◆私は、現在東京バプテスト神学校の聴講生として、毎週1回授業を受講しています。先日の授業で、『教会は御言葉と聖霊によって世界から選ばれ、召し集められる群れ(エクレシア)であると共に、また御言葉を携えて、神の国の証人としてこの世界へと派遣される群れ(ディアスポラ)である。』という解説で、こんな例話を聞きました。

◆ヨルダン川には、上流から"フラ湖"➡︎"ガリラヤ湖"➡︎"死海"という3つの湖があります。上流の"フラ湖"は、下流に水を放流する(与える)だけの小さな湖で、"ガリラヤ湖"は、上流からの豊かな水(恵み)を受け、下流に水(恵み)を放流する(与える)ので、魚や動植物も多く豊かな恵みの湖です。最下流の"死海"は、上流からの豊かな水(恵み)を受けるだけで、どこにも放流しないために塩分濃度が高くて生物の棲めない正に死の海となってしまったのです。教会も、"死海"のように神の恵みを受けるだけで与えないならば、死の海(教会)となってしまいますが、"ガリラヤ湖"のように、沢山の恵みを受けてかつ沢山の恵みを与えていく(伝道する)ならば、神様からの豊かな恵みによって祝福され用いられる教会となるのです。

◆私たちの教会は、"ガリラヤ湖"それとも"死海"でしょうか?私たちは、主日礼拝に出席して、神様の御言葉によって、慰められたり、励まされたり、希望を頂いたりすることで、霊の糧を頂いて新しい1週間をそれぞれの生活の場で元気に歩むことができます。でも、自分さえよければそれでよいのでしょうか?あるいは、教会の外に出た途端に別の仮面を付けて日常生活を送っている方もおられるかもしれません。礼拝で頂いた恵みを少しでも日常の生活の場で分かち合ったり、伝えたり、あるいは何らかの方法でキリストの香りを放つことができれば、・・・と思わされました。『「礼拝」と「派遣」の循環が繰り返されることが、教会にとっても大切なのです。教会の生命は礼拝にあり、教会の使命は伝道にあります。』と講師の先生は強調されていました。一人一人のこととして、何ができるか考えてみませんか?

『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。』(マタイ28:19)

澤田 猛

先日、教会の話し合いで、お墓を購入することが決まった。ただ、教会のお墓と言っても、何せお金がないものだから、かなり小さいものだ。それでもJOYチャペルとしては、ひとまずこれで、ゆりかごから墓場まで、形は整うことになる。

日本では、ご先祖様を供養するとか、形見を残すとか、そういうことで遺骨は大切にせねばと思う人が大多数だろう。クリスチャンと言えども、そのような影響を知らず知らずに受けているかもしれない。そこまではいかずとも、自分の遺骨も含めて、最後はどうしようと考える必要はある。遺骨をずっと家に置いておくのも何なので、どこかに散骨でもしない限りは、お墓に入れることになる。そんなとき教会にお墓があれば、わざわざ別に探す必要もなくて好都合だ。きっと毎年の召天者記念礼拝で思い起こしてももらえることだろう。また、教会のお墓に入っていれば、もしも自分に子孫ができたとき、ご先祖様はこの世にクリスチャンとして生きていたぞという証にもなるだろう。教会としても、死んだ後まできちんと面倒見ますということで、お墓は必要なのかもしれない。

お墓や遺骨については、個人個人で考え方や境遇など千差万別だろうし、そう簡単に言えることでもない。教会の話し合いでも、若い人から年配の人までいろんな意見が出てきて、結構おもしろかった。私としても、これまでお墓にはほとんど興味はなかったのだが、そんなこんなでいろいろ考えていると、だんだん教会のお墓の中に吸い込まれそうな気もしてきた。まあ、それならそれでもいいか。

By A5

今週の風景 No.491  

管理人
昨日までとは打って変わり暑いくらいの快晴でした。
主は陶器師私たちは土塊
の箇所からでした。
20161113_01.JPG

ろくろに回っている状態は日常生活のようなものとの解説から、自分と神様の関係がとってもイメージしやすくなりました。
神様に接していないと、ろくろの上の粘土は遠心力でどんどん外に膨らんで形が壊れてしまいますよね?
つまりそういうことなのかな、と。

私は高校卒業まで教会には全く無縁でしたが、22歳の時のちの妻が日曜日の礼拝に誘ってくれたため、教会に足を踏み入れることができました。
妻の誘いがなかったらクリスチャンにはなっていなかったでしょう。
ただそれ以前の4年間でも、密かに神様は私を誘っていてくれていたのかなと思う出来事があるんです。3つほど。

1.浪人時代に予備校の寮で日曜日に「教会に行ってくる。」という寮生がいて、えっなんだそれ?と不思議に思ったこと。彼はいつも喜びに満ち溢れた顔をしているのが印象的でした。

2.寮で一番仲が良かった友達に大学見学に誘われたのですが、それは私が興味がないキリスト教系の大学だったので始めは断りました。しかし熱心に誘うので「まあ気分転換に行ってみるか?」と思い渋々行ったのですが、結局私の方が気に入ってしまい、受験して入学してしまいました。

3.大学の授業で構内の礼拝堂には行ったことがありました。単位取得のために必要でした。

教会に導かれるきっかけは人それぞれです。友達、妻、夫らからの誘い。教会のイベントをチラシやホームページで知ったり、ふと歩いていて立ち止まった教会掲示板の案内を目にして知ったり。
それは間違いなく"神様からの"お誘いです。是非行ってみて下さい。
みんな暖かく迎え入れてくれるはずです。いえ、迎え入れます。私の場合もそうでした。なぜそんな暖かく迎え入れてくれるのか?と思いましたが、その後、だんだん分かってきました。一緒に、私たちを創造し見守ってくれる神様のことを共に喜び、苦しいことも楽しいことも分かち合いたいからなんです。お待ちしております。

by とと

◆「年寄りになることにコツはいらないが、年寄りでいることにはコツがいる」とゲーテが言ったのは、彼が83才の時のことだったと言われています。老いは自然的出来事ですが、老いを意味あることとするには、どういうコツがいるのでしょうか。それは各人が見つけていくべきものなのでしょうか。先日こんな言葉が目につきました。

◆「もういい年なんだから欲張らずにあきらめるのが肝要ですよ」と。そうでしょうか。私は77才の今、こう思うのです。「欲張らずにあきらめるからこそ、人は老いこむのだ」と。

◆もちろん何について欲張るのかが問題ですが、「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ3:14/口語訳)姿勢を保つことは、周囲や後に続く者たちを鼓舞することになるのではないでしょうか。

◆ヨシュア記14章に出てくるカレブという人は、とっても刺激的です。彼は85才でしたが、「私の今の力は、戦いにも堪えることができます」と言い、「この山地を私にください」と願っています。恐ろしげな巨人の住んでいるユダの山地で最も高い所にある難攻不落の町へブロン、神が45年前カレブとその子らに約束した山地を!」と言っているのです。

◆クラーク博士をもじって言えば、「老人よ、大志を抱け!」です。自分に乗り越えるべき山がある限り、人は老いないと言われます。大志を抱き、乗り越える山をめざして歩む年配者のいる教会は幸いなるかな。

石田政美

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