◆イスラエルの民は、カデシュ・バルネアを出発し、ゼレド川を渡るのに38年をかかりました。(申命記2:14)神様の約束通り、前の世代はいなくなったのです。その後、ヘシュボンの王シホン、バシャンの王オグとの戦いを終え、ヨルダン川の東側をイスラエルの民で割り当てました。

◆モーセは神様にヨルダン川の向こうの土地に行くことを求めました。しかし、神様の答えはNOでした。神様はモーセの願いを退け、ピスガの頂上から見渡すように言われたのです。モーセは、ヨシュアを励ますようにと使命を与えられたのです。

◆モーセの祈りは、ただ自分自身の願いを言い表すものではありませんでした。彼の祈りは、神様の御心を聞く祈りでした。祈りを通して、してはならないこと、しなくてはならないことを神様に聞いていたのです。

◆私たちは、計画通りに実行することが普通です。旅行にしても、1日の動きにしても、仕事にしても。学校で時間割が定められているように、様々な行事が年間行事として計画されているように、多くの計画を私たちは立てます。モーセもモーセ自身が約束の地へ入ることを願いました。神様によって召された時は、その約束の地を夢見ていたことでしょうし、自分もその恵みに預かることができると期待していたことでしょう。けれども、kそれはかなわなかった。私たちは、自分の計画通りに行かない時、落胆します。だから、計画通りに進めようとします。そこには、私たちの願いが、時にエゴが多く入っているでしょう。モーセは神様の言葉に従い続けました。自分の願いではなく、神様の御心を求めていたのです。私たちも、このモーセに習うものでありたいのです。

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:22)

坂西恵悟

◆私たちは同じ失敗を繰り返すことを良しとしません。会社の中でも、家庭の中でもたとえ失敗したとしても同じ失敗を繰り返さないように意識していくでしょう。イスラエルの民は同じ失敗を繰り返してきていました。
それは、神様の言葉を素直に信じ、信頼し、従うということができていなかったのです。このイスラエルの民の姿を見る時、私自身も同じことをしていると反省します。

◆モーセはイスラエルの民に対し「恐れるな、おののくな、うろたえてはならない」と神様が共におられること、神様の約束があることを伝え続けました。そして、その主の言葉に従い続けるよう伝えていたのです。しかし、イスラエルの民は目の前の状況にいっぱいいっぱいになり、神様の言葉に従うことができなくなってしまったのです。そんなイスラエルにモーセは、過去に神様が民に対してどのようなことをなさったのかを伝えていきました。それでも、民たちは主を信じることはなかったのです。

◆このイスラエルの民のような状況に私たちは置かれる時があります。その頻度はそれぞれですが、私たちはこの姿から学んでいくことが大切です。日々の生活の中で、神様に従うことを忘れてしまった時、主が私になさった御業や聖書やそれぞれに行われた御業を思い出していきましょう。
「あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」(1:31)

◆主が私たちと共にいてくださる。主が私を背負ってくださっている。その平安の中を、導きの中を歩む者でありたいのです。

坂西恵悟

◆モーセは旧約聖書の時代に、神様に選ばれた代弁者でした。神様がモーセに語り、モーセがイスラエルの民に語る。この伝達された御言葉が申命記に要約されています。イエス様が命じられた重要な掟もこの申命記から引用されています。またユダヤ教徒が毎日唱えている「シェマー」もこの申命記に書かれていることです。(申命記6:4~9) ですから、この申命記は旧約聖書の人々にとっても、新約聖書の人々にとっても、今を生きる人々にとっても大切なことが語られている書物でもあります。

◆モーセは荒野の旅が終わる時、再びイスラエルの民に神様の御言葉を語りました。それは、神様の御業や恵みを覚えると共に、自分たちの失敗を学ぶためだったのでしょう。1:7で「向きを変えて出発し、・・・行きなさい。」と、命じられました。主がイスラエルの民の先祖の時から約束してくださった地に、主の御声に従って行くことを命じられたのです。

◆私たちは、「向きを変えて出発する」ことは極力したくないことが多いと思います。なぜなら、変化することを敬遠することがあるからです。できることならこのままでいたい、変わらずにいたいという思いが私たちの内にあるでしょう。しかし、主が語られたのなら私たちは、自分自身の計画や考えとは違ったとしても、それに従っていくことが大切だと思うのです。主が語られた先には、豊かな恵みが私たちを待っています。イスラエルの民にとって、乳と蜜の流れる地、カナンの地がまさにそれです。

◆私たちは信仰を持って、主の言葉に聞き従うものでありたいのです。主の言葉に聞き従ったとき、神様は私たちに素晴らしい御業を表してくださるのです。
坂西恵悟

◆イスラエルの民が犯した罪のために、再度神様へのとりなしを行なったモーセ。共におられることをやめる決断をされた神様に、再度共におられることを求めました。モーセのとりなしにより、神様が再び共にいてくださる約束をしてくださいました。(33:12-17)

◆モーセはその祈りだけでなく、「神の栄光を私に見せてください」(新改訳)と迫ったのです。聖書において、「神の栄光を見る」とは、"雲や火の中に神の栄光を見る"、"神の御業の中に神の栄光を見る"、"幻の中において神の栄光を見る"、"神を礼拝し、黙想している中で、神の栄光を見る"、"神の直接的な臨在を見る"が挙げられるでしょう。このように、モーセが神様のご臨在を求めるように、私たちも神様の臨在を求めることが大切だと思うのです。

◆イエス様はラザロを生き返らせる時、マルタにこのように言いました。「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」(ヨハネ11:40)

◆モーセがアブラハム、イサク、ヤコブに対して約束されたことを、守られる神様であると信じたように、私たちも聖書を通して主が約束されていることを信じる者でありたいのです。主は、私たちを見放したり、見捨てる方ではありません。今も生きて、私たちを愛し、共にいてくださるお方です。その主に信頼していきましょう。

◆モーセはその後、石の板を持って神様のもとへと進みました。その場所は、静寂な場所でもあったことでしょう。神様の造られた自然の中に静かに主を待っていたことでしょう。私たちも時に、主の造られた自然の中で静まり、主との交わりを持ち、神の栄光を待ち望みましょう。

坂西恵悟

◆イスラエルの民の罪により、神様はイスラエルの民の間におられることをやめる決意をされました。これまで、民の間におられ導いた主がいなくなることは、民にとって非常に悪い知らせでした。民は嘆き悲しみました。(33:1-6)

◆モーセは、宿営の外に「臨在の幕屋」(会見の天幕)を設営しました。主にお伺いを立てる者はだれでも、この幕屋に行きました。この幕屋は、本来ならば、宿営の真ん中にあるべきものでした。宿営の真ん中にあって共に歩むことは、神がいつも真ん中におられることの約束だったからです。その後、この幕屋はエルサレムの神殿となっていくのです。イエス様の十字架と復活の後は、イエス様ご自身が私たちの真ん中におられ、私たちが神の神殿として生きるようになるのです。

◆11節において「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」とあります。神様は、モーセと共にこの幕屋で交わりを持たれました。私たちにこの幕屋があるでしょうか。神様と顔と顔を合わせて交わりをする場を持つことができているでしょうか。ある人にとっては個室が、ある人にとっては、共同スペースの一部がその場所になっているかもしれません。臨在の幕屋になる場所を私たちは持つことが大切です。そこで、毎日何分かでも顔と顔を合わせて神と交わることが大切なのです。

◆JOYチャペルの20年の歩みは、JOYチャペルに関わられたお一人お一人がこのように主との交わりを大切にされてきたからこそ、立てあげられているのです。これまでだけでなく、これからも私たちは主との交わりを大切に、第一にしていこうではありませんか。時にモーセのように悔い改めととりなしの祈りをささげ、時に感謝をあらわす。そのような場所を私たちは持っていくことが必要でしょう。それぞれに臨在の幕屋が設けられているように、このJOYチャペルも臨在の幕屋でありたいのです。主との交わりがますます祝福されますように。

坂西恵悟

1

過去の記事