ハレルヤ!

この夏、音楽と山を楽しむ祈りの旅に出かた。
長野は軽井沢〜松本〜上高地と移動しながら、外国人宣教師が拓いた、種蒔かれた地を歩いてみた。

素朴な木の教会から、石造りのモダンな礼拝堂を持つ教会まで、様々な佇まいにやさしい光が注がれ、静寂な時に包まれるひと時。

ある教会からは、ブルーグラスの調べが流れて来て、足を止めて礼拝堂に入ると、バンジョー、ギター、マンドリン、ウッドベースを奏でる4人の外国人が、こんな賛美を歌っていました。

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小さな教会、と言うタイトルの曲に熱くなった...。

ガラ〜んとした礼拝堂に、歌に誘われて教会に足を踏み入れた観光客が、少しずつ席を埋めて行く。

宿泊するホテルに隣接された教会でも、夜にゴスペルの練習をしていて、毎年この夏の時期にコンサートが開催されている。

私にとっての観光パワースポット...どうやら、どこに出向いても、十字架とやさしい光と神を賛美する音楽に引き寄せられてしまうようだ。
by MxM

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
(箴言17:1口語訳)

◆家庭は、人間のアイディアではなく、神様のアイディアです。神様は、アダムとイブの結婚において史上初の司式をされました。彼らに「生めよ。増えよ。地を満たせ。宇宙万物を従え、支配せよ。」と言われました。しかし、今日の家庭はサタンの第一攻撃目標となり、破壊されています。

◆私たちの信仰の花が咲き、実が結ばれる最初の場は家庭であるはずです。まことの信仰は、家庭の回復から始まります。ですから、イエス様を知るようになれば、神の合わせ給う夫婦は、離婚の危機にあっても夫婦が一つとなり、去って行った子どもが立ち返り、行くところのない老人たちが保護を受けます。

◆まことの信仰は、まことの家庭の回復と癒しを作り出すものです。世の中でどんな役職を持っていようとも、それ以前に神にあって最も良い夫であり、母親であるとき、神様は栄光を与えられます。

平和とは、ただ争いがないということではありません。"いっさいの基盤は神である"という信仰による祈りのある家庭のことです。

石田政美

今週の風景 No.479  

管理人
今日は石田牧師のメッセージでした。
礼拝の中で一人の小さな兄弟の信仰告白とバプテスマ式がありました。

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クリスチャンになり、教会に集うと、よく「○○兄弟」と呼ばれることがあります。キリスト教初代教会のころから、クリスチャンになるとお互いを兄弟、姉妹と呼ぶようになったようです。

私は一人っ子なので、子どものころから兄弟姉妹がいる友だちを羨ましく思うことがありました。

学生時代に3ヶ月ホームステイでお世話になったクリスチャンファミリーに小学生、中学生の女の子2人がいました。いつも「おにいちゃん、おにいちゃん」と呼んで親しく接してくれる妹たち。「おにいちゃん」と呼ばれることに慣れていない私には、照れくさく、恥ずかしい気持ちもありましたが、とても優しく、暖かい気持ちになりました。

アメリカ留学中、クリスチャンになり、たまたま訪れた教会で、Hi Brother (こんにちは、兄弟)と初めて出会った人に呼びかけられることがありました。つながりはお互いにクリスチャンであるということだけ。初対面にも関わらず、「よう、兄弟!」と呼ばれることは、一人っ子の私にとって非常に嬉しい響きがあります。

留学中、1週間のクリスチャン修養会に参加したことがあります。その中にとてもとても仲の良い2人の姉妹がいました。そのように仲の良い兄弟姉妹を見たことがなかった私には大きなカルチャーチョックでした。信頼で結ばれた仲の良い姉妹って本当にいいなぁと。その姉妹のうちの1人が、のちに私の妻となりましたw。

聖書の中には、パウロが書き送った沢山の手紙が収められています。その手紙は、パウロが信仰に導いた多くの教会や人々、パウロを助け同じように伝道で苦労している同労の友、様々な問題に直面する教会に向けて綴られています。そのパウロが送った手紙の中には、「兄弟たち、」という呼びかけを多く見ることができます。
実際に会うことが難しく、今のように便利な電話などの通信環境が全くない状況の中、
心からの感謝や、励まし、心配、ときには戒めのことばを、自分の愛してやまない兄弟姉妹に向けて手紙で書き送りました。どんなにかその「兄弟姉妹たち」のことを真剣に考え、愛しているかが、その手紙から伝わってきます。

私も、愛する兄弟姉妹に対して、常に尊敬の念を持ち、感謝を表し、励ましと慰めを与えられる者でありたいと願います。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 」

ローマの信徒への手紙/ 12章 10節

by しん1

「種まく人」は、19世紀フランスの画家ミレーによる1850年の作品で、岩波書店のシンボルマークとしても有名です。農家の生まれであるミレーは、幼い頃見た父の働く様子を思い出しながらこの「種まく人」を描いたと言われています。

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イエス様は人々に教えを説く際、難しくて分かりにくい難解な教義ではなく、日常の身近な事物や出来事を題材とした「たとえ話」を用いています。「種をまく人」はイエス様、「種」はイエス様の言葉・教え、種がまかれる「土地」はイエス様の教えを聞く者の心の態度を表しています。
この農夫の姿には躍動感がみなぎっています。大股で大地を歩く姿、右の手のひらに種を一杯握りしめて種を蒔く姿はダイナミックで農夫ミレー自身を描いているようでもあります。彼は聖書に親しみながら種をまくたとえをよく知っていたことでしょう。
 この絵の農夫の姿には、貧困であろうが、種が鳥についばまれようが、日照りで不作になろうが、種に希望を託している農夫の意気込みが伝わってきます。ミレーはおそらく自らが大地に蒔かれた種であり、人に踏まれても、鳥が襲ってきても、雑草に覆いかぶせられても、生き続ける逞しさをキャンバスに叩き付けていたように思います。
 多くの教会が伝道(種まき)に行き詰まりを覚えている現代にあって、ミレーの「種をまく人」のようなダイナミックさが必要かもしれません。    

松﨑 準

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