◆31年間の牧師として語った礼拝メッセージを振り返って思うことは、神様は私が意識するしないにかかわらず、牧会者としての節目節目で、何か新しいことをされる、ということです。
「見よ、わたしは新しい事をする。今、もう、それが、起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」
(イザヤ43:19新改訳)

◆神様は、「見よ、わたしは新しい事をする」と語ります。神様のなさることは、ときに人間の考えを超える驚くようなことであったりします。それが多くの場合「荒野に道を、荒地に川を設ける」です。荒れた野に、自然に道ができるわけではありませんし、砂漠に自然に川が流れることではありません。

◆しかし、全知全能の神様は、(これはある意味では象徴な表現だと思いますが)、まったく期待していなかったことを私たちの信仰の歩み、教会の歩みの中に行われるということです。

◆神様は私たちひとりひとりのために、そして、JOYチャペルに再び新しいことを用意しておられる。どんなことかわからない、しかしそれは私たちにとってかなり大きな意味をもつ出来事なのではないかと思います。神様が用意をしておられるご計画を知るためにも、ますます、礼拝者として御言葉に期待し、計算では不可能と思われることであっても、神様からの私たちに対する新しい期待として受けとめる信仰を持って待ちたいと思います。         

石田政美

今週の風景 No.433  

管理人
石田牧師による「よきサマリヤ人」の箇所から今までとは全く異なる視点のメッセージでした。
これはかなり斬新でした。

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午後から天城山荘の職員礼拝のため出かけられた石田牧師。
健康が祝されますよう祈るばかりです。

2015年6月21日 講壇の花  

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◆使徒言行録に、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(2:42)と書かれています。初代教会の人たちは教会生活の中で、これら4つの事柄に専念し、これらを固く守っていました。

◆特に「相互の交わり」は、気の合う信徒同士の単なる親しい交わりとは違います。そのような親しさや人の温かさだけを求めるなら、教会でなくても居心地の良い場所や集まりは世の中にはたくさんあります。しかし、仲の良い人もそうでない人も、意見が合う人も合わない人も、キリストの救いに共に与ることにおいて一つであること、それがキリストの体なる教会の交わりなのです。

◆「宣教、交わり、食事、祈り」は、初代教会にとって教会生活の基本でした。なぜなら、これらは初代教会の人たちがイエス・キリストの福音を、身をもって表そうとしたときに必要なことだったからです。彼らはイエス・キリストを信じる者として、それにふさわしく生きていくために、これらを固く守って自分たちの生活を整えて行ったのだと思います。

◆そしてそれは同時に現代に生きる私たちの教会においても同じであることは間違いありません。私たちにとって、これら4つの事柄を一言で言うなら、それは「礼拝」です。JOYチャペルはこれまで繰り返し「礼拝」を第一にし、「礼拝」に集中することを何よりも大切にして来ました。そうすることで、一人一人の神へ意識が高められ、それがそれぞれの実生活に結びつき、最終的にそれが証し(キリストの福音を、身をもって表すこと)に繋がるのです。

◆いついかなる時も礼拝をささげ、礼拝によって養われ、整えられていきましょう!

松﨑 準

聖  書:ルカによる福音書10:30~37

説教題:「善きサマリア人のたとえ」

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