◆「個人伝道は、他の方法に比べて、実にだれにでもできるところに特色があります。アンデレやシモン・ペテロ、ピリポたちも当時の社会の中で特に知識層であったわけでも、社会的地位、あるいは財産、特別な能力があったわけでもありませんでした。しかし、彼らはすぐれた個人伝道者であったことを知ることができます。そして、今、あなたがイエスをキリストと信じて新生の喜びに満ち、隣人に対する心からの愛があるなら、たとえあなたが、どのような境遇にあっても、どんな才能の方でも、男でも女でも、あるいは老若を問わず、個人伝道をなすことができるのです。あなたは、いつでも、だれにでも、個人伝道ができることにすでにお気づきのことでしょう。あるいは、方法や語る内容は少なくとも、すでに個人伝道を行っていらっしゃるのではありませんか。そのような個人伝道を、さらに、もっと計画的に、永続的に、教会が行うために、どのようにしたらよいとお考えになりますか。」(北原末男牧師)

◆先日、私は台湾のカベナント教団が催した『ファイアーカンファレンス』という大会に参加しました。私はその大会で台湾の人たちを通して、深い主の愛に触れ、岩のように固い自分の心が溶岩のように溶かされ、心燃やされました。私はそこで得た心の灯火を早くJOYの皆さんと分かち合いたいと思わされました。灯火は誰に、どれだけ分けても減らないのです。灯火は主の愛です。自分が主に愛されていることを知ったときのあの感動を誰かに伝えたい、伝えずにはいられない。そんな思いが個人伝道につながっていくのではないでしょうか。だからこそ、個人伝道は誰にでもできる、あなたにもできるのです!

松﨑 準

今週の一面『 みんな恐怖症 』6/12  

Shin1

◆「みんな、あんたをひどい人だと言っているよ。」こんなことばを聞くと(ネット上に書き込まれたりすると)、胸はドキッとし、心臓は高鳴ります。「みんな」などということはうそで、ごく少数の人の言う事を言っているのに、私たちは「みんな」と言われてドキッとする。現代人は「みんな恐怖症」にかかっている。それは現代人が神を信じ、神を恐れなくなった代わりに人を、すなわち「みんな」を恐れるようになったからではないか。そして、この「恐怖症」は現代人をいろいろ苦しめている。

◆一方、みんなで渡っていれば恐くなかった社会が、いま崩壊しようとしている。なりふり構わず金銀を追い求めてきた社会システムが音をたてて崩れた。ここにも「バブルの崩壊」という現象を通して「社会の崩壊」「教育の崩壊」「家庭の崩壊」「自然界の崩壊」などの崩壊現象に「みんな恐怖症」が拡がっている。

◆こうした現代人が、安定した生活を取り戻すのにはどうしたらよいのだろうか。アウグスチヌスのことばに「主よ、わたしはあなたのもとに憩うまで平安はありません」というのがある。神に帰れ、世間がどう騒ごうと人がどのように言おうと、それらに左右されることはない。その時に初めて「みんな」から自由にされる。そして、神の愛のうちに安けさを得る事ができる。イエスさまは言われた『わたしの平安をあなたがたに与える』と。ここにだけ現代人の救いと「みんな恐怖症」という煩いをいやすものがある。

石田政美

「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18~19)

「私たちがキリストの証人として、委託された務めを生きようとするとき、いろいろな伝道の方法が用いられるようになります。ここで今私たちは「個人への伝道」について考えます。それは個人が携わる場合もありますし、数名の者が協力して行う場合も生じます。
いずれの場合も教会の働きです。教会の働きというのは、個人の思いつきや、趣味で行うというのでなく、どこまでも教会を背景とし、教会から出て行って教会へ帰って来る。教会に根をおろしているキリスト者が、与えられている人生のはせ場で懸命に生きつつ行う伝道、懸命にキリストにあって生きることが伝道となるような伝道です。また、教会の伝道プログラムの中での働きということでもあります。
個人伝道は、大衆伝道と、その方法において大きな違いがあるでしょうが、本質的には大衆伝道、職場伝道、訪問伝道、病院伝道等々と異なったものがあるわけではありません。
個人伝道は、決して知識または理解の伝達ではなく、信仰のこころの起るのを手伝って、生けるキリストへの紹介者となることです。」(北原末男牧師)

 私たちは、イエス様から和解の言葉を委ねられた一人一人として、それぞれがイエス様と出会った、あるいは、信じたときの感動と恵みを日々携えて、イエス様の紹介者として歩ませていただきたいと思います。そして、自分の存在そのものがキリストの証しとして主に用いられるように祈りましょう。

松﨑 準

◆6月27日(金)"グレイスJOY"を行いました。とは言っても何か綿密なプログラムを組んだわけではなく、5名の対象者と7名のスタッフで一緒に時間を過ごした、ただそれだけです。しかし、それが教会のプログラムとして最も大切なことだと思わされました。一緒に歩き、同じものを見て一緒に感動する。一緒に食事をし、一緒に笑う。同じ時と空間を共にする。そして、そこに見えない主がおられる。こんな幸せなことはありません。

◆この日は朝から雨が降っており本来なら中止にすべきだったかもしれませんが、晴れ男のI先生をはじめ、晴れ女のM姉妹、O姉妹のおかげか天候は守られ、少し風がありましたが暑くもなく寒くもなく歩くのには心地良かったです。

◆歩きながら、何百何千という種類の美しい花を見ながら、また、反対側の広大な広場を見たときに、私はイエス様の説教(マタイでは山上の説教、ルカでは平野の説教)が心に浮かんできました。

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。」(ルカ12:27~28)
 神に装られた花をとおして、イエス様が私たちに「思い悩むな!」と言って励ましてくだっているのを感じました。
この日は、風(聖霊)を受けながら、自然を通して神の存在と深い配慮を感じる一日となりました。また、教会の皆さんで一緒に出掛けたいと思います。

松﨑 準

◆あなたの家庭に危機がありますか。どのように克服しようとしていますか。

◆努力したにもかかわらず、仕方なく涙を流しながら別れる夫婦を理解できます。本当に別れざるを得ない深刻な事情が多くあります。しかし、問題が全くない家庭はありません。幸福な家庭、祝福された家庭の秘訣は、問題がないのではなく、家庭の貴重さを思い、祈りながら問題を克服し、乗り越えることにあるのです。

◆イサクは40才で結婚し、60才にヤコブとエサウを生みました。(創世記25:26)。20年間子どもがいませんでした。足りないものがあるとき、何かうまくいかないときに、不平を言ったり恨まないでください。20年間待ったイサクのように最後まで待って、神様の約束を信頼して祈りましょう。

◆現代の家庭の危機は、お金がないこと、健康を失ったこと、子どもがないことでなく、祈りがないことです。祈りがあれば、流されたり滅びたりしません。

◆最大の家庭の危機は、祈りを忘れ、祈りを放棄したときです。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(I.ペテロ5:7)。

石田政美

◆人生が毎日順風ならどれほど良いでしょうか。結婚するとき、子どもを育てるとき、中年の危機を迎えるとき、風が吹き波が打ち寄せるのが私たちの現実です。風が静まると、台風や地震が襲ってきます。人生の荒波に振り回されるのが私たちの現実です。

◆そして、高齢者になると失うという波(健康、体力、仕事、伴侶、友、栄誉・・・)が次々と襲ってきます。「私も、失うときには、失うのだ」(創43:14新改訳)。このことばは、若い時から力まかせに人生を切り開いてきたヤコブが晩年に口にしたものです。人生の悲哀を感じさせる痛切な響きを持っています。

◆あなたは今、人生の荒波の中にいるでしょうか。主イエスはその荒波の中で振り回されているあなたの人生のために祈っておられます。背を向けることも、眠ることもされません。あなたのそばで涙を流しながら見守っておられます。

◆私たちは苦しみをひとりで耐えるのではありません。私たちのため息を聞き、とりなしてくださる主イエスがおられます。苦しみの荒波の前で、私たちがこれ以上堪えられないときに駆けつけてくださる主イエスがおられます。舟がなければ、その方は水の上を歩いてでも、私たちのところに来てくださいます。

◆私たちの危機は荒波にあるのではなく、荒波の前で自分自身の力に頼ることにあるのかもしれません。荒波がすべてを食いつぶそうとするとき、主イエスに寄り頼んでください。その方の御声に耳を傾けてください。私たちの助けはその方から来ます。

石田政美

◆今日は母の日です。母の日は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日です。母の日の起源は、アメリカのウエスト・バージニア州に住んでいたアンナ・ジャービスと言う人が、教会の教師をしていたお母さんの命日に、白いカーネーションを信者たちに配ったのが始まりだそうです。アンナさんは、多くの人々がもっと母親を大切にできれば...と考えて、母親のための祝日をつくる運動を始めました。そして、アンナさんの努力が報われて「母の日」の法律が1914年、議会の決議によって定められ、5月の第2日曜日が「母の日」として国家的な行事に認められたそうです。日本では教会の働きかけなどによって広まり、昭和24年頃から行事として定着するようになったそうです。しかし、その起源は世界中で様々あり、日付も異なるようです。

◆聖書には「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20:12)との教えがあります。これは十戒における人間関係の第一番目の戒めです。この関係が良好でないと、他の人間関係にまで悪い影響が出てくるのです。従って、親への愛というのはそれほど大切なのだ、と聖書は教えているのです。

◆しかし、愛は私たちの心から出るものではなく、「神から出ている」(第一ヨハネ4:7)ことを覚えたいと思います。自分の努力で親を、人を、愛するのではなく、神に愛されているがゆえに(神の愛を知っているがゆえに)、人を愛することができるのです。

◆今日は、お母さんに心から感謝をしたいと思います。照れずに「ありがとう」って言いたいと思います。肉親のお母さんだけではなく、私たちは神の家族として教会のお母さんにも心から感謝をしたいと思います。また、教会には、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹がたくさんいます。私たちは神の家族として、これからも素晴らしい交わりを、共に教会で過ごしていきたいと思います。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4:11)

松﨑 準

今週のディボーション① 使徒言行録23章

◆「絶対に無理、そんなのあり得ない」と思われるようなことは私たちにもあります。このときのパウロは正にそんな状況の中に置かれていました。しかし、真夜中にパウロは主の声を聞きます。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(11節)。「ローマで証しをする?ローマどころかエルサレムで捕われているのに...?」、人間的(現実的)に考えれば、「そんなのあり得ない」ことです。しかも、パウロはユダヤ人たちの陰謀によって殺さることになっていたのです。「ところが...」(16節)、その絶体絶命の中に神様の介入があり、パウロは安全に次の道へと導かれていくのです。

◆「私たちは神が天地の創造者、支配者であると信じている。なれば、私のために神が働くことを期待すべきではない。私が神の御用をしていくとき、神の御力にふれるのである。ご自身のお声を聞いて従っていく者のために、神は天も地も用いて御業を進めてくださる。自分は神の御用をするにはふさわしくない、と十分に知りながらも、神がいま自分を用いてくださるのだと神に聞き従っていくときに、『ところが』という世界が開かれるのである。」(一日一章より)

◆私たちが自分の常識という狭さの中で何かを考えるのではなく、神様の無限の広さの中で考え、祈り、そして、主に委ねていくときに、この「ところが」という奇跡が起こされるのです。「地を相手に生きる」のではなく、パウロのように「天を相手に生きる」歩みへと変えられたいと思います。

松﨑準

「熊本県を襲った今回の大震災で、最も被害の大きかった同県益城町にある熊本東聖書キリスト教会(豊世武士牧師)...『教会には約20人の信徒が礼拝に来ている。信徒の安否の確認はできているが、教会の建物は壊滅的な被害を受けた。2階建ての建物が一瞬にして崩れ落ちた。牧師夫妻は難を逃れたが、夫妻の娘が瓦礫(がれき)の中に取り残された。崩れた1階の中央部分で、正座した格好で押し倒され、閉じ込められた。大きな余震のたびに少しずつ空間が狭くなる中、唯一動かせる右手で体に覆いかぶさっている戸を叩き、レスキュー隊はその音をたよりに位置を確認、2階の床をチェンソーで切り開き、5時間後に救出した。現在は熊本市内の病院に入院中。《主に生かされたこと》を涙ながらに感謝し、救助までの様子を語ってくれた』という。礼拝は、姉妹教会の熊本北聖書キリスト教会で合同礼拝の予定。(クリスチャントゥデイから抜粋)
 私たち日本バプテスト連盟の教会も次のような被害を受けました。
・熊本南教会→瓦が落ち、外壁も崩れ、室内の食器棚も倒れたが、人的被害は無い。
・東熊本教会→保田井牧師夫妻が車内で避難をされている。
・熊本愛泉教会→母子室のガラス二枚が割れた。
・菊池シオン教会→牧師館が物で散乱しているため、近くの小学校で避難中
 21日(木)の祈り会では、Y姉が詩編46編を朗読し、熊本地震のすべての被災者のために祈られました。その後、皆で祈りを合わせました。私たちが今出来ることは、すべてを支配されておられる主なる神様に向かって心を開き、すべての被災者のために祈ることです。それによって、すべての被災者との主にある連帯へと導かれるのです。
 榎本保郎先生は、「祈りは神のみことばを聞くことであり、神のみことばを聞くとは、自分のことばをしりぞけることであり、自分の人生における王座を神にゆずることであり、いっさいを神にあけわたすということである。」(教会づくり入門112頁)と述べています。  このような献身の思いをもって、すべての被災者を覚え、一日も早い復興を願い、共に主に祈り、献げましょう。

松﨑 準

◆こんな話があります。宗教改革者マルティン・ルターは、ある時、大きな問題・悩みを抱え落ち込んでいました。すると、そこへ奥さんがお葬式用の黒いドレスを着て、彼のそばにそっと立ちました。すると、彼はびっくりして尋ねました。「どうした。誰が死んだのかね。」奥さんは答えました。「神様がお亡くなりになりました。」、「ばかを言うな。そんなことあり得ないだろう。」とルターは怒って言うと、奥さんはこう言いました。「もし神様がお亡くなりになったのでなく、まだ確かに生きておられるなら、その生きておられる神様を信じているあなたが、どうしてそんなに落ち込むのですか。」自分の不信仰に気づかされたルターは直ぐに悔い改め、元気を取り戻したということです。

◆私たちも「もう無理だ、もうダメだ!と落ち込むことがあります。しかし、そんな時私たちは生きて働かれている神様の存在を忘れています。まるで神様がもうすでに死んでしまい、もう二度と私たちの祈りが届かないかのように思ってしまうのです。

◆イエス様は聖書を通して私たちに、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)と言われます。「空の鳥は何もしなくても天の父は養ってくださっている。あなた方は鳥よりも価値があるじゃないか」と。空の鳥や野の花を見る時に、私たちは神様が「今」生きて働いておられるのを知るでしょう。生きて働かれる神様が日々私たちと共におられ、共に歩んでくださる、こんな幸せなことはありません。

◆神様の存在に気づき、自分の不信仰を悔い改めて元気を取り戻したルターのように、私たちも日々繰り返し、神様の存在を感じながら元気をいただき、歩ませていただきましょう。

松﨑 準

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