今週の一面『 ビジョン修養会 』1/17  

Shin1

◆10日(日)~11日(月)、総勢14名でビジョン修養会(山中湖)を行いました。森の中にある会場(山荘)は貸切状態でとても静かでした。そのような中で2日間、ゆっくりじっくりJOYチャペルの今後のビジョンについて語り合うときが与えられとても感謝でした。

◆様々な議論がなされ、時には熱い意見がぶつかり合うこともありました。その様子を見て私は、皆がいかに教会のことを真剣に考え、いかに教会を愛しているか、ということを思い知らされました。

◆ある方が「私たちは一つ(同じ)にはなれないけれども、一致することはできる!」と言われたことが心に残っています。全員が同じことはできないけれども、それぞれが与えられた賜物を持ち寄り、役割を果たすことで、私たち一人一人はキリストにおいて一つになれるのだと思います。

◆それぞれの役割を「歯車」に例えることができます。「歯車」は色々な形や大きさがあるのに、それぞれが影響し合っています。一つが壊れたら全体が動かなくなってしまうのです。聖書は私たち一人一人を、体の器官の一部分だと教えています。それぞれが役割を果たすことで体(教会)は健康になれますが、しかし、一部分に痛みや不調があると体全体に力が入らなくなってしまいます。

◆また、「一致」と「協調性」は同じではありません。皆が少しずつ我慢して和を保つのではなく、人が自分と違い、皆と違うことを認め、尊重することで「一致」が生まれてくるのです。自分が皆と違うことをむしろ喜びましょう!私たちは、体の器官や歯車のように一人一人が違うからこそ初めて全体として機能することができる。即ち、愛の教会としてキリストに仕え、歩むことができるのです。

松﨑 準

◆「感性」とは何でしょうか。私は小さい頃よく「あなたは感性がない」と親や学校の先生から言われました。私はこれまで「感性」とは、物事を見たり聞いたりしたときの感じ方やセンスのことであると思っていました。例えば、ある映画を観たときに作者の意図をどう感じ取るかということ。確かに私は少し苦手かも知れません。そのセンスも無い。

◆ある説によれば、「感性の三要素」というものがあるそうです。それは、「気づき」、「感動」、「行動」だそうです。何かを見たり聞いたり体験したりした際、これまでの自分の体験との違いに気づき、感動し、何らかの行動を取ることが「感性」なのだそうです。気づきと感動だけでは駄目で、行動が伴うことで感性は感性するというのです。「感性を磨く」という言葉がありますが、そこには「行動すること」も含まれるのだということを私は初めて知りました。

◆新約聖書の『ヤコブの手紙』にこんな御言葉があります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)この御言葉から、「信仰」とは聞いて受け入れるだけではなくそれを実践することなのだ、ということを教えられます。「愛」も同じ。つまり、「感性」も「信仰」も「愛」も実践しなければ成り立たないのです。

◆これまで私は何かに行き詰まったり、悩んだりした時には、ただ祈り考え込むだけで、あまり行動に移すことはありませんでした。しかし、今回、あることに行き詰った時、ある意味開き直って、直ちに行動に移してみると、次から次へと新しい視点が与えられ、視野が拡がり、更に様々な気づきや感動が与えられました。

◆これまで、言えなかった人に「ごめんなさい」と言ってみましょう。教会に誘えなかった人を誘ってみましょう。一歩前に踏み込んでみましょう。必ずそこにイエス様がおられます。

松﨑 準

◆新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

◆「世間は新年の贈り物をしたいだろうが、あなたは施しをすべきである。世間は陽気に歌いたいだろうが、あなたは聖書の御言葉に近づくべきである。世間は急いで劇場に赴きたいだろうが、あなたは教会に行くべきである。世間は自分を酔わせたいだろうが、あなたは断食すべきである。」(神学者アウグスティヌスの言葉より)

◆新年早々、耳が痛くなるような言葉ですが、どこか心に迫る言葉です。この新しい年、私たちはこの世に妥協せず、都合のよい言い訳をせず、心静めて謙遜に主に仕えたいと願います。

◆私は新しい歩みをはじめるにあたり、3つのことを大切にしたいと思います。①主に従うこと、②主に委ねること、③御言葉を実行することです。私たちがイエス様の前に出て進むことは十字架の道をそれてこの世の道を歩むことです。私たちの歩みはイエス様を追い越して自分の理想や欲望に従うべきではなく、常に後ろに回ってイエス様の御心に従うべきです。

◆遠くばかりを見て、足元にある大切なものを見失ってしまったことはないでしょうか。この新しい年、今日生かされている恵み、与えられている尊い一日を先ず主に感謝し、大切にしたいと思います。自分の理想や計画を捨てる勇気を持って、主にすべてを委ね、先走ってイエス様の前に出ないように、イエス様の後ろに付いて一歩一歩従っていきたいと思います。そのような歩みが御言葉を実行する(御言葉を生きる)ことに近づくのだと思います。この新しい一年、共に主に従って歩んで参りましょう! 

松﨑 準

◆36年の牧師としての働きから協力牧師になるにあたり、心がけたことは「捨てる」ということでした。

◆手始めに、書籍の3分の2を処分しました。愛着があり、まだ必要になるのではと思いを振り切って、ダンボールに詰め込みました。身が切られる思いでした。

◆しかし、どうしても捨てることが出来なかった書物は「祈り」に関する書籍でした。私は今までに数多くの信仰者の祈りに励まされてきました。牧師室で涙して祈る義父松村秀一牧師の祈りを知り、早朝4時半に起き出て聖霊の力によってとりなし祈る義母あき子夫人の祈りを知ります。この妻の両親によって献身の決断が与えられたのです。

◆私の心に残る祈りの人々はさらにつぎつぎと胸中に甦ります。聖霊の火を放って澄み輝く目の奥に、祈りの姿を映す私たちの結婚の証人 ギャロット博士、知性と霊性あふれる講義の背後に積み重ねられた斎藤剛毅牧師の祈り、主イエスより欲しいもの一つを求めよと問われたとき、「祈り心を」と答えたと言われるスタンレー・ジョーンズ博士の祈り、多くの教会員の先頭にたって毎日早朝祈り会を導かれた渡真利文三牧師、淳子夫人のとりなしの祈りを知ります。

◆旧約・新約聖書に登場して来る数多くの人々の信仰と祈りは私に大きな感化を与えてきたし、教会史上に光を放つ信仰的人物の日々の生活に、祈りがいかに大きな比重を占めていたかを私は知らされます。

◆世に祈りに関する名著を求め、感銘を受け、今日まで伝道者として走り抜いてこれたのです。

石田政美

◆去る12月8日(火)JOYチャペル礼拝堂において、ハッピーJOYひろばとRMG(緑園マザーズゴスペル)とBible Caféそれぞれの参加者と合同でささやかなクリスマス会を持ちました。参加者の中には、6日(日)礼拝後に配布したチラシを見て来られた方もおられ、総勢50名以上が集まりました。

◆有田姉のこどもたちへの絵本読み聞かせ・メッセージ、RMGのクリスマスソングの賛美、そして、牧師のメッセージという流れでプログラムは進んでいきました。ノンクリスチャンが圧倒的に多い中で、これら三つのプログラムが神様によって一本の線でつながれ、一つにされ、とても心あたたまる時となり、多くの方々が感動をおぼえたのではないかと思います。

◆私は、その中でもRMGが賛美した " Will You Know" という曲の歌詞に心打たれました。
♪イエス様がおいでになったら、
ある日あなたの家のドアをノックするかもしれない。
その時その方を招きいれますか♪

◆この歌詞を聞くと、イエス様をまだ信じていない人の心のドアをノックするイエス様をイメージできるかも知れません。しかし、この時私はイエス様が、他でもない私の心のドアをノックしておられるように感じました。「あなたは、どんな時でも私を受け入れることができるか。私のためにあなたのドアを開く勇気があるか。」と問われているように感じ、今一度自分の信仰を見つめなおす大切な機会となりました。イエス様をすぐ近くに感じました。このアドベントの時、私たちは心からイエス様を待ち望み、受け入れる準備をしたいと思います。

松﨑 準

◆アドベント(待降節)には、4本のキャンドルを立て、アドベント第1週から順々にキャンドルを灯していく習慣があります。欧米では、アドベント・キャンドルに、クリスマスの「典礼色」である「紫」が使われるのが一般的で、「紫」には「悔い改め」や「待望」の意味があるからだそうです。4本のアドベント・キャンドルは、それぞれ、「預言のキャンドル」、「天使のキャンドル」、「羊飼いのキャンドル」、「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」を表わします。第三のキャンドルは「喜び」を表わすので「紫」の色を薄めた「薔薇色」あるいは「ピンク」を使うこともあるようです。

◆キリストは、聖書の預言の成就としてお生まれになった私たちの「希望」です。クリスマスに天使が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)と告げた「平和」は、キリストによって、私たちに与えられます。キリストに礼拝をささげた羊飼いたちが「喜び」に満たされたように、私たちも、キリストによって喜びを味わうことができるのです。それは、クリスマスにお生まれになったキリストこそ、神の愛そのものだからです。アドベント・キャンドルの習慣は、聖書から生まれ、聖書が教えるキリストを指し示すものです。

◆私たちも礼拝毎にアドベント・キャンドルを灯しながら、私たちの「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」であるキリストを思いつつ、また、その背後にある父なる神の私たちに対する切なる思いに心を向けつつ、このアドベントの時を共に過ごしましょう

松﨑 準

今週の一面『世界祈祷週間』11/29  

Shin1

◆バプテスト連盟の教会では、毎年アドベントの時期に世界伝道を覚える「世界祈祷週間」を守っています。何故この時期かと言いますと、中国に派遣されたアメリカ南部バプテスト連盟の宣教師ロティー・ムーンの呼びかけに応えて始まった「ロティー・ムーンクリスマス献金」がこの祈祷週間の起こりだからです。

◆困難の中での中国伝道、しかし、福音は徐々に受け入れられロティーは「ここには、イエス・キリストを必要としている人が大勢いる」という確信が与えられました。救いを求めている人たちのために、もっと多くの宣教師を派遣してほしい、そうロティーは南部バプテスト連盟の外国伝道局に訴えました。しかし、資金的な問題から宣教師の派遣はなかなか実現しません。そこでロティーは女性たちの集会で献金を呼びかけました。「神様が御子をお送りくださったことに感謝して、クリスマス前の時期に是非、捧げ物を」との呼びかけに応えて世界伝道のための「クリスマス献金」が始まりました。この献金運動から、バプテスト連盟の教会ではアドベント最初の日曜日を世界伝道のために祈る日、「世界祈祷日」として覚えることとなり、さらに一日ではなく一週間をそれにあてると言うことで、現在の「世界祈祷週間」となったわけです。日本でもこの献金によって、宣教師、また国際ミッションボランティアとして奉仕する人々が派遣されています。

◆私たち日本バプテスト連盟の教会もアメリカの人たちによるこの献金によって支えられてきました。ですから、日本の教会の土台は世界祈祷献金によって据えられたと言っても過言ではないのです。そのような意味で、世界祈祷週間は私たちにも深い関わりのあることなのです。

松﨑 準

今週の一面『 もう一つの足跡 』11/22  

Shin1

◆「ある人が夢を見た。砂の上に二人分の足跡が、並んで続いている。ひとつは自分のもの、もうひとつはイエスの足跡だ。ああ、神がいつも私と歩んでくれたのだ、と感動する。ところが人生のいちばん辛いところを歩いていた時、足跡はひとり分になっている。『主よ、私がいちばん苦しい時に、どうして一緒に歩いてくださらなかったのですか』イエスは答えた。『友よ、あなたが歩けなくなった時に、私があなたを背負って歩いたのだ』」(『聖書88の言葉』より)

◆2006年に私の父が64歳でバプテスマを受けた際、信仰告白の中でこんなことを言っていました。「これまでの人生を振り返ってみると、あの時も、この時も、あの一番辛かった時も、自分はイエス様を知らなかったけれど、イエス様が自分のことを知っていてくれたことに気がつかされました。それによって、自分のこれまでの歩みがすべてキリストという一本の線で繋がったように思います。」私はその父の言葉に驚き、本当に父はイエス様と出会ったのだと確信しました。

◆問題や課題の只中で苦しんでいる時、私たちは孤独を感じ、自分独りで歩いているように思ってしまう。しかし、振り返ってみると、色々な場面であの人が助けてくれた、この人が一緒に祈ってくれた...ということを思い出すでしょう。一人分の足跡は、自分のものではなく、自分を背負って歩いてくれたイエス様のものであることに気がつくでしょう。

♪たとえばわたしが、歩けなくなっても、わたしを背負って、共に歩いてくれる。たとえばわたしが道を外れても、わたしと共にいて、そこを歩いてくれる。共に生きる喜びかみしめながら歩いて行く、わたしのそばにはいつももう一つの足跡♪
(新生讃美歌570番「たとえばわたしが」1番)

松﨑 準

◆ある会社の経営者が語った言葉が、心に残りました。「最も危険なことは、急ぎの仕事が重要な仕事を押しのけてしまうことです」。

◆私たちは緊急な事と重要な事の狭間で、絶えず緊張して生活しています。問題は、重要なことは今すぐにしなくてもいい、というところにあります。祈る、聖書を読む、病人を見舞う、ノン・クリスチャンの友人を訪問する、お礼の手紙を書くーーーーこうした事は、今すぐでなくても良い場合が多いのです。しかし緊急の仕事は、今すぐしなければならないという圧迫があります。

◆こうした生活のパターンは、本当に重要なことができなかったという虚脱感に悩む(緊急という惑わしの奴隷になっている)のです。

◆イエスさまは、緊急事態に振り回されないで自由になる道を示してくださいました。「わたしの言葉にとどまるならば...あなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)と。「わたしの言葉にとどまるなら」...これが自由への道です。神のみことばを祈り、深く黙想(ディボーション)することによって、キリストのように何が大事かを見抜くことができるのです。

◆日々感じている欲求不満を取り除く唯一のものは、神の望んでおられることを行うことです。今日、この時、この場で、自分は父なる神のみ旨を行っているのだ、と知ること以上に素晴らしいことはありません。その時にはじめて、私たちは他の未完成な課題を平常心で受け止めることができ、それを神にゆだねることができるのです。

石田政美

今週の一面『 幼児祝福式 』 11/8  

Shin1

◆「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ10:13-16)

◆この聖書の言葉を読むと、息子が5歳のとき、「教会でバプテスマを受けたい」と言ったときのことを思い出します。私は息子に、「まだ分からないから、もっと大きくなってからでいい」と応えてしまいました。イエス様のところに来た子どもたちを妨げた弟子たちの姿と自分の姿が重なり、今でも恥ずかしい気持ちになります。

◆イエス様はすべての子どもたちを愛し、成長を喜び、これからもずっと共にいて養ってくださろうとしています。それなのに、大人は子どもを自分の思い通りに育てようとしてしまう。それこそが、「妨げ」なのではないだろうか。

◆「幼児祝福式」は、神様に、子どもたちのこれまでの成長を感謝し、これからの祝福を祈る時であると同時に、子どもたちを神様に委ねる、という意味も含まれます。更に言えば、子どもは神様から預かっているのです。だからこそ、親は神様の御心に従って子どもたちを大切に教え育てなければならないのです。

◆子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださるイエス様の優しいまなざしは、子どもだけでなく、すべての人に注がれています。子どものような素直な心で神様を受け入れ、すべてを委ねて生きる歩みへと導いていただきましょう。

松﨑準
24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34

過去の記事