「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)

「ある新興宗教の人々は、『こんな弱音をはくような人を神としているような宗教には力がない』と言ってあざけりました。どうして福音書の記者は、主イエスのこの叫びを、大切な記録として書き記したのでしょうか。
 旧約聖書の詩編22編を見ると、イエスの叫びと同じことばが記されています。この詩編は、キリストの十字架を預言した箇所として知られています。福音書の記者は、このことばを記すことによって、主イエスが旧約に預言されている救い主であることを証言したのです。
 これはまた、イエス・キリストが父なる神から完全に見捨てられたことをあかしすることばでもあります。神から見捨てられて当然なのは私たちです。しかし、その私たちに代わって、父なる神から完全に見捨てられ、十字架の上で主イエスがさばきを受けてくださったからこそ、私たちの救いの道が開かれました。
 『わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか』という主イエスの叫びは、私たちにとっては、なんと感謝すべき叫びではないでしょうか。『あなたをこんなに愛している』という神のメッセージにも聞こえます。」(バイブルプロミスより)

 今週は受難週です。イエス様の受難を覚えつつ、悔い改めと感謝の思いをもってこの時を過ごしましょう。

松﨑 準

 今日から2017年度が始まりました。御言葉をもって新しい一年を歩ませていただきましょう!
 「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」
(創世記26章25節)
創世記26:15以下に、イサクたちが苦労して掘った井戸を何度も奪われてしまうことが記されています。そのような理不尽な仕打ちにもかかわらず、イサクは争いを避けて主の言葉に従い歩み続けます。争いを避けて逃げてばかりのイサクは何とも頼りなく見えます。しかし、そんなイサクに主は現れてくださり、励ましてくださいました(26:24)。そこで、イサクは先ず祭壇を築き礼拝しました。その後に、彼は天幕を張り(住む場所を作り)、井戸を掘った(働いた)のです(26:25)。このように、私たちの日常生活においても「礼拝を第一とする」ことが最も大切です。「礼拝から送り出されて、また礼拝に戻って来る生活」は、月曜日から土曜日までの日常生活において、常に主なる神様を意識し続けるということです。それが「礼拝のために心を備える」ことなのです。
また、今年度は牧師辞任というチャレンジがありながら、一方では、日立教会支援の継続やバプテスマ決心者が与えられる、という嬉しい出来事が起こっています。これは、教会(私たち)の状況や都合に関係なく、神様の御計画・御心は実現していくということ。それは誰にも止められない、ということを知らされます。つまり、神様がこの教会の中で働き、この教会を更に豊かに用いようとされているのです。
 この神様の思いに応えるために、喜んで精一杯仕えていきたいと思います。そのためには、まず私たちが互いに認め合い、赦し合い、愛し合い、キリストにおいて一つとならなくてはなりません。そして一つになるためには、一人ひとりが礼拝を第一とし、礼拝において一つとされることが必要なのです。
 新しい一年、主のために、そして、JOYチャペルのために、皆で祈り合い、支え合って、歩んで参りましょう!

松﨑 準

今週の一面『力の祈り』3/26  

Shin1

3月14日(火)午後、私は、「相鉄線沿線なかよし牧師会」に出席しました。会場は、City Vision Glory Church(旭区上川井町)で、和食ファミリーレストランを買い取って改築した教会です。決して交通の便が良いとは言えない場所にあるにもかかわらず、礼拝出席人数が平均150名と聞き、驚きました。
 牧師会では、各教会の近況報告や証しを分かち合うとともに、一つのテーマに基づき学びをします。今回はCVGCの増田先生が「祈り」をテーマに発題されました。私は「祈りの実践」について神学校では学びませんでしたので、今回の学びは自分にとって大変重要な学びとなりましたので、以下、紹介します。

 「力の祈り」には、3ステップがある。
取り除く祈り
神様と私たちとの間を隔てている罪を先ず取り除く。
❶悔い改めの祈り...思い起こされる罪を告白し、悔い改める。
❷へりくだりの祈り...自分の弱さを認める。自分の心の王座を神様に明け渡す。
❸魂肉の障害要素を取り除く...心の傷、怒り、恐れ、疑い、心配、傲慢、自己中心、プライド等は、悔い改めるだけではなくならないので、神様の力(イエスの血潮、イエスの御名、聖霊の火)により外に出さなくてはならない。

聖霊に満たされる祈り
咎が取り除かれた心に聖霊をお招きする。黙想しながら、聖霊のご臨在を肉的に、霊的に、そして、心で感じるように集中して祈る。

聞かれる祈り
 言った通りになるとの信仰。自分の祈り(言葉)ではなく、聖霊が代わりに祈ってくださると感じながら祈る。「...なりますように」ではなく「...なれ!」と祈る。具体的、現実的なことを詳細に祈る。

※以上のようなステップで、一日20分以上祈ることが大切です。
 私は日々実践していますが、心がスッキリし、何よりも神様の前に素直になれるような気がします。心からすべての咎を取り除いていただき、聖霊で満たしていただき、聖霊によって祈る。こんな習慣が身につけば、私たちの信仰はより純粋なものになるでしょう。毎日できなくても祈りは積み重なりますから、諦めずに自分のペースでやってみてはいかがでしょうか。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1,2)

松﨑 準

今週の一面『複眼で見る』3/19  

Shin1

◆ある牧師が、大きな悩みをかかえた会員に牧会していました。牧師はこの一人の人に大変精力を注いでいるのを聞きJ牧師が次のように語られました。

-------------------------------------------------------------------------------
「牧会では、どうしても、一人へ傾く。時にそれが他の99匹にとって不公平と思えるほどの偏ることもある。これは『いと小さきものへの集中』なのです。」言われた牧師は、残念そうに『実は、今深刻に悩んでいるのは、自分が関わっている人ではなく、その人の配慮者の方なのです。』と。牧会者は全知全能ではない。どうしても一人に集中せざるをえない。でも、その集中が妥当なのか、吟味する複数の眼が必要なのです。
-------------------------------------------------------------------------------


◆万人祭司・共同牧会という事柄の一側面は、この「複眼で見る」という視座に立った教会形成を目指すということであると思います。

◆福音書は4つ私たちの手元に残されています。聖書自体が一つのイエス・キリストの出来事を4つに「複眼で見」ているのです。あるいは聖書は66巻あります。聖書自体が66通りの傾きで私たちに迫り、私たちを牧会し続けて下さっているのです。

◆聖書に立つ信仰に生きる私たちは、複眼で見て一つの事柄を判断し、一人づつが、一人づつに傾く。その時、多様性における一致、「キリストの体」が下から形成されるのではないでしょうか。(I.コリント12章参照)

石田政美

 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」
(Ⅰコリント12:12)とパウロが語っています。
「体」=「教会」、そして、「部分」=「私」です。体にとって一部分でも欠けたら困ります。
また、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)とあります。小指の先をちょっと怪我しただけでも体全体に力が入らなくなることがあります。でも、治れば体は元気になります。これが、本来あるべき教会の姿だとパウロは語っています。
 「教会を構成している『多様な一人ひとりの尊重』は、バプテストの教会形成における命でありエネルギーです。しかし、その多様な一人ひとりがキリストの福音を体現する『一つの体』を形作っていくために、どこで『一致』していくのか。牧師の強力なリーダーシップや戒めの遵守で『一致』をつくるのではなく、『多様な一人ひとり』が聖書を開きながら、『キリストを必要とし、他者なしに生きえない自分』を見出してゆく、祈りの深まりと成熟、試行錯誤のプロセス(途上)に教会の『一致』は与えられていくのです。」(『いま、バプテストを生きる』)
 イエス様が弟子たちの足を洗うことを通して(ヨハネ13章)、示されているように、私たちも互いに足を洗い合い、洗われ合う。すなわち、お互いの意見を聞き合い、赦し合い、仕え合い、そして、愛し合う。そのような謙遜が今、教会(私たち一人ひとり)に求められています。イエス様の教会には、私たち一人ひとりが無くてはならぬ大切な存在です。

松﨑 準

◆2月23日(木)~3月2日(木)の一週間、アメリカ・ノースカロライナ州ラーレーを訪問させていただきました。24日(金)家庭集会、25日(土)役員会・礼拝出席(南部バプテスト連盟サミット教会)、26日(日)主日礼拝・愛餐会、27日(月)ラーレー市内視察・教会員との面接、28日(火)ラーレーファーストバプテスト教会英語部スタッフとの面談・サテライト日本人集会(フェイアットビル)、以上のようなスケジュールでした。限られた時間の中で健康も守られ、非常に有意義な時を過ごすことができ感謝でした。

◆ラーレー日本語バプテスト教会(ダウンタウンのど真ん中)は、サテライトの働きとして、ラーレー周辺にある3つの教会に出掛けて行き、月に一度集会を持っています。最終日に、私はその内の一つであるフェイアットビル日本人集会を訪問しました。その町は、ラーレーの中心地から車で一時間半程南にあるフェイアットビルという軍人の町で、ノースカロライナ州の中で最も治安の悪い町の一つです。こんなところに日本人がいるのか?と思いましたが、教会に入ってみると、多くの年輩の日本人女性たちが集まっていました(35名参加)。彼女たちのほとんどが軍人の妻です。

◆一人一人と握手をしながら挨拶をしたのですが、それだけで涙を流す方もおられました。一曲でも多く日本語で讃美歌を歌いたい。日本語のメッセージを聞きたい。そんな彼女たちの気持ちが伝わり、胸にグッとくるものがありました。イエス様が私に先立ってこの集会の中におられる!だから自分もここに来るんだ!という思いになりました。ご高齢の方々に寄り添いつつ共に福音を分かち合うことがこの集会に必要な働きです。

◆この他、ラーレーから車で2時間半程北東にあるグリーンビル集会は、子ども連れの家族が多い集会です。また、ラーレーから車で2時間程東にあるゴールズボロ集会は、ほとんどが未信者です。そして、ラーレーから車で2時間半程南西にあるシャーロットの日本語教会は来年から無牧師になります。それぞれの場所で日本語での宣教の働きが求められています。自分が何をどれだけできるか分かりませんが、ただただ主に目を注ぎつつ、主の後に従いたいと思います。   

松﨑 準

◆Aさんはよく朝食を抜きます。忙しい時は、昼食を抜くことさえあります。なぜでしょうか。それは仕事や打ち合わせが、三度の食事よりも大切だと考えているからです。「人は、自分がもっとも大切だと思うことには時間を作ります」。

◆Bさんは毎朝、静思の時(ディボーション)を持って1日が始まります。なぜ続けることができるのでしょうか。「それなしに生きることはできない」と心から確信しているからです。

◆聖書に登場する偉大な人物に共通することがあります。それは彼らが、神と個人的に時間を過ごし、神と親しくなったということです。ダニエルは一国の大臣でしたが、「日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝して」(ダニエル6:10)いました。モーセは、祈りの人でした。友と時間を過ごすようにして神から知恵と力を得て、40年間200万人のユダヤ人を導いたのです。

◆イエス様は宣教活動を始めた頃、朝早くまだ暗いうちに起き、祈るために寂しいところによく行かれました。それはこの時間が、もう少し長く眠ったり、病人を癒したり、説教したりするより重要だからでした。

石田政美

◆イエス様当時の人々にとって、身近で最も大きな動物はらくだでした。そして、針の穴は最も小さいものでした。大きならくだが小さな針の穴を通りぬけることなど絶対に不可能です。不可能であることが「まだ易しい」と表現されるほどに、金持ちが神の国に入るのは難しいということをイエス様は強調して言われたのです。これは、私たちが金持ちかそうでないかを問うているのではありません。

◆神の国に入る門というのは、私たちがあれもこれも両手に抱えてその門を通り抜けようとしても、両手の荷物が引っ掛かって通れないような門です。どんなに大切な物であっても一旦その門の手前で手放さなければ、その門の向こう側で待っておられるイエス様のところに行くことはできません。また、一旦手放した荷物が気になって未練がましく後ろを振り返ってばかりいたら、イエス様と共に歩いていくことはできません。

◆イエスがこの金持ちの人に言いたかったことは、「永遠のいのちとは、行いによるのではなく、イエス自身を信じることにある」ということだったのです。しかし、「行い」と「所有」を握りしめていた彼の手は、自分の目の前に伸ばされたイエス様の手を掴むことができなかったのです。

◆私たちは今、両手にどれだけの荷物を抱えているでしょうか。イエス様に従おうとするときに、その沢山の荷物を手放すことはできるでしょうか。イエス様は、慈しみの目で私たちを見つめ、手を伸ばし、「わたしに従いなさい」と招いておられます。

松﨑 準

◆先日ある牧師のエッセイを読んで大切なことを教えられました。以下、引用します。

「牧師が専念しなければならない仕事は何かと言えば、『神様の御言葉を聴き、語ること。そして、祈る(礼拝)こと』(使徒6:4)と聖書にあります。そこで私は、普段は適当な人間なのですが、神様の御言葉と礼拝については、ついつい完璧主義に陥りがちになります。しかし、実際には完璧なメッセージを語ることや完璧な礼拝をお献げすることができたことはありません。
 そんな私にとって、先日目から鱗が落ちるような言葉に出あいました。
『許すのは大切なことだが、何を許すのか。それは、自分や他の人が神(完璧な存在)ではないことを許すのです。』
 『できる限りのことをしたい。できるだけ正しくありたい。』そう願うことはとても大切なことです。しかし、そう願う気持ちが強すぎると、私たちは自分に対しても、人に対しても、厳しい態度で接するようになってしまいます。そして、人に必要以上に厳しく接するとき、私たちは自分が神(世界の中心)になってしまうのです。よく『人の良いところを褒めて育てることが大切』と言われていますが、なぜそれが大切なのかというと『人は神ではない。しかし、神様が死ぬほど愛しておられる貴い存在』だからです。
 寒さで顔が引きつり易い季節ですが、笑顔になってほっこりしましょう。」(中原康貴牧師『風の便り』より)

◆今日は礼拝後に、臨時神の家族会が持たれます。お互いがお互いに完璧を求めるのではなく、自分も相手も完璧な存在ではないことをお互いにゆるし合いたいと思います。
「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:22)

松﨑 準

◆「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか...」(2節)という言葉は、イエス様が十字架につけられた時に、その苦しみの中で叫んだ言葉であると言われています。イエス様は十字架で神から見捨てられるという絶望を味わいました。

◆しかし、この詩編は、イエス様の十字架より千年も前に歌われたものです。ダビデは、神から見捨てられたかのような苦しみを味わいました。サウル王に命を狙われ、荒野をさまよった時もそうでした。また、息子アブサロムに王位を奪われた時もそうでした。このダビデの生涯というのは、王であったにもかかわらず、人々から裏切られ、見捨てられるという苦しみの連続だったのです。それはまるで、神の子であるはずのイエス・キリストが受けた苦しみと重なるように思われるのです。

◆例えば、17節~19節に、「犬どもがわたしを取り囲み...わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とありますが、この「犬」とは異邦人を意味します。イエス様を十字架につけたのはローマの兵士、つまり、異邦人でした。そして、彼らは実際にくじを引いてイエス様の衣を分け合ったのです。

◆ダビデは耐えがたい苦しみを受けましたが、その後、王として復帰し、イスラエルの繁栄を受けることが出来ました。それ故、この苦難の詩編の最後は、主への高らかな賛美で終わっています。つまり、たとえ神に見捨てられたかのような試練があっても、必ず回復の賛美で終わるということを、この詩編は教えているのです。ダビデも主によって苦しみから引き上げられ、回復され、主を賛美しました。イエス・キリストも十字架の苦しみの後に、復活の栄光をお受けになりました。苦しみの後には、復活の栄光がある。これは神の法則です。ダビデは「絶望から信頼」を体験したのです。そして、イエス様ご自身も体験されました。そして、今度は、私たちイエス様を信じる者が体験する時なのです。

松﨑 準

18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28

過去の記事