◆昨年11月、天城山荘において、小林洋一先生(西南学院大学名誉教授)の旧約学セミナーがあり参加しました。三日間の講話と分かち合いを通して、私は、魂が聖められる思いでした。
講話の中で先生は、詩編86編から、「神の本質について」語ってくださいました。
「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。」(詩編86:15)

◆神は最初から最後まで、人との関わりが一貫して変わらない真実な方である。神は、人が道をそれることのないように、預言者たちに裁きの預言をさせているが、救うために本当に人と関わってくださる。

◆ヨセフ物語(創世記37~50章)の中で、ヨセフは数奇な運命を辿るが、神はどんな事も良きに変えてくださる方であることが聖書で証しされています。

◆私たちの人生には「どうして」、「なぜ」という出来事が次々と起こるが、最後には、神は天国へと導く道を備えてくださる方なのです。今日、世界各地で様々な動きがありますが、今後も主に希望をおいて主を賛美し、主を信じて従っていきましょう。

神山 武

◆詩編第1編は、詩編150編全体の序文として置かれています。つまり、詩編第2編から第150編までがこの詩編第1編にギュッと凝縮されているということが言えるのです。その証拠に1節の最初の「いかに幸いなことか」の「幸いなことか」という言葉はヘブライ語でアシュレーと言い、ヘブライ語のアルファベットの最初の文字アーレフで始まります。そして、6節の最後の「滅びに至る」の「滅びる」という言葉はヘブライ語でトベードと言い、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字タウで始まります。これは、詩編の最初から終わりまでのすべてを要約的に一つにまとめることによって人間の人生全体を包括的に表しているということなのです。詩編第1編の著者は二つの道(義の道と悪の道)を比べて義の道を歩むように勧めています。

◆2節に、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とありますが、このような歩みこそ、義の道を歩むクリスチャンの理想的な人生と言えます。私たちの心には、イエス様を信じていると言っても、「悪い思い」や「罪の性質」は出てきます。主が私たちをご自身の栄光の姿と同じかたちに変えてくださるまでこの葛藤は続きます。しかし、二つの道のうち、「義の道」を選びとって歩むようにすることはできます。そのように歩む人は幸いだ、と聖書は告げるのです。

◆では、どうやってそのように歩むことができるでしょうか。それは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」ことです。「昼も夜も」とは一日中、という意味もありますが、昼のように人生が順調な時も、夜のような試練の中にある時も、という意味もあるでしょう。

◆「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2)とあるように、昼も夜も、時が良くても悪くても、御言葉を心に留める人は、やがて豊かな実りが与えられるのです。

松﨑 準

◆毎月1回、日立教会へ石田政美先生を派遣くださり、また、松﨑準牧師はじめJOY教会の皆さまのお祈りに感謝いたします。無牧師の日立教会が、今ここに立つことが出来ているのは、勿論、石田先生のお働きによるところが大きいのですが、先生との信頼関係を築いていく中で、何よりも聖霊の働きによって、このことが成されたのだと確信できたことを、父なる神さまに感謝しています。

◆さて人生を快適に過ごすために「断捨離」が注目されるようなったのは2010年頃からです。この年の流行語大賞にもノミネートされた、この「断捨離」とは、入ってくるものを断ち、要らないものを捨て、物への執着から離れる、ということです。

◆聖書に、イエスさまが弟子を選ぶ記事が出てきます。例えば漁師であったペトロ、ヤコブ、ヨハネたちは、イエスさまの招きに応じ、船を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。徴税人レビ(マタイ)は、何もかも捨てて立ち上がり、イエスさまに従ったとあります。

◆捨てるという意味では同じように見えます。しかし、前者は要らないものだから捨てるのですが、後者はそうではありません。要るもの、むしろ働く場であり、生活の糧を得る手段であり一番必要なもの、それを捨てた、ということです。

◆2015年3月14日に、私を含め3名の兄姉と一緒にJOY教会を訪ね、石田先生へ月1回の説教と教会員への教会形成の指導・教育をお願いしました。この時点で、日立教会は、少なくとも次期牧師の招聘について、「捨てる」という決心をした、と石田先生は受け止めてくださったのです。

◆あれから約2年、石田先生の講壇支援、助言からスタートし、JOY教会から様々な励ましを頂きながら、私たちはここに立っています。今、日立教会は元気です。喜びを感じています。風が吹き始めました。この喜びをさらに広げていこう、そこに希望をおいて祈り続けようとしています。そうすれば、イエスさまは、捨てたものを加えて与えてくださると信じています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、
これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

日立バプテスト教会 井伊 肇

「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(1節)「どのようなときも」は、私たちの生活全体を表しています。私たちはそれぞれの生活の中で、神様とどのような関わりが持てるでしょうか。
☆神様は私たちの生活の中でどのように関わってくださっているか。
主は求めに答えてくださる(5節)。
主は脅かすもの(苦難)から常に救い出してくださる(5、7節)
主は良いものを欠けることなく与えてくださる(10、11節)。
主は従う者に目を注ぎ、耳を傾けてくださる(16節)。
主は悪を行う者を見ている(17節)。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる(19節)。
主は悔い改める者を救われる(19節)。
主は従う者の骨をことごとく守られる(21節)。
主はしもべの魂を贖い出される(23節)。
主は、主を避けどころとする者を罪に定めない(23節)。
    ☆そのような主に対して、私たちはどんな姿勢で関わることができるか。
主をほめたたえる(2節)。
主を喜ぶ(3節)。
主の御名をあがめる(4節)。
主を求める(4、11節)。
主を仰ぎ見る(6節)。
主の恵み深さを味わう(9節)。
主の恵み深さを見る(9節)。
主に身を寄せる(9節)。
主を畏れる(8、10、12節)。
主に叫ぶ(16、18節)。

 以上のように、主が私たちに愛をもって関わり、働きかけていてくださることに対して、私たちが応じていく。それが信仰であり、それぞれが生活の中で経験することができるのです。日常生活は困難の多い戦いの場です。その中でクリスチャンとして生きることは必ずしも容易なことではありません。「主に従う人には災いが重なるが」(20節)とある通りです。しかし、そうであればこそ、生活の中で信仰に生きることの意味は大きいのです。「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」生活に身を献げていきましょう!

松﨑 準

今週の一面『アブラムの召命』 1/1  

Shin1

新年明けましておめでとうございます!本年もよろしくお願い申し上げます。

創世記12章において、神様からアブラムに一つの召命が与えられます。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」(1節)。これは、単なる会社の辞令のようなものではありません。自分の生まれ故郷や住み慣れた地を離れて、どこかも分からない神様が示される地に向かって出ていく、ということはもしかしたら、もう二度と戻れないかもしれない。親しい人たちと会えなくなってしまうかも知れないのです。
アブラムの心境はどうだったでしょうか。もしかしたら、「神様、それは困ります。私には家族が大勢いるし、家畜も沢山います。引越が大変だから嫌です。」あるいは、「私はこの土地がとても気に入っています。友達も皆良い人です。だから、どこにも行きたくありません。」等と思ったかも知れません。しかし、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)のです。
 召命とは、神様からの召しに命をかけて従うことです。そして、それは、人柄や能力を問いません。また、アブラムがハランを出発したとき彼は75歳であった、と聖書に記されていますように、年齢も問いません。何歳であっても新しい人生を歩むことができる。それは本当に素晴らしい恵みではないでしょうか。
 アブラムたちは、神が示されたカナン地方に入りました。しかし、そこにはカナン人(異教の民)が住みついていました。アブラムの期待と現実は全く違っていました。「話が違うじゃないか」と思ったかも知れません。しかし、そんなアブラムに神様は語りかけます。「あなたの子孫にこの土地を与える」と。
そして、新しい土地に来て、ショックを受けたアブラムでしたが、そこで彼がまず行ったことは、自分たちが住む家を作るのではなく、生きていくために必要な井戸を掘ることでもなく、主なる神に礼拝をささげるための祭壇を築くことでした。彼の心の中には不安や疑いや迷いがあったかも知れません、しかし、それでも神様への感謝と応答である礼拝を一番大切にしたのです。
2017年、私たちもこの礼拝を、他のどんなことよりも大切にし、共にささげて参りましょう!

松﨑 準

イエス・キリストのご降誕を共に喜びましょう!

聖書に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とあります。
すなわち、「神の御子が人となって、この世に来られた」という意味です。神様が私たち一人一人と一緒に生きてくださる。こんな温かなメッセージは他にありません。クリスマスは、私たちとって決断の時でもあります。私たちのためにお生まれになった主イエスを心にお迎えしましょう。そして、主イエスと共に歩ませていただきましょう。

松﨑 準

 ♪待ちわびし日 静かな夜に かがやく明星 闇に勝ちて
 ♪世を照らせり きよきこの日 救いの主なる イエス生まれぬ(1節)

◆当時、北九州市に大韓教会の会員が経営する喫茶店「山小家」がありました。この讃美歌は、「山小家」を会場に、大韓教会の方たちとの交わりと、真のクリスマスを祝うために開催された青年会主催のクリスマスコンサートに向けて作られました。

◆「12月に入ると町はクリスマス一色になり、日本人は総クリスチャンになります。デパート等ではクリスマスを売り物にしている。そのような現実を憂い、"真のクリスマスを伝えたい"と祈りながら、勤務先付近の繁華街を歩いていたなかで詞と曲が与えられました。山小家はその繁華街にあり、世俗との戦いの中、まさに"真のクリスマス"を示した曲です。原曲は4番まであり、キリストの生誕のみならず生涯まで綴りました。穏やかな詞と曲ですが、"人間が作った光はどんなに輝いていても消え去る。しかし、キリストが与える光は小さくても強く永遠にひかり続ける"という力強いメッセージを込めています。」(作曲者 天野時生)

◆真のクリスマスの光は、繁華街のきらびやかな光でも、駅前のきれいなイルミネーションの光でもなく、私たち一人一人の心を照らす主の光です。今年のクリスマスイヴ礼拝の中で、この讃美歌を歌います。以上のような背景を心に留めつつ、共に賛美しましょう!

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1:14)

松﨑 準

     〜ダニエル書に生きる(3)〜

◆神は、世界の歴史を導かれる主です。ダニエルを通して、終末の時までの世界の歴史を前もって示して下さいました。

◆今、この世の主権者(「この世の神」と言われる「サタン」)は、ますますその力を強固にし、神の民を圧迫しています。ダニエルが預言している終末を思わされます。一方、ダニエルを通して示された真の主権者なる再臨の主が戸口に近付かれる足音が聞こえてきています。

◆月面を歩いた宇宙飛行士ジム・アーウィンは、そこで神の存在を確信しました。彼は伝道者になり、日本にも来られました。その彼が言いました。「人間が月の上を歩いたことよりも、もっと偉大なことは、神の子イエスがこの地球を歩かれたことだ」と。

◆神の子は、人間としてこの地に生まれ、33年の生涯を終え、見事にその任務を成し遂げられて天にお戻りになられました。

◆今年もクリスマスを迎え、救い主イエスさまのご降誕を祝いますが、一方、もう一度私たちをお迎えに来てくださるイエスさまをおぼえる時でもあります。幾千幾万の天使と共に、雲に乗って私たちをお迎えに来てくださいます。あなたの名前を呼び、あなたを迎え入れてくださる救い主がやがていらっしゃいます。クリスマスは2000年前にこの地に誕生された救い主を祝うと同時に、これからおいで下さる再臨の主をお待ちする日でもあります。 

石田政美

今週の一面~教会の調和⑤~』12/4  

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      お互いの信仰と性格の調和

◆ 「人間性」とは、その人が生まれつき持っているものに、時代、環境、教育等の影響によって形成されたものが加えられた性質です。それは「十人十色」と言うように、実に多様です。「霊性」とは、イエス・キリストを信じる信仰が人間性に影響を与え、生き方や考え方、価値観等に変化が生じた性質です(ヨハネ1:13参照)。信仰によって人間性が失われるものではありませんが、人間性と共にあった罪が赦されることによって、性格にも霊性の実が結ぶようになるのです。しかし、信仰と性格の調和がすぐにとれるとは限りません。例えば、集会や奉仕に熱心であっても信仰の知識は増し、クリスチャンとして生きていても自信過剰であり、良識を欠いているというようなことがあります。反対に、温かい性格で人にも親切であり、きわめて常識人であるのに、教会のこととなると「神第一」とは言えない生活ということもあるのです。これらは信仰と性格の調和の問題です。

◆ 教会内に何らかの摩擦が生じ、調和がとれないとすれば、それはお互いの「人間性」から来るものではないでしょうか。異なる人間性同士がぶつかり合うことで調和が難しくなるのです。
 教会が一人一人の人間性の相違を超えて調和するためには、一人一人の「霊性」が高められて、教会が霊的な存在となり、神の憐れみと共に、お互いの忍耐や犠牲がなくてはなりません。この霊的な部分を失っては、教会は存在することができません。

◆ 「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エフェソ4:5)とあるように、どこまでも信仰は一つです。教会には、お互いが、聖書が示している「一つの信仰」を確信しながら、人間性の違いを乗り越え、互いに認め合い、赦し合うことによって、「霊による一致」(エフェソ4:3)という調和が与えられます。そのためには、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊によって一致を保つように努める」(エフェソ4:2,3)歩みが必要です。

松﨑 準

今週の一面『世界祈祷週間』11/27  

Shin1

◆現在、日本バプテスト連盟はインドネシアとカンボジアに2組の宣教師、シンガポールにアジア・ミッション・コーディネーター、ルワンダに国際ミッション・ボランティアの6名の働き人を派遣しています。
◆インドネシアには、2014年9月から野口日宇満宣教師が、2015年6月から野口佳奈宣教師が派遣されています。長期滞在ビザの取得が難航していましたが、この8月に発行され、働きの基盤が整いました。スマランのチャンディ・バプテスト教会に所属し、日宇満宣教師は、インドネシア語を学びつつ、神学校での集中講義の授業補佐や、教会での宣教奉仕を担ってきています。また野口佳奈宣教師も語学学校に通い、教会の女性会の働きに加わって、インドネシアの方々との交わりを広げています。

◆カンボジアには、2015年3月から、嶋田和幸宣教師、嶋田薫宣教師が派遣されています。教会はCBU(カンボジア・バプテスト連合)のオフィス教会に所属し、和幸宣教師は語学学校での学びと、教会での宣教の奉仕、薫宣教師は礼拝中の子どもプログラムを通して、教会に仕えています。8月からは月に一度夕食会を持ち、共に食卓に着くことで交わりを広げ、また深めていっています。まだまだ貧しさの広がるカンボジアでは、子どもたちや牧師たちへの支援が必要とされています。

◆ルワンダでは、国際ミッション・ボランティアの佐々木和之さんの働きが12年目を迎えています。現地のNGOと共に、ジェノサイドの被害者と加害者、またその家族の和解の働きを進め、そしてまた、平和構築のための働き人を育てるため、大学で平和学を教えています。卒業生の中からも共に平和のために働く人が起され、希望が紡がれていっています。

◆シンガポールには、アジア・ミッション・コーディネーターの伊藤世里江先生が派遣され、3年を過ぎました。今年20周年を迎えたシンガポール国際日本語教会・IJCSの牧師としての働きをしながら、アジアの中心であるシンガポールで、アジアと連盟をつなぐ働きをしておられます。2016年度からは第2期の働きを迎えました。

◆以上の6名の方々それぞれのお働きを覚えて、祈り、献げていきましょう

松﨑 準

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