・東京 吉祥寺の友人から種をもらいました。
「これ、ツタンカーメンといってベランダで育てられます。
さやえんどうと同じ実が収穫出来ます」
頂いた種はごく普通に見える朝顔のような種でした。
昨年11月に、プランターに種5つ入れ土をそっとかけました。
今ツタンカーメンのツルは30センチぐらいになりました。
種は生きているとつくづく思います。
・花の原種にこだわって庭作りをしている人にお会いしました。
山の中腹で結婚式場を経営されてます。
その庭、そこには原種の小さなチューリップのつぼみ、シクラメン、
スノードロップなどなど・・
それぞれお花屋さんで見る立派で色あざやかではありませんでしたが、
以前イスラエルを旅した時、野に咲いていたシクラメンの原種と同じでした。
原種の花は茎も細く、葉っぱも小さくて色も薄い薄いピンク色でした。
イエスさまが仰った(野の花)とはこのような花だったのでしょう。
・昨年12月息子たちの家の庭にそっとヒヤシンスの球根を3つ土に埋めてきました。
時々芽が出ているかと覗いてみますが、どうも2つは庭を走る犬の風太君に
掘り返されたようで見当たりません。
1つだけ土の中から緑の芽が出ていました。
暖房の部屋のなかで水栽培で1週間で満開になるヒヤシンスも好きですが
土の中から芽を出す姿は力強い生命を感じます。
子育てをしていると悩みはつきません。これは誰もがもっている共通の認識ではないでしょうか。例外なく私もその一人で、職場で出会う子ども達の親子関係をみる時は客観的にみる余裕があるのに、対自分の子どもになると全く感情のおもむくままになりがちで、イライラしてしまったり、こんなはずではなかったのにと悔やんだり、悩み多き母親になってしまいます。子どもに対する期待と現実の子どもを比べてみたり、想い描いていた理想の子育てとのギャップに苦しんだり、敗北感に打ちのめされることが多い日常を過ごしています。
そんな私の救いは、聖書の御言葉と教会の兄弟姉妹から教えられることです。教会を通して、その時その時の子どもたちのありのままの良さを教えてもらえたり、気づかさせてもらうことが多くあります。それは、「何を持つか」に価値をおく子育てを前面に出すと、子どもの足りなさに目がいき、所有することに躍起になり心がそれにとらわれてしまいます。でも子どものありのままに目を向けていき、「どのようにあるか」を大事にしていったとき、そのことを通して親子でよい時間を過ごし、楽しみ、発見し、本人らしくいられる幸せを感じることで子どもに自信がわき、新たな可能性を見出していく一歩となっていることを体験させてもらえているのです。
「わたしの目にあなたは価(あたい)高く、貴(とうと)く わたしはあなたを愛してる」(イザヤ43:4)という聖書の御言葉は、私らしさ、子どもらしさを、そのまま受け入れてくれ、子育てする上で、私のなぐさめとなり、励ましになってくれています。
by Y.S.
◆イエス様の弟子フィリポがエチオピアの宦官(王の側近で高い地位についている人)に伝道し、バプテスマを授けました。聖書の言葉と福音によってイエス・キリストを信じたこの宦官は、バプテスマを受けた後、「喜びにあふれて旅を続けた」(39節)とあります。このことはこの宦官のその後の生き様を豊かに連想させます。宦官は、フィリポを通して神様の大いなる愛に触れ、イエス様と出会いました。そしてその後、自分が神様から愛されているように、彼自身も多くの人たちを愛する生き方へと導かれていったのではないでしょうか。
◆宦官とフィリポは、聖霊の導きによって不思議な場所で不思議な出会いを体験し、そして、ユダヤ教において神の救いは無いとされていた宦官に、当時の文化や律法を突き抜けて、神様は大いなる救いの御業を成し遂げてくださいました。
◆今日、嶋田信幸さん、幸子さんがバプテスマへと導かれたように、イエス・キリストは今も生きて働いておられます。私たちも教会において、あるいは、日常生活において、いつこのような不思議な出会いが与えられるか分かりません。また、まだバプテスマを受けるに至っていない方も、いつバプテスマへと導かれるか分かりません。聖霊の導きは私たち人間の常識や感覚を遥かに超えています。どんなに不可能に見えたとしても「その時」が来れば聖霊の導きと神様の豊かな配慮の内にすべては成し遂げられるのです。
◆今日こそが、嶋田さんご夫妻にとって、「その時」なのです。皆でバプテスマの恵みを喜びましょう!