【召天者記念礼拝】

聖  書:詩編 23:1~6

説教題:「主はわたしの羊飼い 」

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本当に久しぶりにプールに行った。目的は水中ウォーク。変形性膝関症で痛みの軽減や安定等のために膝周囲の筋力トレーニング、中でも水中ウォークが良いとアドバイスを受けたからである。
黙々とプールの中で歩いているうちに、泳いでみたくなり、25メートルプールを何往復か泳いでみた。最初は苦しかったが、おーぉまだ泳げるじゃんと嬉しくなった。
翌朝起きた時、左の耳が聞こえないことに気付いた。
丁度妻が九州に帰省しているときで、一人で家にいるときは、耳鳴りの不快感以外は静かな世界で生活しているようで、耳が遠い高齢者の疑似体験のようであった。
しかし、片耳が聞こえないだけで、何と不自由なことか。道で後ろからくる車に気付きにくい。歌が歌えない(自分の声の大きさや音程がわからない)。話すときの自分の声の大きさがわからない。車の運転が怖い。料理する時、特に炒め物や揚げ物が不便。
目と耳と鼻、また皮膚で人間は多くの情報を得ているのだ。その一つが欠如しているだけで、何と不便なことか。
相手の立場にたってとか言うのは簡単だけど、耳の不自由な人の立場にたってというけれど、本当はわかっていなかったのだと痛切に思った。様々な関係づくりは、決して相手にはなりえないということから出発すべきものだと改めて思った。
無事、病院で治療して治った時に、わおー、世の中はなんと様々な音に満ち溢れているのか!と驚いた。一気に色々な音が入ってきて、人間は一度に多くの情報を選別する能力があるのだと感じた。
不自由な数日、相手の話していることを聞き漏らさないように一生懸命聞くことが自然にできた。礼拝の牧師の説教もいつになく集中して聞いた!?
様々な情報であふれかえっている時代、様々な喧騒が渦巻く時代、真実の声を聞き分けることは難しい。ましてや、真実の声は小さきものなのだ。前のめりになって、真実をただひたすら追い求めて、小さき御声を聞き分けうるものとなりたい。
「主よ、さわがしき 世のちまたに
われをわすれて いそしむまも
ちさきみこえを ききわけうる
しずけきこころ あたえたまえ」
(讃美歌313番)

by とうちゃん

今週の一面『聖書の訳』9/13  

Shin1

◆コリントの信徒の手紙一7章21節には、奴隷だった人がクリスチャンになってからの生き方について書かれており、以下のように様々な訳があります。
「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由な身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。(新共同訳)
「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。(口語訳)
「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい。」(岩波訳)

◆①は奴隷のまま生きなさい。②と③は自由になりなさい。④は自由になっても...という風にそれぞれ意味が全く違います。一体どの訳が正しいのでしょうか!?訳した人たちは皆、自分の訳が正しいと思って訳しています。これと同じように私たちが聖書を読むときも必ずそこに解釈が生じてくるのです。

◆唯一神の言葉である聖書が訳者によって、また、読み手によってこれほどまでに意味が違ってくるというのは、正に人間の限界と多様性の表れです。それはつまり、聖書を教科書のように、あるいは、ルールブックのように読んだり、用いたりするべきではない!ということを示しているのです。

松﨑 準

聖  書:I.コリント7:17~24

説教題: 「 相違を超えて 」
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今週の一面『福音を伝える』9/6  

Shin1

◆「福音を伝える」とはどういうことだろうか?新約聖書の中の福音書に書かれているストーリーをただ伝えるだけではない。

◆私は、この一週間で多くのノンクリスチャンの方々と出会い、福音を伝える機会を与えられた。しかし、せっかくのチャンスにもかかわらず、なぜか心が重苦しい。何と言って良いか分からないが、焦りのような、言葉にならない変な緊張感がずっと心にある。「こんなチャンスを無駄にはできない。何とかしなきゃ!」という思いがそうさせたのではないかと今になって気付かされる。

◆人が人の心を変えることはできない。どんなに一生懸命になって説得しても、そう簡単に他人の心は変わらない。まして目に見えない神の存在を信じるなんて、もっと難しいことだろう。そんなことを自分の力で無理に相手を説き伏せようとしても、逆効果の場合が多い。相手のためにと思ってしたことが、ただの自己満足、押しつけでしかなくなってしまう。

◆それではどうすれば良いのか。それは、まず自分が神をどう感じているか。神が自分にどう関わってくださっているか。何をしてくださったか等、自分自身が受けたことをそのまま素直に証しすることではないだろうか。そういう意味で、クリスチャンは常に「あなたにとって神様とは誰なのか」と問われているのだと思う。

◆ノンクリスチャンと自分、そして、そこには必ず神様がおられることを先ずは感謝したい。そこで自分の力に頼るのではなく、一緒におられる神様に頼り、自分が神様から受けた恵みや感謝を飾らず、素直に、単純に、分ち合うことこそ、「福音を伝える」ということなのではないだろうか。

松﨑 準

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