◆この26章を読み進めていくと、24章の内容に非常に似た内容となっていますが、別の出来事です。24章では、サウルが用を足すために入った洞窟の奥にダビデがおり、偶然にもサウルの命を自由にするチャンスが巡ってきたことが記されています。この26章では、ダビデがサウルの眠っているところへと乗り込み、サウルの命を自由にできるチャンスを作りだしたことが記されています。

◆ダビデは24章の時に従者から提案されたように、この26章でも似たような形で提案をされました。寝ているサウロの寝床へと忍び込み、そこで、サウルを打つことを提案されたのです。しかし、ダビデは24章のエン・ゲディでの時と同じように、主が油注がれた方に手をかけてはならないと言い、この申し出を退けました。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう」(26:11-12)と言い、槍と水差しだけ持ち帰りました。

◆ダビデがこの言葉において表したことは、主なる神様の計画に対する揺るぎない信仰です。主の御心を求め、素直に従う信仰です。ダビデは自分自身が神様のご用のための器であることを知っていました。神様の歴史のご支配、摂理に委ねて生きる信仰者の姿をダビデは表したのです。

坂西恵悟

◆日本に古くから「御恩と奉公」というものがあります。これは鎌倉時代からあるものです。この「御恩と奉公」の精神は、現代社会の中にも残っているかもしれません。時に恩を仇で返すということも起こります。

◆サムエルの死は、ダビデにとって霊的な指導者を失ってしまうことでした。これまで、事あるごとに頼っていた存在がいなくなることは大きな悲しみだけでなく、痛みでもあったことでしょう。そんな中、ナバルとの関係が悪化する出来事が起きます。

◆ナバルは、マオンという場所に住む裕福な人物でした。ナバルは彼の牧童の面倒を見ていたダビデに対し、まさに恩を仇で返す行動をしたのです。このことに怒りを覚えたダビデは、ナバルの家に属する男たちを打つことを決めたのです。このダビデの姿はサウルのような姿です。しかし、このダビデの怒りを鎮め、ダビデの失敗を止めた人物が現れます。アビガイルというナバルの妻です。彼女は、非常に聡明な人物でした。ナバルの行動が間違っていることを認め、とりなしたのです。アビガイルの行動がなければ、ダビデはサウル同様に復讐をしていたに違いありません。自己中心的に物事をとらえ、行動していたことでしょう。けれども、アビガイルによって、その行為は止められました。主がアビガイルを遣わしてくださったことを受け入れ、その言葉に従い、彼女らを祝福したのです。

◆神様は、私たちに必要な助け手を必ず備えてくださる方です。これまで助けてくださった方が様々な理由で去られたとしても、主は私たちを見捨てず、見放さず、必要な助け手を備えてくださるのです。自分の罪から出る思いに囚われるのではなく、主から出る思いに捉えられ、歩むものでありたいのです。

坂西恵悟

◆サムエル記上24章は、ダビデの逃亡劇の中でも有名な箇所の一つにあげられるのではないでしょうか。私が小学生の頃のCSでも取り上げられることのある箇所です。

◆ダビデをあと一歩のところまで来ていたサウルは、使者の言葉を聞き、ペリシテ人の方へと向かいました。ダビデは、サウルがペリシテ人と戦っている間に、エン・ゲディという場所へと逃げていきました。この場所は、岩山に囲まれた場所でありながら、水が豊富にあり、冬でも暑さを覚える場所でもあります。当時の人々にとっては、山羊や羊を飼うのに適した場所でもありました。いたるところに洞窟があり、深くまで伸びている洞窟や枝分かれしている洞窟、他の洞窟につながる洞窟など様々でした。ダビデは600人を連れていましたが、彼らが入るほどの十分な広さの場所だったのです。

◆ペリシテとの戦いを終え、再びダビデを追ってきたサウルは、ダビデたちが隠れていた洞窟へと来ました。そこでダビデは、主が油注がれた方、自分の主君に対して、命を奪うということは絶対に行わないことを表し、サウルの上着の端を切り取りました。サウルを襲うことは、主に逆らうことであると思っていたからです。

◆ダビデは、洞窟を後にしたサウルを追い、声をかけました。その後、洞窟内での出来事を説明し、自身が反逆者でも罪を犯すものでもなく、王に従順であることを伝えたのです。サウルは、ダビデの信仰の表明を聞き、ダビデの主張を認め、ダビデが王になり、王国が確立することを語ったのです。しかし、サウルはこのように語っていても、悪霊に支配され、ダビデを追う行為を繰り返しています。信仰への道、主の言葉に聞くことの難しさを、私たちはサウルを通して多く教えられます。

◆私たちは、不信仰になってしまった時、必ずしも悪い行いだけをするとは限りません。そこに、主が働いてくださり、私たちを主の器として、お用いくださることもあるのです。神様の御計画の深さを知ることができます。主は、信仰の言葉を用いられ、サタンに支配される人の信仰を正しい姿に戻される方であること、ここから知ることができるのです。

坂西恵悟

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