それぞれが与えられている賜物の調和

◆「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」
(Ⅰコリント12:24)

◆パウロは、教会の調和を、人の体に譬えています。この前後の12章~14章を読むと分かりますが、そこには「賜物」のことが書かれています。調和とは、教会における賜物の調和であるというのです。体の部分々が、見事な調和を保っているように、教会の一人一人の賜物が調和すれば、それだけ教会は健全でバランスのとれた状態になるのです。「賜物が無い人」はいません。1タラント、2タラント、あるいは、10タラントの違いはあっても、ゼロという人いません。そして、「賜物にはいろいろありますが、」(Ⅰコリント12:4)とあるように、賜物には様々なものがあります。

◆パウロは、体の中でほかよりも「恰好が悪いと思われる部分」と「見栄えの良い部分」について言及しています。教会の奉仕には、目立つものと目立たないものがあります。説教や奏楽、あるいは、リーダーとしての活動などは目につく働きです。逆に、お掃除や誰かの支えとなることなどはあまり目につかない働きかも知れません。もし、目立つ働きだけが称賛される教会であるならば、それは賜物の調和を欠いている教会ということになります。なぜなら、「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」(12:24)とあるからです。

◆そして、それぞれの奉仕・賜物を結びつけ、一つとするものは「愛」である、とパウロは言っています。どんなに優れた賜物があってもそこに愛がなければ意味がありません。「愛」は、体の器官と器官を結びつけ、調和させる血液である、と言うことができます。

◆「神は自然の中に色々な木を植えたように、人の中にも色々な才を配した。だから世界一立派な梨の木も、ごくありふれた林檎を実らせることはできないし、最も傑出した才能も、ほかのごくありふれた才能と同一の結果を産むことはできない。」(ラ・ロシュフーコー)

松﨑 準

◆私は、現在東京バプテスト神学校の聴講生として、毎週1回授業を受講しています。先日の授業で、『教会は御言葉と聖霊によって世界から選ばれ、召し集められる群れ(エクレシア)であると共に、また御言葉を携えて、神の国の証人としてこの世界へと派遣される群れ(ディアスポラ)である。』という解説で、こんな例話を聞きました。

◆ヨルダン川には、上流から"フラ湖"➡︎"ガリラヤ湖"➡︎"死海"という3つの湖があります。上流の"フラ湖"は、下流に水を放流する(与える)だけの小さな湖で、"ガリラヤ湖"は、上流からの豊かな水(恵み)を受け、下流に水(恵み)を放流する(与える)ので、魚や動植物も多く豊かな恵みの湖です。最下流の"死海"は、上流からの豊かな水(恵み)を受けるだけで、どこにも放流しないために塩分濃度が高くて生物の棲めない正に死の海となってしまったのです。教会も、"死海"のように神の恵みを受けるだけで与えないならば、死の海(教会)となってしまいますが、"ガリラヤ湖"のように、沢山の恵みを受けてかつ沢山の恵みを与えていく(伝道する)ならば、神様からの豊かな恵みによって祝福され用いられる教会となるのです。

◆私たちの教会は、"ガリラヤ湖"それとも"死海"でしょうか?私たちは、主日礼拝に出席して、神様の御言葉によって、慰められたり、励まされたり、希望を頂いたりすることで、霊の糧を頂いて新しい1週間をそれぞれの生活の場で元気に歩むことができます。でも、自分さえよければそれでよいのでしょうか?あるいは、教会の外に出た途端に別の仮面を付けて日常生活を送っている方もおられるかもしれません。礼拝で頂いた恵みを少しでも日常の生活の場で分かち合ったり、伝えたり、あるいは何らかの方法でキリストの香りを放つことができれば、・・・と思わされました。『「礼拝」と「派遣」の循環が繰り返されることが、教会にとっても大切なのです。教会の生命は礼拝にあり、教会の使命は伝道にあります。』と講師の先生は強調されていました。一人一人のこととして、何ができるか考えてみませんか?

『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。』(マタイ28:19)

澤田 猛

◆「年寄りになることにコツはいらないが、年寄りでいることにはコツがいる」とゲーテが言ったのは、彼が83才の時のことだったと言われています。老いは自然的出来事ですが、老いを意味あることとするには、どういうコツがいるのでしょうか。それは各人が見つけていくべきものなのでしょうか。先日こんな言葉が目につきました。

◆「もういい年なんだから欲張らずにあきらめるのが肝要ですよ」と。そうでしょうか。私は77才の今、こう思うのです。「欲張らずにあきらめるからこそ、人は老いこむのだ」と。

◆もちろん何について欲張るのかが問題ですが、「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ3:14/口語訳)姿勢を保つことは、周囲や後に続く者たちを鼓舞することになるのではないでしょうか。

◆ヨシュア記14章に出てくるカレブという人は、とっても刺激的です。彼は85才でしたが、「私の今の力は、戦いにも堪えることができます」と言い、「この山地を私にください」と願っています。恐ろしげな巨人の住んでいるユダの山地で最も高い所にある難攻不落の町へブロン、神が45年前カレブとその子らに約束した山地を!」と言っているのです。

◆クラーク博士をもじって言えば、「老人よ、大志を抱け!」です。自分に乗り越えるべき山がある限り、人は老いないと言われます。大志を抱き、乗り越える山をめざして歩む年配者のいる教会は幸いなるかな。

石田政美

◆若者と大人は調和できるでしょうか。また、何をもって調和と言えるのでしょうか。歴史はそれが容易でないことを証明しています。古代エジプトの碑文に、すでに「今の若者は困ったものだ」という意味のことが書かれていたそうです。聖書における若者が見せた悪い例を見てみましょう。
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し...」(出エジ1:8)

◆ヨセフはヘブライ人でありながら、エジプトにとって国家的な大恩人でした。そのヨセフを知らないというのは、この新しい王が歴史を知らない、いや知ろうとしない、先人たちの業績に無頓着な人物であったということです。その結果、この王はヘブライ人を奴隷のように扱い、彼らが強くなるのを恐れて男の子の抹殺を図るなどの暴挙に出ます。それは、過去を学ぼうとしない、先輩たちに対する敬意を欠いた姿勢がもたらしたものと言えるでしょう。若い人は、年をとった人たちのやり方を批判し、自分たちのやりたいようにする。それが若さです。しかし、それがどんなに素晴らしいものであっても、これまで教会をたてあげてきた先輩たちに敬意を持たないでよいことにはなりません。

◆次に、聖書における大人が見せる悪い例を見てみましょう。
 「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(Ⅰテモ4:12)

◆パウロは、若いテモテにこのように教えました。パウロはテモテの先生です。しかし、この先生は生徒(弟子)であるテモテに敬意を払っています。パウロは、人は年が若くても軽く見られることなく、人々の模範にさえなれるのだと考えていたからです。

◆若いということは経験の不足を意味し、未成熟ということです。テモテのように教えられなければなりません。しかし、若い者はダメだ、と決めつけ、その可能性を引き出そうとしないとしたら、それは大人の傲慢であり、敬意の不足と言うほかありません。

◆教会の中で、若者が大人を尊敬し、大人が若者に敬意を払うなら、そこに調和が生まれます。教会には若者と大人のどちらの存在も必要なのです。そして、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)とあるように、若者も大人も、共に聖霊に導かれ、一致して祈るならば、教会において調和と力強い働きがみられるようになるでしょう。 

松崎 準

◆徴税人ザアカイは、イエス様に出会ってすぐに、自分の財産を貧しい人へ施すことと,不正に取り立てた税を四倍にして返すことを約束します。これはただ財産を施すことではなく、イエス様のために働くという「献身」の意志を示したものです。使徒言行録16章14~15、40節に紫布の女商人リディアが登場します。リディアは、パウロ一行が祈りをする場所として、自宅を提供することを申出ました。そして、このリディアの家がフィリピの初代教会となったのです。リディアは、自分の信仰、家、財産は全て主の物と理解し、その提供をするという、献身をしたのです。

◆私は、25歳になって間もなく、それまで勤めた自動車販売会社を辞めました。それは、土地家屋調査士として独立する方が教会にいて、「仕事をしながら教会の働き、伝道のための働きをすることが出来る、信仰者の事務所として拡大することも出来る。手伝ってくれないか。」という誘いがあったからでした。聖霊が働いたのです。あれから38年が経ちました。最初の計画とは違って今は、私一人で土地家屋調査士事務所を開業しています。

◆26歳の時に前の事務所に異動して、資格を取りました。外へ出ることが自由に出来ましたので、ついでに教会の用事などが出来ました。38歳の時に独立し、47歳少し前にJOYに導かれました。礼拝以外の平日の時間は比較的自由ですので、銀行関係、社会保険事務所などの役所廻り、連盟関係の仕事など平日の奉仕をさせていただいています。ザアカイの記事からこれも献身かなと思わされました。後に続く方が起こされますように祈ります。  

伊東昌彦

〜ダニエル書に生きる(2)〜

◆今日の世相は、一つの霊的な事実を示しているようです。それは、私たちが「終わりの時代」を生きているということです。

◆今の時代、十分に暗い時代です。さまざまな状況が危機的になっています。時代は終末の様相を深めています。

◆「万物の終わりが迫っています」(第一ペテロ4:7)と、聖書は何度も繰り返し世の終わりがあること、そして、主の再臨が明言されています。またクリスチャンが、教会が迫害され憎まれること、人々の愛が冷えることも書かれています。

◆ダニエルは、大患難期について幻を見せられた時、その中に終末時代の神の民の姿をかいま見て、その様子をこう述べています。「自分の神を知る民は確固として行動する。」(ダニエル11:32)と。

◆神を知れば知るほど、もっともっと神に信頼を置き、危機的状況の中での徹底した主への信頼が求められます。ダニエルの力は彼が徹底して信頼した神にありました。神が共におられるという確信が、ダニエルに勇気と行動力を与え、全能者の御手を動かしたのです。

◆終末時代は人間の限界を知らされると同時に、人間の限界は神の機会(働かれるチャンス)でもあります。徹底した主への信頼に生きていこう!

石田政美

◆日本の多くの教会は、男性よりも女性の方が多いと言われています。JOYチャペルの場合は現時点では例外かも知れません。野田秀牧師はこのように言います。「女性がより宗教的であることを証ししているのかもしれません。女性はより情緒的であり、グループを作って行動するが、男性はより論理的であり、個人で動く傾向が強いことが関係しているのではないか。」

◆しかし、教会の現実を見ると、牧師やリーダーの多くは男性です。聖書を見てもイエス様の弟子たちのほとんどが男性でした。また、聖書の中に明らかに男性が優位である、と理解される記事が多くあります。それを根拠に女性牧師や教師を認めない教派も残念ながら存在します。また、現代の日本の社会、あるいは、教会にも、まだまだ男尊女卑の文化が残っています。しかし、だからと言って、女性が男性よりも劣っているということではありません。男性と女性には大きな違いがありますが、主なる神の前には全く平等であり、むしろその違いを調和させることによって、神の栄光を現わすことができるのです。

◆教会での奉仕について考えてみても、男性にも女性にもそれぞれできること、できないことがあります。つまり、男性も女性も互いを必要としているのです。お互いがお互いの得意なところを認め合い、苦手なところを補い合うことを通して、教会における男性と女性の美しい調和が生まれるのです。

◆「これは女の仕事、これは男の仕事」という常識や文化を超えて、男であろうと、女であろうと、キリストに愛され用いられる器として、共に教会に仕えていきましょう。

◆「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

松崎 準

〜ダニエル書に生きている〜

◆大変な不安と恐れの時代になりました。世の終末を思わされます。ダニエルの時代と形は異なるものの、この世の主権者がますますその力を強固にし、民を深い不安へと駆り立て、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。ーーーそのとき、多くの人がつまづき、また互いに裏切り、悩み合うであろう。ーーーまた不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」(マタイ24:7〜10,12)というイエスさまのおことばが、現実性をもって私たちに迫っています。

◆ダニエル書は、ヨハネの黙示録に並ぶ「終末預言書」です。神が終わりに生きる神の民に与えられた預言書です。なによりもダニエル書は、現代への実に大切なメッセージに満ちています。

◆ダニエル書は生きています。終末預言をテーマにしながら、終末期、あるいは、不安と恐れの時代に生きる信仰者に大きな希望を与えてくれます。それは「主を恐れる人々の生き方」とその力の秘訣を提示しているからです。

◆今こそ、生ぬるい中途半端な信仰を捨て、ダニエル書を通して示された真の主権者なる神に対する恐れと従順の信仰に生きましょう。必ず自らの身が守られ、祝福された信仰生活と勝利するクリスチャン生活の秘訣を知ることになります。

◆10月よりダニエル書の講解メッセージを語ります。

石田政美

Ⅰ列王記17章に預言者エリヤが登場します。
◆エリヤは主から悪王アハブのもとに遣わされ神のことばを伝えます。しかし、そのまま戦うのではなく、「ここを去って、ケリテ川のほとりに身を隠せ」と静まることを命じられます。ここに宣教に備える主の訓練を見ます。私達も主に用いられるに先立ち、主からの訓練を受ける必要があります。

◆私達は生活の中で色々な闘いに直面しています。その課題の大きさと、時間のなさ、無力さに心が騒ぎます。しかし私達にとって最大の敵は、生活課題を通して忍び込んでくる霊的闘と言えるでしょう。

◆私は23歳で父を亡くし、それをきっかけに母がアルツハイマー病になり、大学4年の時から困難な介護生活が始まりました。当時は介護保険もなくデイサービスなどの公的サービスもない時代でした。しかし最もきつかったのは自分自身の心の内に沸いてくる、怒り、悲しみ、汚れた思い、そして愛のなさと孤独感との闘いでした。

◆エリヤがケリテのほとりで、汚れた鳥の象徴であるカラスや、シドン人(異邦人)のやもめに養われなければならなかった人生の経験というのは、それまでの彼のプライド、常識、価値観が打ち砕かれていくものでした。 
「自分はできる」という自信が打ち砕かれ、主のみことばにすがるほかはない自分に砕かれ切っていく必要がエリヤにもありました。

◆そこを通ることで、生きて働きかけて下さる神様への全き信頼が養われていきました。そしてこれこそ、神の御力を注がれる上で必要なことでした。私も母の介護を通る中、自分の死と生ける神様の御臨在を体験させられたのでした。宣教とは、砕かれて死んだ私が、今は主の内に生かされている喜びを届けていくことに他ならないと言えましょう。

酒匂キリスト教会 勝俣慶信牧師

◆教会形成をしていくときに、牧師と信徒の間に調和がとれていないとしたら、どうでしょうか。教会はオーケストラに似ています。オーケストラの目指すものは美しいハーモニーです。調和のとれた演奏をするためには、指揮者と楽員との間に調和がとれていなければならないように、牧師と教会員の間にも調和がなければ、教会は不協和音を奏でてしまいます。そのような教会に人が集まってくるでしょうか。

◆野田秀牧師は、教会(牧師と信徒)の調和を阻む原因には3つのズレがあると述べています。
1.「自分たちの教会をどのような教会にするか」という理想にズレがある。
2.教会の置かれた地域や、それにともなう文化からくるズレがある。
3.牧師と信徒の間に、個人的な感情によるズレが生じることがある。

◆これらのズレを解消するためには、牧師も信徒もそれぞれ自分のこだわりや主張を相手に押し付けるのではなく、一旦立ち止まり一息ついて、お互いがお互いの立場に立って考えてみる、ということが必要かもしれません。
◆「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。...弱い人に対しては、弱い人のようになりました。...福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリ9:19~23)

◆パウロが皆と福音に共にあずかるために、自分自身を無にして相手に仕えようとする姿勢が見えます。牧師も信徒もこのような姿勢で教会に仕えることができたら、いかなるズレが生じても、キリストの愛と忍耐によってそれらのズレを埋めることができます。そこではじめて、牧師と信徒の調和が生まれ、美しいハーモニーを奏でることができるのです。

松崎 準

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