ある老人ホームの朝の集会室。「ジャガイモの種芋を植え付けましょう」と呼びかけたら8人の方が集まってこられた。種芋はどれも赤黒い芽を付けている。芽が出やすいように芋を切ってくださいと声をかけると、われ先にと包丁を握って、芽を見つめるまなざしは真剣そのもの。日頃は気が合わず口げんかの絶えない人達も、この時ばかりは芋しか見てないからもめることもない。

この方々と野菜や花を育てるようになって10年。ひょんなことから「園芸療法」というのを知り、学んでからのこと。病気やさまざまの障碍と共に暮らす生活を草花や野菜たちがどんなに豊かに支えてくれるかを見せていただいてきた。「統合失調症になって家庭にいられなくなった」、「家族に虐待を受けた」、「トラブルに巻き込まれて全財産を失った」等々、会話の端々に、頼るべきもの、支えを失ってここにたどり着いた、お一人おひとりの人生が顔を出す。

「先月の園芸の時間に蒔いた芝の芽がまだ出ない。隣の人のは出たのに。わたしのは全然生えない」と怒り出した女性は、この活動の10年変わらないメンバー。収穫の時を楽しみにし過ぎて、しばしば一足先に味見してしまい、他のメンバーを怒らせる。
小さないざこざはありつつも、種が芽を出し、花を咲かせ、実をつける、そうした植物の営みが、お一人おひとりにあたりまえの暮らしのよろこびを運んでくれる。

園芸療法の先生から聞いた種の話が心に残っている。「小さい種は、一粒ポツンと蒔くより2、3粒一緒に蒔く方が芽が出やすいんですよ」。わたしたち人間も神様に蒔いていただいた小さな種のようなものだろう。ポツンと埋もれて芽が出ないと焦る、隣でも、そのまた隣でも、似たような種が埋もれている。しかし、互いにぬくもりを感じ合えれば、こわばった心が和らいで、少しずつ伸びる芽が見えてくるに違いない。本当に祈り合う人たちに出会った今、そう信じられるようになった。

「地は主の恵みに満ちている」(詩編33:5)
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18:19)

by おたね

 今日から2017年度が始まりました。御言葉をもって新しい一年を歩ませていただきましょう!
 「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」
(創世記26章25節)
創世記26:15以下に、イサクたちが苦労して掘った井戸を何度も奪われてしまうことが記されています。そのような理不尽な仕打ちにもかかわらず、イサクは争いを避けて主の言葉に従い歩み続けます。争いを避けて逃げてばかりのイサクは何とも頼りなく見えます。しかし、そんなイサクに主は現れてくださり、励ましてくださいました(26:24)。そこで、イサクは先ず祭壇を築き礼拝しました。その後に、彼は天幕を張り(住む場所を作り)、井戸を掘った(働いた)のです(26:25)。このように、私たちの日常生活においても「礼拝を第一とする」ことが最も大切です。「礼拝から送り出されて、また礼拝に戻って来る生活」は、月曜日から土曜日までの日常生活において、常に主なる神様を意識し続けるということです。それが「礼拝のために心を備える」ことなのです。
また、今年度は牧師辞任というチャレンジがありながら、一方では、日立教会支援の継続やバプテスマ決心者が与えられる、という嬉しい出来事が起こっています。これは、教会(私たち)の状況や都合に関係なく、神様の御計画・御心は実現していくということ。それは誰にも止められない、ということを知らされます。つまり、神様がこの教会の中で働き、この教会を更に豊かに用いようとされているのです。
 この神様の思いに応えるために、喜んで精一杯仕えていきたいと思います。そのためには、まず私たちが互いに認め合い、赦し合い、愛し合い、キリストにおいて一つとならなくてはなりません。そして一つになるためには、一人ひとりが礼拝を第一とし、礼拝において一つとされることが必要なのです。
 新しい一年、主のために、そして、JOYチャペルのために、皆で祈り合い、支え合って、歩んで参りましょう!

松﨑 準

今週の風景 No.508  

管理人
新年度のスタートです!
巻頭言から
「礼拝から送り出されて、また礼拝に戻ってくる生活」は、月曜から土曜までの日常生活において、常に神様を意識し続けるということ。

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