「しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」(Ⅰコリント12:24,25/新改訳)

 使徒パウロは、人間の体は、神が実に巧妙に調和を持たせて創造されたことを述べた上で、教会は人間の体の構造に似ていると言っています。劣っている部分を優れた部分が補うことで、互いに調和し合うというのです。つまり、教会には調和が非常に大切なのです。
教会に集う一人一人が互いに「いたわり合う」ことがキリストをかしらとするキリストの体、教会の姿なのです。

 「教会はオーケストラにも似ています。指揮者はもちろんイエス・キリストです。私たちは異なる楽器を担当する演奏者たちです。各自が自分の役割を理解し、ほかの楽器との調和をはかりながら、ベストをつくして"霊的シンフォニー"を奏でます。その音楽によってメッセージを伝え、聴く人の心をいやすのです。教会は、この世のどんな集団とも違う存在です。人の集まりである以上、課題はつきませんが、それでも教会はキリストをかしらとする霊的な存在です。それにふさわしくあるために、私たちはどうあればよいのでしょうか。」(野田秀牧師)私たちはこの問いを常に持ち続けたいと思います。

 先日のリオ・オリンピックでは、男子400メートルリレーで日本は銀メダルという歴史的快挙を成し遂げました。一人一人の実力は、世界レベルからはほど遠いものですが、しかし、それぞれが全力で自分の役割を果たし、次の走者に100%の信頼をもってバトンを託した結果、素晴らしい成果をおさめることができたのです。このように一人一人が弱い存在であったとしても、互いに信頼し合い、委ね合うということも「教会の調和」を考える上で非常に大切なことであると思います。

松崎 準

◆「かつて、東大宗教学科主任を務めておられた岸本英夫教授は、日本の社会を評して『幸福そうに見える世界』と言った。天皇をめぐってのテロ行為、いじめの心理に病む教育の荒廃などと言いながら、まずまず世界での理想的安全地帯になっているのが今日の日本である。地上天国の八分どおりはできあがっている、というのだろうか。科学は進み、宗教も新薬のようにあり余るほどあって、心身のバランスをとっているおもしろい社会でもある。 よいもので満たされている幸福な社会。だが、何かが欠けているような気がする。『幸福そうに見えて』、ほんとうは幸福ではないのかもしれない。というのも、『よいもの』でいっぱい、そのために『いちばんいいもの』が見えなくなっているのでは、と思うこのごろである。」(奥村一郎神父『断想』より)

◆私はこれを読んで、「いちばんいいもの」とは何か、そして、それはなぜいちばんいいのか、と考えさせられました。聖書は二つの「いいもの」について語っています。①マルタとマリアの物語(ルカ10:38~42)で、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである...」と言って、御言葉を聞く大切さを教えています。②金持ちの青年の物語(マタイ19:16~22)で、イエス様は「...行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい...それからわたしに従いなさい。」と言って、ものに執着せず、主に従う大切さを教えています。

◆よいもので満たされ幸福そうに見える日本に欠けているもの、それはこの二つことではないでしょうか。主イエスの御言葉を聞くこと、主イエスに従って生きること、即ち、イエス・キリストというお方の存在を認め、信じること、これが今日の日本に徹底的に欠けているものなのかも知れません。
先にキリスト者となった私たちはこの日本で何ができるでしょうか?

松崎 準

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
(箴言17:1口語訳)

◆家庭は、人間のアイディアではなく、神様のアイディアです。神様は、アダムとイブの結婚において史上初の司式をされました。彼らに「生めよ。増えよ。地を満たせ。宇宙万物を従え、支配せよ。」と言われました。しかし、今日の家庭はサタンの第一攻撃目標となり、破壊されています。

◆私たちの信仰の花が咲き、実が結ばれる最初の場は家庭であるはずです。まことの信仰は、家庭の回復から始まります。ですから、イエス様を知るようになれば、神の合わせ給う夫婦は、離婚の危機にあっても夫婦が一つとなり、去って行った子どもが立ち返り、行くところのない老人たちが保護を受けます。

◆まことの信仰は、まことの家庭の回復と癒しを作り出すものです。世の中でどんな役職を持っていようとも、それ以前に神にあって最も良い夫であり、母親であるとき、神様は栄光を与えられます。

平和とは、ただ争いがないということではありません。"いっさいの基盤は神である"という信仰による祈りのある家庭のことです。

石田政美

「種まく人」は、19世紀フランスの画家ミレーによる1850年の作品で、岩波書店のシンボルマークとしても有名です。農家の生まれであるミレーは、幼い頃見た父の働く様子を思い出しながらこの「種まく人」を描いたと言われています。

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イエス様は人々に教えを説く際、難しくて分かりにくい難解な教義ではなく、日常の身近な事物や出来事を題材とした「たとえ話」を用いています。「種をまく人」はイエス様、「種」はイエス様の言葉・教え、種がまかれる「土地」はイエス様の教えを聞く者の心の態度を表しています。
この農夫の姿には躍動感がみなぎっています。大股で大地を歩く姿、右の手のひらに種を一杯握りしめて種を蒔く姿はダイナミックで農夫ミレー自身を描いているようでもあります。彼は聖書に親しみながら種をまくたとえをよく知っていたことでしょう。
 この絵の農夫の姿には、貧困であろうが、種が鳥についばまれようが、日照りで不作になろうが、種に希望を託している農夫の意気込みが伝わってきます。ミレーはおそらく自らが大地に蒔かれた種であり、人に踏まれても、鳥が襲ってきても、雑草に覆いかぶせられても、生き続ける逞しさをキャンバスに叩き付けていたように思います。
 多くの教会が伝道(種まき)に行き詰まりを覚えている現代にあって、ミレーの「種をまく人」のようなダイナミックさが必要かもしれません。    

松﨑 準

◆私は、東京バプテスト神学校の聴講生(4年目)として、毎週1回18:30から2時間の授業を受講しています。仕事を終えてから駆けつけるので、時には睡魔に襲われたり、頭が回らないことも多いのですが、教室に行くと同じように学んでいる仲間がいることに励まされます。仲間と言っても、青年は少なく、定年後学ばれている方、牧師の配偶者、海外の方とか他の教派の方など様々です。また、茗荷谷の授業に出席できなくてもインターネットのライブ授業に参加される方、さらにはビデオで受講されている方々もいらっしゃいます。

◆今期は、『組織神学Ⅰ』という授業を受講しました。何だか難しい学問という印象があり迷ったのですが、講師が廣島尚先生(日本バプテスト浦和キリスト教会牧師)だったこともあり受講しました。授業では、各自が自分の信仰告白を書くことを目標に、毎回ひとつのテーマ(例えば、「神」、「人」、「罪」、「教会」、等...)について、聖書の関連箇所をあちらこちら開いて先生の解説を聞き、質疑応答や関連のテーマで話が盛り上がったりしてとても楽しいです。また、他の教会の様子などが聞けるのも新鮮な体験です。

◆私は、この授業により今までバラバラの知識だった聖書の内容について、縦糸と横糸が繋がるように、立体的に捉える視点を戴いたように思います。神様からのメッセージをより深く味わうことができるのです。永遠のベストセラーである聖書の奥深さと魅力に感動しています。スローペースではありますが、これからも神学校での学びを続けていきたいとの想いが湧いてきました。是非、一緒に学んでみませんか?  

澤田 猛

今週の一面『朝の15分』7/24  

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◆「一寸先は闇だ」とはよく言ったもの。それゆえ「一日一生」だと先人が警告したのだろう。

◆『聖書一日一章』(榎本保郎著)で、聖書通読している方が多くおられる。その榎本牧師は、アメリカ伝道旅行中に52才で客死された。その時、夫人の榎本和子姉は、この痛手から「どうして立ち直ればよいのですか」「どうして生きていけばよいのですか」と毎晩、天に向かって訴えた。何をする気力もない日が幾日も続いた。しかし、「わたしには主人が教えてくれた『朝の15分』があった。主人に教えられたとおり、毎朝一章ずつ聖書を読んでいたのです。」

◆すると、ある朝「イスラエルよ、今からとこしえに主によって望みを抱け」(詩131:3口語訳)という御言葉に出会ってハッとした。「主が望みなのだ。主がおられるのだ」と。「以来、聖書を開く朝のひとときは、わたしにとって、なくてはならない恵みの時となった。わたしは御言葉によって立ち直ることができたのです。」そして、『新約聖書一日一章』がご夫人の手で出版されたのです。

◆「御言葉には、力がある」そして、「祈りには、力がある」とあります。ぜひ、聖書通読にチャレンジしてみませんか。たったの「朝の15分」がその人の人生を決定し、変えるのです。

石田政美

◆ある本を読んでいたときに、ある言葉が目に飛び込んできました。「いつ私たちは、インマヌエル(神は我々と共におられる)を感じるだろうか。それは、伝道をしている時だ。」私はこの単純な文を読んで、確かにそうだ!と思わされました。

◆牧師になる前、何度か、友人や同僚に福音を伝える機会がありました。今それぞれの時のことを思い起こすと、一生懸命になって伝えようとしている私に、神様が伴っていてくださったという実感が確かにあったように思います。それは普段意識する(心で感じている)神様とは少し違った感じです。伝道している時の方がよりクリアでより近いような感じがするのです。
「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(使徒18:9)

◆主が共におられて、共に働いてくださるという御言葉の約束を信じる時、私たちは主から勇気と慰めと励ましをいただき元気が出てきます。だから、私だけがするのではなく、そこで主がなしてくださることを信じ、委ねたいと思うのです。

◆なかなか結果が出ない伝道、しかし、諦めず祈り、語り続けていく時、「わたしも見下され、見限られ、見捨てられるような目に遭いつづけたから、あなたの無念さ、淋しさはよく分かる。大丈夫、わたしがあなたとともにおり、あなたを支え続ける」と言ってくださる復活の主に出会うのです。

松﨑 準

◆7月7日(木)相鉄線沿線なかよし牧師会(大和カルバリーチャペル)に石田牧師と共に出席しました。年に数回、他教派の先生方と会って話をするのはとても有意義です。今回は「牧師から牧師への継承」というテーマを皆で学びました。私はその中で、テーマとは直接繋がることではありませんが、次のことが心に残りました。
「自分の教会だけに溜め込むことによって、教会の自己目的化になってはならない。ガリラヤ湖は、受けた恵みを外に分かつことを通して、生き生きとする。しかし、死海は溜め込むだけなので死んでゆく。外に向かって、受けた祝福を分かつことによって、生き生きと継続する。」これは、自分さえ良ければ、という思いにグサッと突き刺さることばです。

◆次に、米国エバグリーン・バプテスト教会の良い事例がありました。「教会が自己中心から、忠実な人を派遣する教会となることへと移行した。アンティオキア教会は、バルナバとパウロを派遣した。会衆の中から牧師を育てて派遣する。育てた人材を教会だけに留めたら、ぶくぶくの教会になってしまう。他に与えるほど豊かになる。現在100名を育てて派遣している。しかも最高のリーダーを派遣するようにしている。父なる神は、最高の御子を、この世に送られた。ならば私たちはどうか。皆さんは最高の人材を抱え込んでいないか。内側に抱え込もうとすることは罪である。それは死んでいくことである。食べて何もしないなら不健康になる。」(米国エバグリーン・バプテスト教会 コリー・イシダ牧師)

◆以上の言葉から、自分が満たされていようといまいと、自分状況がどうであろうと、神様から与えられている恵みを自分が受けるだけでなく他へ分け与えることの大切さを教えられます。それは、国内の協力伝道や国外伝道、そして、個人伝道とも深く関係することです。自分が受けたことを忘れてしまったら、与えることはできません。受ける恵みと与える恵みの両方があることを今一度覚えたいと思います。 

松﨑 準

 「キリストを紹介せずにはおられない心、キリストのご命令に従うことの喜びから、伝道するのですが、キリストを紹介すれば、それで私たちの目標を達成したことにはなりません。オックスフォード・グループ・ムーブメントの人々が個人伝道を「生活の転換」と表現したそうですが、隣り人に「生活の転換」が起きるまで個人伝道すること、言いかえますと、その対象者が、キリストを紹介せずにはおられない心、キリストのご命令に喜んで従う心を持つ個人伝道者になるまで個人伝道をすること、これが個人伝道の目標です。」(北原末男牧師) 

対象者がイエス様を信じてクリスチャンになった!ところで伝道が完結するのではなく、その人が更に、自分が受けた恵みを誰かに分かち合わずにはいられないという思いになるまで伝道は続く。確かにこのことは本当に大切なことであると思います。そのために教会という交わりがあるのです。「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んだ」(ルカ5:18)ように、教会はイエス様との出会いを必要としている人のために、皆で祈り、支え、時には皆でその人をイエス様のもとに運んでいくことが必要です。そして、ただ運んで終わりではなく、その人がイエス様に癒され、救われたときに、共に喜び、共に感謝する、それが、真の教会の交わりであり、個人伝道なのです。

個人伝道は、すぐに結果が出ることもあればそうでないこともあります。否、そうでないことの方が圧倒的に多いでしょう。しかし、私たちの伝道は私たちだけの業ではなく、そこに必ずイエス様が共にいてくださることを忘れてはいけません。すぐに結果が出ないからと言って諦めるわけにはいきません。その人のために祈り続け、関わり続けていく中にこそ、イエス様の愛が示され、イエス様ご自身が救いの御業を成し遂げてくださるのです!そのことを信じて、キリストの紹介者、証し人として共に歩んでいきましょう。

松﨑 準

 個人伝道は誰にでも出来ますが、どうしても省くことのできない資質というものがあります。

(1)キリストによる新生の体験者であることです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)これは最低の基準です。大切なことはキリストの御言葉に正確に服従し、信頼していくことです。

(2)隣人(失われた魂)に対して、キリストを伝えたいとの信仰的熱情に燃えていることです。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。
 以上二つのことは私たちがキリストに従ったときから変わらず、いな、ますます強く深く熱心に求めたいことです。隣人の失われた魂のために、今もなお招き続けていたもうキリストの心を思うとき、私たちは、

(3)あらゆる面でキリストの証人であろうとすることに努力を惜しまないでしょう。
 人と接するためにさまざまな工夫が必要です。あなたの場合、話べたかも知れません。しかし、あなたは何とか主キリストの証人でありたいとの熱意があるなら必ずそれを補う努力をするでしょう。あるいは聖書の知識に不足を覚えているかもわかりません。しかし、あなたはキリストを証しするために聖書をもっともっと学ぶはずです。使徒パウロが「なんとかして幾人かを救うため...どんな事でもする」(Ⅰコリント9:22,23)と救霊のための努力を惜しまないでいます。キリストの証人として生きることは「......共に福音にあずかるためである」(同上)と申しています。私たちも、同胞と共に、隣り人と共に福音にあずかりたいものです。(北原末男牧師)

 そのためには、まず私たちが礼拝や祈り会など、聖書の学びや交わりを通して、キリストの愛に深く触れなければならないでしょう。一緒に聖書を学び、キリストの愛を分かち合い、互いに励まし合い、共に祈り合って、キリストの愛を証しするために、出かけていきましょう!

松﨑 準

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