◆イエス様は死なれる前の晩、驚くべき宣言をされました。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(ヨハネ17:4)。

◆どうしてイエス様は「成し遂げた」と言うことができたのでしょうか。こう言い切るには公生涯での3年間の伝道はあまりにも短すぎるように思えます。10人の病人たちは、癒されたかもしれませんが、100人はそのまま残されたのです。最後の夜、やり残しの仕事がまだたくさんあったにもかかわらず、主は平安を持っておられました。父なる神から与えられた仕事を、完了した(成し遂げた)ことを知っていたからです。

◆福音書を読むと、イエス様はじつによく働かれたことがわかります。イエス様は病人や障害者を助けるために、食事も忘れて夜遅くまで働かれるので、弟子たちはイエス様が我を忘れていると思ったことさえありました(マルコ3:21)。

◆しかし、イエス様は決して仕事に忙殺されていませんでした。自分を必要としている人々のためには、時間を十分に用いられました。

◆それにしても主の宣教は、どうしてあんなに短かったのだろう。なぜ、あと5年、10年と続かなかったのだろうか。大勢のみじめな病人たちがどうして悲惨な状態のままにおかれたのだろうか。しかしイエス様が、この「早朝の祈りで、神の指示を待ち、有無を言わせない緊急な事に振り回されることなく、そして最後の夜に「わたしにさせるためにお授けになった業を成し遂げた」と言うことができたのです。

石田政美

◆イエス・キリストの公生涯を考える時、もっとも驚くべきことの一つは、人類にとって決定的に重大な意味をもつ歴史的事業を30才から33才の間のたった3年間で完成されたことです。自動車や飛行機もなく、電話さえない時代に、イエス様の過ごされた3年間は、あまりにも短かったのではないでしょうか。しかし、神の計画は完全です。イエス様がこの世に遣わされたみわざを完成されるのに、十分な時間がありました。

◆現代の私たちは、いろいろな便利さを享受し効率を重んじる時代に生きています。しかし、私たちはその中で毎日忙しく追い立てられ、あまりに早く時間が過ぎ去っていくように感じられます。イエス様はいったい、どのような時間を過ごされたのでしょうか。また、そのためにどのようなことを避けたのでしょうか。イエス様の生涯からその秘訣を学びたいと思います。

◆イエス様の秘訣は何だったのでしょうか。イエス様の忙しい日常について述べているマルコの記事を読むと、その手がかりをみつけることができます。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)と述べています。この早朝の祈りこそ、イエス様の全生涯の秘訣でした。

◆イエス様は祈り深く父なる神の指示を待ち、それに従おうとしていたのです。(続く)

石田政美

今週の一面『 新しいクラス 』10/18  

Shin1

◆今月から、「Bible Café」と「子育てクラス(仮)」が始まりました。これら二つのクラスは日曜日のCSとは別に、平日に行われるクラスです。

◆「Bible Café」は、未信者を対象とするクラスで、お茶の間クラスⅠ(求道者クラス)の人数が減ってしまったことがこのクラスを始める切っ掛けとなりました。求道者が少なくなった今、このBible Caféの働きが神様に喜ばれ豊かに用いられることを期待したいと思います。

◆「子育てクラス(仮)」は、小さな子どもを持つお母さんたちが、子育てに関わる色々な悩みや課題を分ち合い、あるテキストを用いながら神様を中心とする子育てや生き方について学び合うクラスです。小さな子どもを持つ家族が少ないJOYチャペルにとって、このクラスもまた重要な役割を果たすでしょう。

◆このタイミングで神様が与えてくださった二つのクラスは、今のJOYチャペルにとって最も必要な働きです。だからこそ、私たちJOYチャペルの一人一人が、この働きを自分自身の働きとして考え、祈り、時にはクラスに参加して恵みを分ち合えるような機会があれば素晴らしいと思います。

◆今年度は、「協力伝道」というテーマを神様から与えられています。新しくできた二つのクラスの働きは、正に、「教会内の協力伝道」です!Bible CaféはI姉妹が、子育てクラスはY姉妹が中心となって導いてくださいますが、この二つのクラスを皆で祈り支えていきましょう!一人また一人と、新しい方がそれぞれのクラスに加えられていきますように、共に祈りましょう!

松﨑 準

今週の一面 『二年目の歩み』10/4  

Shin1

◆今月から、JOYチャペルの牧師としての2年目の歩みが始まりました!
この一年を振り返ると、新しい環境と教会に慣れるのにただただ必死に歩んできたように思います。

◆一年前、JOYの皆さんは、本当に未熟な私を喜んで迎え入れてくださいました。この一年、私が皆さんの期待にどれだけ応えることができたか分かりませんが、皆さんが私を赦し、支えてくださったからこそ、私は二年目の歩みに立つことができるのだと思います。牧師は、神の導きと教会の赦しが無ければ立つことのできない存在であることを実感しています。

◆二年目の歩みにおいて、神様が私をどのように導き、用いてくださるのか、期待しつつ、常に謙遜な心で神と教会とに仕えていきたいと願っています。特に、二つのことを大切に考えたいと思います。
①常に神様に目を向け、礼拝に集中すること。これは、今年に限ったことではなく、常に必要なことです。私たちの人生すべての土台となります。
②今年4月から始まっている他の教会との協力と交わりを大切にすること。神様から与えられている恵みを感謝し、その恵みを自分たちの教会に留めておくのではなく、他の教会と分ち合うことによって、更に恵みが増し加わることを信じます。

◆神様が許される時まで、私はJOYチャペルの皆さんと神の家族として共に歩ませていただきたいと願っています。どうか、未熟な私のために、祈りと赦しをもって、支えてくださるようお願いいたします。神の国を目指して、共に歩んでいきましょう!

松﨑 準

◆JOYチャペル16周年記念礼拝をささげる恵みを心から主に感謝いたします。

◆16年前「神様はご自分を愛する民に、なぜ苦しみを与え、荒野の道を歩かせるのですか」という心境でした。そして、黙想の中で得た答えは、イスラエルの民に「出エジプト」を命じ、荒野で礼拝をささげる幕屋(天幕)建設でした(出エジプト記25章)。

◆荒野は、人が住めない所であり、見捨てられた地であります。しかし、そこに苦しみと共に、栄光の主がおられるのです。荒野での天幕礼拝は、「荒野の中におられるキリスト」に出会うためであることがわかりました。それゆえに、荒野は祝福の地であり、恵みの地なのです。そのことを具体的に体験させていただいた16年でした。

◆JOYチャペルのシンボルマークは、「ノアの箱舟」です。あの狭い箱舟の中は荒野のような場、外を見ることもできず、多い動物たちと箱舟の中に閉ざされているのです。しかし、箱舟は洪水の間は、一番安全な所なのです。かいもなく、帆もなく、舵もなく、羅針盤もないのです。風の吹くまま、水に流されるままに行くのです。

◆しかし、その箱舟の船長が神様であられるなら、もっとも安全な場所です。

◆これからも荒野の旅が続きます。荒野にはキリストがおられます。その方は苦い水を甘い水に変えてくださり、天から雨のようにマナを降り注ぎ、岩から水を湧き出させます。その方はみことばとしてきてくださり、傷ついた心を癒し、罪ととがを赦してくださる幕屋となってくださいます。また、道を失った人生の火の柱、雲の柱となってくださいます。荒野に高くそびえておられるキリストを仰ぎ見つつ歩んでいきましょう。

石田政美

◆先週の巻頭言では、コリントの信徒の手紙一7章21節の「様々な訳の違い」にフォーカスを当て、私たちが聖書を読む際に生じる限界や豊かさ・多様性について触れ、それ故に、聖書を教科書やルールブックのように用いるべきではない、と書きましたが、では、どのように聖書を読めば良いのか、ということまで書くことができませんでしたので、今回はそのことを少し書かせていただきます。

◆繰り返しになりますが、聖書は教科書やルールブックのようなものではなく、生きた神の言葉が記されている道しるべであり、神から人間への問いが詰まっている書である、と私は信じています。それ故にこそ、聖書は私たちの都合や主張を優先させるために用いられるものではない、ということを大切にしたいと思うのです。

◆ファリサイ派や律法学者たちは、聖書(旧約聖書)を、正にルールブックのように、つまり、人を裁くために用いていました。私たちの聖書にも律法の書(モーセ五書)がありますが、イエス・キリストというフィルターを通して読むことで、律法の書は単に人を裁くための書ではないことがはっきり分かります。

◆最後に、聖書をそのまま素直に読むということはとても大切です。しかし、「そのまま素直に読む」ということは、書かれている文字をただそのまま読む、ということではなく、聖書に何が書かれているのか、その真理(メッセージ)をできる限り正確に理解するように努める、ということです。そのためには、時代背景や文脈、そして、誰に対して語られているのか、等をしっかりと押さえた上で読むことが必要不可欠なのです。その意味で、私は信仰と学問は両輪だと思っています。

◆今後も、神の前に謙遜な態度で、聖書の一節々を大切に読みながら、聖書に沢山詰まっている神の愛を分ち合いながら、共に教会を建て上げていきたいと願っています。

松﨑 準

今週の一面『聖書の訳』9/13  

Shin1

◆コリントの信徒の手紙一7章21節には、奴隷だった人がクリスチャンになってからの生き方について書かれており、以下のように様々な訳があります。
「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由な身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。(新共同訳)
「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。(口語訳)
「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
「あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい。」(岩波訳)

◆①は奴隷のまま生きなさい。②と③は自由になりなさい。④は自由になっても...という風にそれぞれ意味が全く違います。一体どの訳が正しいのでしょうか!?訳した人たちは皆、自分の訳が正しいと思って訳しています。これと同じように私たちが聖書を読むときも必ずそこに解釈が生じてくるのです。

◆唯一神の言葉である聖書が訳者によって、また、読み手によってこれほどまでに意味が違ってくるというのは、正に人間の限界と多様性の表れです。それはつまり、聖書を教科書のように、あるいは、ルールブックのように読んだり、用いたりするべきではない!ということを示しているのです。

松﨑 準

今週の一面『福音を伝える』9/6  

Shin1

◆「福音を伝える」とはどういうことだろうか?新約聖書の中の福音書に書かれているストーリーをただ伝えるだけではない。

◆私は、この一週間で多くのノンクリスチャンの方々と出会い、福音を伝える機会を与えられた。しかし、せっかくのチャンスにもかかわらず、なぜか心が重苦しい。何と言って良いか分からないが、焦りのような、言葉にならない変な緊張感がずっと心にある。「こんなチャンスを無駄にはできない。何とかしなきゃ!」という思いがそうさせたのではないかと今になって気付かされる。

◆人が人の心を変えることはできない。どんなに一生懸命になって説得しても、そう簡単に他人の心は変わらない。まして目に見えない神の存在を信じるなんて、もっと難しいことだろう。そんなことを自分の力で無理に相手を説き伏せようとしても、逆効果の場合が多い。相手のためにと思ってしたことが、ただの自己満足、押しつけでしかなくなってしまう。

◆それではどうすれば良いのか。それは、まず自分が神をどう感じているか。神が自分にどう関わってくださっているか。何をしてくださったか等、自分自身が受けたことをそのまま素直に証しすることではないだろうか。そういう意味で、クリスチャンは常に「あなたにとって神様とは誰なのか」と問われているのだと思う。

◆ノンクリスチャンと自分、そして、そこには必ず神様がおられることを先ずは感謝したい。そこで自分の力に頼るのではなく、一緒におられる神様に頼り、自分が神様から受けた恵みや感謝を飾らず、素直に、単純に、分ち合うことこそ、「福音を伝える」ということなのではないだろうか。

松﨑 準

◆聖書のヨブ記。それは、私たち信仰者にとって、ある意味で驚異です。すばらしい信仰をもっていても、実にこれほどまでの過酷な試練に、私たちは現実に遭遇するのだということをそれは物語っているからです。私たちのもっている信仰、それは、苦しみや困難や、災いにあわないための、お守りでは決してありません。

◆信仰者はその生涯の中で、自らがボロボロになってしまうほどの厳しい試練に、しばしば遭遇するのです。限界を越え崩壊してしまう寸前の、極限状態に達すような苦難をです。それは、当然のことながら、きれいごとではすまされない、現実の世界なのです。

◆けれども、信仰者の遭遇する苦難で、一点:ほかと際立って違う点があります。それは、信仰者にとって信仰をもって遭遇する苦難には、どれ一つとして意味のない苦難や試練はない、ということなのです。

◆一切はやがて必ずや益と変えられていく。ここで一つの苦難に出会うことによって、自らがまた一つ着実に成長し、一回り大きくなる。そして、その結果として、次回同じような試練に直面しても、必ず乗り越えていくようになるのだという希望に満ちた信仰による確信なのです。

◆「もうだめだ」と思わずあきらめてしまうようなその時にも、心のどこかでは、信仰による確信によって、そのことに対する主による勝利を、堅く信じて忍耐していくことができるのではないでしょうか。信仰者には「確信」の二文字はあっても、決して「絶望」の二文字は、ないのです。

石田政美

◆私が、初めてバプテスト教会と出会ったのは、結婚講座の時でした。バプテスト教会のことをよく知っていて訪問した訳ではなく、妻の親類から紹介された教会が、たまたまバプテストの教会だったということでした。その後、横浜戸塚バプテスト教会、横浜JOYバプテスト教会で信仰生活を過ごしてきました。一昨年から、東京バプテスト神学校の聴講生として半年毎に1講義を受講し始めましたが、是非バプテストの歴史についても学びたいと思い、今期は"バプテスト史"を受講しました。

◆バプテスト教会は16世紀のヨーロッパ大陸の宗教改革の潮流の中で、イングランド国教会の改革を徹底しようとしたピュリタン分離派を母体として歴史の舞台に誕生しました。ローマ教皇をはじめとする高位聖職者の腐敗、ローマ・カトリック教会の教えに抗議し、真の聖書的教会を形成しようとしたのでした。信仰の基準、権威としては「聖書と教会の伝統」を、救いの条件としては「信仰と良いわざ」を主張するローマ・カトリック教会に対して、バプテストは「聖書のみ」、ただキリストの恵みを信じる「信仰によってのみ」を主張しました。

◆私は、バプテスト史を学び、先人たちの命がけの活動があって今日のバプテスト教会があることやバプテストの拘り、良き伝統や課題についても知ることができ、バプテストがますます好きになりました。と同時に、日本のクリスチャン人口の少なさを考える時に、教派を超えた伝道の必要性についても痛感させられました。

◆バプテストの信徒手帳には、バプテストの歴史や特徴について分かり易くまとめられていますので、是非、もう一度手にとってみてはいかがでしょうか。

澤田 猛
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