かにこのことは本当に大切なことであると思います。そのために教会という交わりがあるのです。「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んだ」(ルカ5:18)ように、教会はイエス様との出会いを必要としている人のために、皆で祈り、支え、時には皆でその人をイエス様のもとに運んでいくことが必要です。そして、ただ運んで終わりではなく、その人がイエス様に癒され、救われたときに、共に喜び、共に感謝する、それが、真の教会の交わりであり、個人伝道なのです。

個人伝道は、すぐに結果が出ることもあればそうでないこともあります。否、そうでないことの方が圧倒的に多いでしょう。しかし、私たちの伝道は私たちだけの業ではなく、そこに必ずイエス様が共にいてくださることを忘れてはいけません。すぐに結果が出ないからと言って諦めるわけにはいきません。その人のために祈り続け、関わり続けていく中にこそ、イエス様の愛が示され、イエス様ご自身が救いの御業を成し遂げてくださるのです!そのことを信じて、キリストの紹介者、証し人として共に歩んでいきましょう。

松﨑 準

今週の風景 No.475  

管理人
暑くなってきました。
今日は「見つかった喜び」というメッセージでした。
見つからなかったものが見つかるのはとてもラッキーなことです。
でも、信仰を見つけた時の喜びは一瞬の喜びではなく永遠に続き嚙みしめるものです。
その喜びを伴侶や子供に教えてあげたいですね。

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