今週の一面 10/24  

Shin1

「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
ヨブ記1章21節

◆2009年12月21日、母から「25日朝までにあなたの住んでいる家を引き渡さなければいけない」と連絡。

◆祖父母との思い出がたくさん詰まった一軒家、父の育ってきた大事な場所は一瞬にして業者により「ゴミ」とされ全て投げ捨てられた。

◆クリスマスイブ礼拝の後、茨城から駆け付けた母と「年が明けたら荷物の行き先を連絡します」と約束して最低限の家財をトラックに詰め込んで、不安の中で家を後にした。

◆大きな喜びの日であるはずのクリスマスは大きな喪失の日だった。とてもヨブのようには主を賛美できなかった。

◆しかし、主は奪うだけでなく与える方だった。怒りと不安の中に過ごしていた12月28日、今の部屋をお貸ししていた方から突然電話があり「1月3日に引っ越したい」と連絡。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ヨハネによる福音書14章2~3節

◆教会の隣の土地も、主が用意してくださった場所であれば与えられると信じています。

武林 慧

ハレルヤ!

今年の夏は雨量が多く、私の借りている畑のトマトは、破裂する実ばかりの収穫となり、トマトをサラダの飾りにするより、ソースとして原型を誤魔化した具材として調理することがほとんどでした。

ハーブのほとんどは、育てるのにさほど手はかかりません。甘えのない乾いたヨーロッパの土地は、湿った過保護の日本の土と違い、植物そのものが飢え渇きを覚えると、枯れないように養分を蓄えようとして、芳香が強くなったり、枝葉が太く硬くなる傾向にあるようです。
取り巻く環境が満たされすぎると、何故か芯の弱い、香りも控えめな、そんな育ち方をしてしまいます。
自分もそうでしたが、信仰の力もまた多くを持ちすぎることで、弱められてしまう事と似ていることを感じます。

『律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は捧げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより十分の一の捧げ物もないがしろにしてはならないが』
(マタイ23:23)

この中に登場する、薄荷はミント、いのんどはディル、茴香はフェンネルというハーブで、私は特にディルを好んでサーモンマリネなどの調理の香り付けに使います。またハーブを知るようになって、ディルの和名がいのんどだと知りました。
フェンネルには、次のようなエピソードがあります。米国のキリスト教徒が、乾燥させたフェンネルの種子を礼拝中に噛んで空腹を紛らわせたことから、「礼拝の種子」と呼ばれているそうです。
神さまに育てられている私たちの実が、時に雨も取り上げて渇きを覚えても尚、主に結ばれる実になりますように...。

by MxM

今週の一面『荒野の祝福(4)』10/15  

Shin1

◆神がイスラエルの民を荒野に置かれた二つ目の目的は「従順」です。
従順さよりも完璧な信仰はありません。従順は信仰の頂点です。主イエスは十字架上で不平不満を言わず、人類のすべての罪を背負われました。クリスチャンのまことの姿はここにあります。

◆神はイスラエルの民を荒野という学校に入学させ、彼らが従順であるかどうかを試みられたのです。

◆神が用いられる人とはどのような人でしょうか。一言で言うと、内なる人が変えられた人です。モーセは王の特権を持った傲慢な人でした。最高の教育を受けた人でした。彼は、自分の民を愛する心もありました。その愛国心のゆえに殺人まで犯しました。そんな人が、40年間も荒野で暮らしました。希望のない、そんな所で動物と共に暮らしながらモーセが学んだものは謙遜と柔和、そして従順でした。彼は、内なる人が変えられたのです。

◆神はそのモーセをお用いになったのです。賜物やどんな働きをするかより大事なのは、内なる人が変えられ、「神の用いる人の基準」に人格が変えられることなのです。

◆いつ私たちは前進することができるのでしょうか。内なる人が変えられる時に前進します。イスラエルの民が前進したのは、外にいる敵が滅びたときではありません。イスラエルが前進した時はただ一つ、イスラエルが変えられた時だったのです。私たちの人生は、自分自身(内なる人)が変えられる時に前進します。(続く)

石田政美

今週の風景 No.533  

管理人
ヨセフ物語のクライマックスに入ってきました。
キーワードは「シャローム」。
新共同訳聖書では「シャローム」ではない言葉に訳されている言葉。
訳された言葉を文字通りに受け止めるのではなく原文の言葉と意味を知って読むと、その箇所が示すニュアンスの中に神様からのメッセージが凝縮されていて、ブワーーーーーーっと波が押し寄せてくるような感触でした。
私にも、神様が「シャローム」と言ってくれているような気がしました。

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今週の一面『荒野の祝福(3)』10/8  

Shin1

◆多くの人々が呪いや苦痛として感じる荒野がどうして祝福となるのでしょうか。そこは、終わることのない砂漠が広がっており、人が住みにくい環境です。しかし、荒野の道を歩ませておられる方は神なのです(申命記8:2)。そのゆえに荒野は祝福に変わります。

◆イスラエルの民は神の深い愛と恵みを多く受けました。しかし、彼らはごく小さい問題でも不平不満をもらし、彼らの生活は憎しみと怒りだらけでした。そして、神にむかって反抗し(荒野で神の代わりに偶像をつくり)モーセにむかって非難しました。神はそんな傲慢な民を荒野に置かれたのです。

◆人間の最も大きな問題は傲慢です。そのような人は、自分が神なのです。ですから人を裁き、非難します。サタンの代名詞は傲慢です。

◆神がイスラエルの民を荒野に置かれたのは、二つのことを望まれたからです。一つ目は、「謙遜」です。人生の最も大きな祝福は低くなることです。神はイスラエルの民が傲慢なので、40年間訓練されました。なぜならば、天の御国の民は謙遜にならなければならないからです。

◆本当の神の人は、柔和で、謙遜であり、自分を低くする人です。神は、私たちが謙遜になることを願っておられます。人はどうすれば謙遜になれるでしょうか。苦難に出会う(荒野に置かれる)と謙遜になります。(続く)

石田政美

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