◆サムエルによる油注ぎを受けたサウルは帰途につきました。サムエルの言っていた通りの出来事を受け、サウルは心を新たにされていきました。しかし、サウルはおじに対して、自分自身に起きた出来事すべてを話したわけではありませんでした。王位については語らずに黙っていたのです。

◆サムエルは、ミツパに民を呼び集めました。王を選ぶにあたり、出エジプトから士師の時代に至るまでの神様の確かな守りと導き、恵みを思い返しました。それと同時に、民がこのような恵みをくださった神様を退け、王を求めていることを明確にしたのです。

◆くじによる選出は、旧約聖書でも新約聖書でも行われています。ここでのくじは、ヨシュア記で行われているものと同様に大きい単位から小さい単位に絞る方法が取られます。この方法によって、サウルは選び出されました。ここで大切なことは、くじによる選定ではなく、くじの前に「主のもとに」集まったことが大切だと考えます。新約の使徒たちの選出の時のように祈りがなされていたことは明らかになっていませんが、サムエルはくじに先立ち祈っていたのではないかと考えられます。つまり、方法ではなく、祈りをもって主の御心を求めて行っていくことが大切になるのです。

◆サウルは、くじによって選ばれました。彼の行動は、謙遜のように見えますが、謙遜ではなく、自信のなさの現れでした。民はそのサウルを「王様万歳」と喜び叫んで受け入れたのです。サムエルは民に王の権能について語りました。神に心を動かされた勇士たち、すなわち信仰者たちは主がサウルを選ばれたということを確信し、サウルについて行きました。一方で、ならず者たちは、サウルを侮り、ついていくことはしませんでした。彼らは、主の御心ではなく、自分自身の判断で行動していたのです。私たちは、主に心動かされる者となり、主の御心を求めていく者でありたいのです。

坂西恵悟

◆いよいよ、待望の王様が誕生します。サムエルは、サウルの頭に油を注ぎ、主がサウルを指導者として選ばれたことを伝えました。この油注ぎは、サムエルとサウルの間だけで行われました。つまり主なる神様がサムエルを介してサウルを王として任命されたのです。

◆油を注ぐ儀式は、物や人を聖別するために行われたものです。王だけでなく、祭司や預言者を任命する時にも行われました。サムエルはこの油注ぎは主からのものであることをはっきりと明言しました。
主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」(10:1)

◆サムエルは、サウルに油注ぎの後、これからサウルに起こることを告げました。①二人の男に会うこと。②礼拝に行く3人の男と会い、2個のパンを受け取ること。③預言者の一団に出会い、主の霊がサウルに激しく降り、預言をする(新しい人/新改訳)状態になること。この3つがサムエルが伝えたものでした。サムエルはさらに、サウルに対してそのしるしを受けたら「しようと思うことは何でもしなさい」と言いました。新改訳2017では「自分の力でできることをしなさい」となっており、口語訳、新改訳3版では「手当たりしだいに何でもしなさい」と訳されています。

◆主の霊が降り、新しい人とされたサウルでしたが、彼の行動は主の願われたものへとはなっていきませんでした。サムエルからギルガルで待つようにと命じられながらも、それを守らずサムエルに代わり全焼のいけにえをささげました。結果、主の霊はサウルから離れ、悪霊がサウルをさいなむようになったのです。(16:14)

◆「しようと思うことは何でもしなさい」とは、自分自身からの出てきたものではなく、神から出てきたものを行っていくということです。ですから、主の言葉を第一にしていくことが大切なのです。

坂西恵悟

◆木曜日は、洗足の日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りの日でした。金曜日は受難日でした。この1週間、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。

◆マルコ14:3-9はこの時期に読まれる箇所の一つです。イエス様がベタニアのシモンの家にて高価なナルド香油を注がれる箇所です。

◆彼女の行動には2つの意味があります。一つは、イエスに香油を注ぐことは、イエスが救い主、メシアであることを告白していることです。メシアは「油注ぐ」という意味から来た言葉です。ですから、彼女の行動はイエスが救い主であるという信仰による行動なのです。

◆もう一つはイエスご自身の口から仰っています。「埋葬の準備」をしたということです。ヨハネ福音書を見ると、この女性はマリヤであるとされています。この女性がマリヤならば、イエス様の話をよく聞いていたと思いますし、意味を知った上での行動でもあったと思います。

◆この時、イエス様が救い主であり、十字架の死によって罪を贖ってくださる方だと信じていたのは、この女性だけだったかもしれません。弟子たちはイエスが逮捕された時、逃げました。そして、ヨハネによると、彼女の行動を否定したのはユダですが、おそらく他の弟子たちも彼女の行動を理解できていなかったことでしょう。

◆イエスキリストが"わたし"のために十字架にかかってくださったことをこの週、特に覚えたいのです。愛を持って、罪から救ってくださった。そのために、ご自身を犠牲にされ死んでくださった。この主の愛は、ここにいた人々だけでなく、今を生きる私たちにも同じように注がれているのです。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた。」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(2コリント6:2)

坂西恵悟

◆サウルは、同行した若者の提案を受け、先見者(すなわちサムエル)に会いに出かけていきます。サウルは、サムエルをサムエルはサウルを知ることはありませんでした。しかし、サウルがサムエルに会う前日に、主なる神様はサムエルに対して語られていました。サムエルに語られた主からの言葉は驚くほど具体的な内容でした。イスラエルの指導者になる人物は、ベニヤミンの地から出るということ。その人物が明日サムエルの場所へと遣わすことが語られていったのです。

◆神様は、イスラエルの民の叫びを聞いておられます。その声に応答してくださり、イスラエルをペリシテの手から救い出してくださるのです。そのためにサウルを神様は召し出してくださいました。サウルは自分自身が最小の部族のベニヤミンのものであること、そのベニヤミン族の中でも最小の一族の人間であることを告白します。このことからも、神様は、最も弱いものを選ばれ、へりくだった者に恵みを与えられる恵みと慈しみに富んだ方であることが表されています。

◆ベニヤミンの地からやってくるのは「王」ではなく「指導者」です。「指導者」の原語は「告知を受けた者」という意味です。ですから、王様へのプロセスは民に選ばれることも必要ですが、その前に主なる神様が選ばれているということが大切になるのです。

◆神様は、最小の部族、最小の一族から王を選ばれました。人間の主権からではなく、主なる神様の主権がイスラエルにのぞんだのです。私たちは、主の前にいつも謙遜になり、仕えるものとして歩みたいのです。

坂西恵悟

◆いよいよ、イスラエルに最初の王様が誕生します。サウルです。サウルはどのような人物でしょうか。彼は、ベニヤミン族のキシュという人の息子でした。彼は、美しい若者であったとされ、彼よりも美しい者はいなかったと聖書は言います。彼は高身長でした。他の民よりも肩から上の分とありますので、頭ひとつ飛び抜けた高さだったことでしょう。容姿端麗な人物だったわけです。

◆私たちはリーダーに対して、完璧さを求めます。能力や外見も知らず知らずのうちに求めています。サウルはイスラエルの民の中でも目立つ存在だったことでしょう。そのサウルが選ばれるということはイスラエルの民が願っていたことかもしれません。主はイスラエルの民が望んでいるような人物を用意されました。

◆サウルは、父キシュのろばが数頭いなくなったので、若い者と共に捜しに行きました。エフライムの山地からベニヤミンの地へと歩きましたが見つからず、ツフの地で引き返すことを決心したのです。同行した若者は、サウルに対して「神の人」が近くにいることを伝え、会いにいくようにと提案しました。「神の人」とはサムエルのことで、サムエルはイスラエルに神の預言者として認められていました。サムエルのもとに行けば、自分たちがいくべき道が示されるかもしれないと思ったのです。

◆まさに彼らは、神様の言葉を頼りにしていったのです。そこには確かな主の導きとご計画が用意されていました。私たちも、方向性がわからなくなった時、主に尋ね求めていきましょう。神様に向かい、信頼していきましょう。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3:5-6

坂西恵悟

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