◆教会形成をしていくときに、牧師と信徒の間に調和がとれていないとしたら、どうでしょうか。教会はオーケストラに似ています。オーケストラの目指すものは美しいハーモニーです。調和のとれた演奏をするためには、指揮者と楽員との間に調和がとれていなければならないように、牧師と教会員の間にも調和がなければ、教会は不協和音を奏でてしまいます。そのような教会に人が集まってくるでしょうか。
◆野田秀牧師は、教会(牧師と信徒)の調和を阻む原因には3つのズレがあると述べています。
1.「自分たちの教会をどのような教会にするか」という理想にズレがある。
2.教会の置かれた地域や、それにともなう文化からくるズレがある。
3.牧師と信徒の間に、個人的な感情によるズレが生じることがある。
◆これらのズレを解消するためには、牧師も信徒もそれぞれ自分のこだわりや主張を相手に押し付けるのではなく、一旦立ち止まり一息ついて、お互いがお互いの立場に立って考えてみる、ということが必要かもしれません。
◆「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。...弱い人に対しては、弱い人のようになりました。...福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリ9:19~23)
◆パウロが皆と福音に共にあずかるために、自分自身を無にして相手に仕えようとする姿勢が見えます。牧師も信徒もこのような姿勢で教会に仕えることができたら、いかなるズレが生じても、キリストの愛と忍耐によってそれらのズレを埋めることができます。そこではじめて、牧師と信徒の調和が生まれ、美しいハーモニーを奏でることができるのです。
標題は、私が初めてJOYチャペルの礼拝に出席したときの感想だ。
九州で生まれ育ち18歳のときに上京したので、それまで九州と東京のいくつかの教会に通ったことがあった。多少の違いはあるにせよ、言ってみれば保守本流(?)みたいな教会ばかり。当然のことながら、教会のイメージ、特に礼拝などは少々格式ばって堅苦しいところという風に思っていた。
ところがだ。とある関係でJOYチャペルの礼拝に出席することになったのだが、それまでの教会とはまるで様子が違っていた。唖然とした。とにかく賛美の歌声が大きくてにぎやか。ちょっとうるさいと思うほどだった。礼拝の流れもシンプル。雰囲気としてもかなりカジュアルだった。しかし、そこにいた人たちの礼拝に臨む姿勢は真剣そのもの。その意気込みにちょっと圧倒されたほどであった。
それから、礼拝が終わったら、ささっと帰る。何でも午後は家族との時間を大切にしているとのこと。当時は会堂がなくYMCAの教室を借りていたこともあったのだろうが、午後に教会で何もせず、あまりにも早く家に帰り着いたので、日曜日のこんなに早い時間に家にいて良いのだろうかと思ったほどだった。
こういうわけで、それまでの教会とは全く違う雰囲気に、何だここは、と思うばかりであった。だが、その組織ばっていないカジュアルな雰囲気とか、礼拝の物珍しさとか、日曜日の午後に時間ができるとか、はたまた家も近かったということもあり、気がつけば、そのままずるずると通い続けることとなっていた。
あれから15年。私はまだこのJOYチャペルにいる。今では人数も大きく増えて、会堂まで建っている。でも、当時の雰囲気はまだまだ残っている。というか、いつまでも残っていて欲しい。そして、ちょっと変わった教会かもしれないが、いつまでも、キリストの体なる教会として、また心から主を賛美する教会として、歩んでいってほしいと願っている。
By A5