◆3月3日(土)から5日(月)まで天城山荘で行われた西南学院大学名誉教授小林洋一先生による「信徒のための旧約学セミナー」に参加しました。ヘブライ語を読み解きながら詩編全体について講義を受けましたが、老兵にとっては少しきつい三日間でした。しかし、これまで知らずに読んでいた詩編を少しだけ理解できるようになりました。◆詩編の各編には標題がついていますが、1編と2編にはなく1編と2編は詩編150編全体の標題になっています。1編は神の教えに強調点を置く「人生の道しるべ」(トーラー)となっており、2編はメシア預言となっていて、バビロン捕囚後の信仰共同体が生き抜く2本柱となっている。詩編は賛美、祈祷(歎願、感謝)、黙想の書である。

◆講義は5コマ(1コマ2時間)行われたが、授業の初めには毎回、詩編23編を小林先生の後に続いてヘブライ語で読みました。
「主は(わたしの)羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1)「何も欠けることがない」は出エジプトの荒れ野時代の想起(申命記2:7、あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。)

◆「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。」(4)
「死の陰の谷」とは死とは無関係で暗闇、深い闇を意味する。「あなたがわたしと共にいてくださる」(4)神の臨在が、この詩編全体を覆う。このセミナーに参加して相対化され、自由にされたことを感謝したい。老兵の新しい出発としたい。     

神山 武

今週の風景 No.550  

管理人
今日は武林兄による信徒メッセージでした。
「私のせいじゃない」
と言うドキッとする題名でした。
来週はイースター礼拝に坂西牧師の就任式にバプテスマ式と喜び盛りだくさんの日曜日になります!

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◆私は牧師になるように神様から示された時、とっても躊躇しました。そんな時、最後の晩餐の場面でイエス様が弟子のペトロに向かって噛んで含めるように、教え論された。「しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ27:32)の一言で、献身の決断ができたのです。

◆まさに「あなたのために」そして「わたしのために」祈ってくださるイエス様の熱い祈りがまず最初にあるからこそ、私たちは立ち直ることができるのです。そのように祈られているからこそ、弱く愚かなものであるにもかかわらず、信仰を失わずにいることができていることを知らされました。

◆弟子でありながら、弟子として従いつづけることのできない弟子たち、いざとなると弱さを露呈し、自分の都合次第で主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち、そんな人間たちばかりが集まって、主の人生における最後の食卓を囲んでいる。それが最後の晩餐の情景。そこにこの私も招かれている。そのことを強く知らされたことも献身の決断となりました。

◆牧師になり主の晩餐式のたびに「あなたにはやり直すチャンスがある」「あなたは今までと違った自分になれる。神様の恵みのもとで、新しい人間として生きることができる」という「力づける」メッセージを心に秘め、執り行っているのです。

石田政美

ハレルヤ!

受難節に入りました。
イースターにバプテスマを受ける友が、その日まで守られるように、祈りに力が入ります。

先日バッハ・コレギウム・ジャパンが主催する、J.S.バッハ ヨハネ受難曲をオペラシティ コンサートホールに聞きに行って来ました。
足の骨折で断念した姉妹が貴重なチケットを譲って下さり、心から感謝です。

ホールに入る前に、ヨハネによる福音書18章から19章を声に出して読みました。何故、それをしたかと言えば...主がそう導いたからとしか言えません。
台本歌詞冒頭から終わりまで、コレギウムジャパンの演奏を聞いていたのに、「主の栄光を見た」感覚に陥ったのです。
ラストのエヴァンゲリストの放った歌声「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」ヨハネによる福音書19章40節...このイエス様を包んだ布は、亜麻という植物の茎から作られるリネンの事で、種(フラックスシード)からは油が取れ、今日では生活習慣病予防に効果がある亜麻仁油としてスーパーに陳列されています。

2000年前の聖書のみことばが、現代の私達の口に繋がって来たように、イエス様の肌を包んだ植物もまた、私達の生活を取り込んでいるのですね。

この日のバッハ コレギウムジャパンの演奏の素晴らしさは言うまでもなく、チェンバロ、リュートの音色は、中世の時に私を連れて行き、プロを超えた一流の音や言葉は、何より、神ご自身が奏でた受難曲でした。

草花の芽吹きと共に、イースターを待ち望みます。

by MxM

◆主イエス・キリストの最後の日々「受難物語」と言われる一連の物語を読み進めていくと、徐々に主人公であるイエス様ご自身が、ひとり孤独な姿で、ぽつんと浮かび上がってくる印象を受けます。

◆最後の晩餐の数時間後に、ゲッセマネの園で主が逮捕された時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げ出しました。裁判が行われている時、弟子たちは誰ひとりイエス様の証人として立ちませんでした。ゴルゴダに向かうイエス様の十字架を運んでヴィア・ドロローサを歩いたのは、ペトロではありません。イエス様がつけられた十字架の左右で一緒に処刑されたのも、弟子たちではありません。そして、イエス様の遺体を取り降ろしたのも、その体を清めて墓に納めたのも、弟子たちではなかったのです。

◆同じ時間、同じ場所で、同じパンとぶどう酒にあずかりながら、虚勢を張る弟子たちの姿の中に、「やがて起こるべきこと」をよくよく知りながら、自分を見限る者たちと共に生涯最後の食卓を囲んでいるイエス様の姿、ひとり孤独な姿が浮かんできます。

◆「私は信じています。大丈夫です」と自負しながら、いざとなると弱さを暴露し、自分の都合次第で、主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち。イエス様の弟子とは、ひとりの例外もなく、「そんな人間たち」ばかりが集まって、主と共に、主の人生における最後の食卓を囲んでいる。それが、最後の晩餐の情景です。

石田政美

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