今週の一面 6/30  

管理人

◆今日は使徒パウロが、自身の弱さや様々な困難の中でどうやって神様に希望を見出したのか、見てみたいと思います。パウロの言う弱さとは何でしょうか?パウロはⅡコリント12:7で「一つのとげ」が与えられたと言っています。それが具体的に何かは、聖書では明らかにされていません。パウロはそのとげを取り去ってくださいと三度、神に願いましたが、それは叶いませんでした。その代わりに、神様から次の言葉が与えられました。12:9「「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そしてパウロはこう言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」

◆ここでいう弱さとは、生まれつき持っている病気や体の障害のことです。あるいは病気などで肉体的、精神的に弱っている状態を指します。パウロはその弱さを「とげ」と表現しています。とげ、というと皆さん何を想像されますか?とげは尖っていますから触れると痛いです。ですから「とげ」とは、あまり触れたくない、考えると心が痛くなるような、自分自身についての部分と言えるでしょう。それは例えば、パウロのように身体的な部分、あるいは性格的な特徴でもあり得ます。皆さんお一人一人も、とげがあるのではないでしょうか。パウロのとげとは、パウロ自身が触れたくない、考えたくない部分だったのでしょう。

◆​何回も祈ったのに、そのとげが自分から離れていかないと知ったとき、パウロは自分の弱さを認め、受け入れました。そして誇ったのです。誇るとは、隠さないで、堂々と他の人に見せることです。それは、キリストの力がパウロに宿るためでした。
嶋田和幸

◆エジプトを脱出し、神様の多くの奇跡と御業を体験したモーセのもとに、しゅう とであるエトロが訪問しました。エトロは、神様がモーセとイスラエルの民になさ ったすべてのこと、エジプトから導き出されたことを聞いて、モーセの家族と共に モーセのもとへと訪れたのです。エトロを迎えたモーセは、神様がイスラエルのた めにファラオとエジプトに対してなされたこと、道中での神様の御業を話しまし た。このような証を聞き、またエトロ自身も目の前にある雲の柱、火の柱、マナを 目の当たりにして驚き感動を覚えたことでしょう。エトロはこの証を聞いて喜び、 主を賛美し、いけにえをささげました。(出エジプト18:10-12)

◆異邦人であるエトロがこのような行動に出るほど、神様の行われた御業がどれほ ど素晴らしいのかを知ることができます。エトロはイスラエルのことを耳にしてい ました。そして、実際にモーセと話し、目の前の出来事を見て、主を賛美したのです。 まことの神様を信じる人が、神様に信頼を持って従い、神様の力と神様の恵みを体験 する時、まことの神様を知らない人に対して、主を証することができるのです。

◆私たちは、神様の恵みに満ちあふれた日々を送ることが出来ているでしょうか。 私たちの日々の歩みの中に、主が働き、主の偉大な御業と力と恵みと愛を私たちは 見つけることが出来ているでしょうか。神様のもとに一歩進んだ時、私たちの目の 前には主の偉大な御業、力、豊かな恵み、変わらぬ愛が広がっています。その恵み を受け取る時、私たちの口からは主への賛美で溢れることでしょう。また、私たち の歩みを通して、周りの人々も主を賛美することができたら、なんと素晴らしいこ とでしょうか。

「主をたたえよ・・・今、わたしは知った・・・主はすべての神々にまさって偉大 であったことを。」(出エジプト18:10-11)

坂西恵悟

◆人間は、弱いものです。神様の素晴らしい御業を体験しても、時間が経つ と忘れてしまいます。イスラエルの民も例外ではありませんでした。むし ろ、彼らの姿は、弱さをよく映し出しているものでもあるでしょう。十の 災いの奇跡を目の当たりにし、エジプトを脱出した後も目の前には雲の柱、 火の柱が導いているにも関わらず、彼らの口からは恐れや不満でした。エジ プトの民は、後ろから迫ってくるエジプトの大軍に恐れました。エジプト の神々を打ち砕いた方がいるにも関わらず、彼らは、目の前のことに集中 していたのです。

◆私たちも、神様からの恵みを忘れてしまうことがあります。そして、試 練の中で恐れてしまうことが、よくあると思うのです。過去の恵みを早くに 忘れ、今の不安定な環境に飲み込まれてしまいやすいものです。

◆葦の海での出来事は、イスラエルの民にとって大きな試練の一つです。 しかし、この試練は、神様によって与えられたものです。試練も、神様の 御手の中にあるのです。この試練の中において、イスラエルの民は、主に 向かって叫びました。試練の中において信仰をもって、助けや守りを神様 に求めることは、とても良いことです。しかし、このイスラエルの民の叫 びは、不平不満な叫びでした。彼らは、神様だけにではなく、リーダーで あるモーセに対しても言ったのです。彼らは、エジプトから救ってくださっ た神様の御業に不平を言い、エジプトに戻ることを望んだのです。神様の 御業を否定することほど、残念なことはありません。ここに、私たちの弱さ が、顕著に表されているのではないでしょうか。モーセは、イスラエルの 民に言いました。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の 救いを見なさい。」(出エジプト14:13)

◆主が、私たちのために御業をなしてくださいます。その御業を感謝し、主 に信頼するものでありたいと願います。

坂西恵悟

◆アロンを助け手として与えられ、ファラオの元へと遣わされたモーセ。イスラエルの民をエジプトから出してほしいと願うもファラオには聞き入れられませんでした。ファラオの心は頑なでした。そんな、頑ななファラオやエジプトに対し、神様は10のしるし(災禍)を起こされました。ナイル川の水が血に変わり、蛙が群がり、ぶよ、あぶがエジプトに広がり、家畜に疫病が蔓延し、はれ物が人と家畜に生じました。また、雹が降り、いなごの大群が押し寄せ、暗闇がエジプトを覆いました。そして最後にエジプト中の初子が過越の出来事により打たれました。この10のしるし(災禍)を通して、ファラオはイスラエルの民がエジプトから出ていくことをゆるしたのです。この10のしるし(災禍)を通して神様は何を教えようとされたのでしょうか。

「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、

わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたがたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」(出エジプト10:1b-2)

◆神様が教えようとしたことは、神様が主であるということです。力も権威も命も人のものではなく、神様のご支配の中にあるということです。この出来事は神様の言葉に従う者、従わない者の違いを見ることができます。また10番目のしるしは、イエス様の十字架を想起させます。救いの御業は神様からのものです。神様の言葉を信じたイスラエルの民と信じなかったエジプト、この違いは明確でした。新約の時代に入った私たちにとって、イエス様の十字架が私たちの救いです。私たちはこの救いの御業に感謝をささげるのです。

坂西恵悟

今週の一面 『与えられる助け手』 6/2  

管理人

◆神様からの召命を受けたモーセでしたが、彼は様々な理由を並べすぐに従うことはしませんでした。モーセは語ることに不安がありました。彼は「口が重く、舌の重い者」と自分を表していました。そんなモーセに神様は感情を出されました。

「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。」(出エジプト4:14)

◆モーセの兄アロンがモーセの代わりに語ることをゆるしてくださったのです。神様はモーセを神様の代わりに、アロンをモーセの預言者として立たせ、イスラエルの民の救いのためにファラオの元へと遣わしてくださったのです。

◆神様は私たちを遣わす時、一人ではなく助け手を与えてくださいます。モーセにはアロンやフルが、アダムにはエバが。神様は必ず私たちの必要を与えてくださる方なのです。

◆20年前、JOYチャペルがスタートした時もそうだったでしょう。人に志を与えてくださり、助け手、支え手を与えてくださったことにより、JOYチャペルはスタートしていきました。神様の働きに足りないものはありません。私たちが足りないと思ったものがあったとしても、神様は必要を全て備えてくださるからです。主の助けと、備えがあるからこそ、そのことを信じるからこそ私たちは大胆に宣教の働きを行うことができるのです。

◆モーセにはアロンが与えられ、その後、後継者ヨシュアが与えられました。そして、40年かかりましたが、神様の約束の通りイスラエルの民はカナンの地へと入っていくのです。私たちの歩みにも主が共にいてくださいます。そして、必要を満たし助け手を与えてくださるのです。このことを信じ、私たちは歩んでいく者でありたいのです。

坂西恵悟

1 2 3 4 5

過去の記事