〜 礼 拝 〜

◆人生には一定のリズムがあります。神は、「6日間は仕事をしてもよい。しかし7日目は全き休みの安息、聖なる集会の日である」(レビ23:3)と命令されました。神はその命令を十戒の中に含めるほど重視しました。十戒とは、人が生きるための原則を10カ条にまとめたものです。神が「安息の日」をどんなに真剣に扱っておられるかが分かります。

◆聖書では、「安息日」と呼び、その日は休息を取り、共に集まって礼拝を捧げるために用意された一日と繰り返し語ります。それ以外のことをする日ではないのです。
◆神は、私たちが他のクリスチャンと共に集まって礼拝を捧げることを求めておられます。私たちが共に集まって礼拝を捧げるとき、神も私たちと共にその場にいてくださいます。「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)。

◆共に集まって捧げる礼拝では、一人で捧げる時には体験することができない、独特の力強い神の臨在というものがあります。共に礼拝を捧げるとき、私たちの視線は自分自身や自分の問題から引き上げられ、独りよがりのプライドから救い出されるのです。これらは、共同体の中でしか起こりえません。

(石田政美)

2015年1月18日 講壇の花  

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今週の風景 No.414  

管理人
インフルエンザや風邪が猛威をふるっております。
今日のJOYチャペルは欠席通知が病欠でいっぱいになっていました。
予防のためのマスクが手放せないです。

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フィレモンへの手紙を通して、神様が私たちに語っていることは、和解の現実化ということではないかと思います。パウロも、フィレモンも、オネシモも、それぞれイエス・キリストを通して神と和解することがゆるされ、キリストの愛の内に生かされる者となりました。今や彼らは神の家族です。もはや、それぞれが勝手に神と和解し、好き勝手に生きているのではないのです。神と和解することがゆるされた以上、隣人とも和解しなければなりません。自分は神にゆるされたけれども他の人のことはゆるせないというのでは、本当に神と和解をしたことにはなりません。そのような自分勝手な個人的な信仰はパウロが主張するイエス・キリストへの信仰とは言えないのではないでしょうか。パウロは、そのことをフィレモンとオネシモに、そして、現代に生きる私たちにも語っているのです。
私たちは、主の大いなる憐れみと和解の言葉によって日々生かされています。だからこそ、私たちの頑なな心が日々与えられるキリストの愛によって溶かされ、そして、互いに溶け合って一つとされる関係を求めていきたと思います。互いに赦し合い、助け合い、愛し合いつつ、神の家族として共に歩みたいと思います。

(松﨑 準)

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

今週の風景 No.413  

管理人
晴天にめぐまれた清々しい主日でした。
きっと新年二週目なのでまだまだ清々しい気持ちなのでしょう。
この気持ちで大晦日までいれたら素敵ですね♪

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